比較神話学【KAC20233】

カイエ

比較神話学

 比較神話学という学問があります。

 学問というか、ジャンルと言ったほうがいいかもしれません。


 内容はというと、世界中にある神話を比較して、この神話のこの神様は、こっちの神話のこの神様だな、みたいな感じで対応させていく学問です。


 わかりやすいので言うと、エンジェルとキューピッドとか、大黒天とシヴァ神とか、そういうやつです。


 ぼくはこれが好物で、とくにインド神話と神道の対応が好きです。


 ▽


 もちろん、文化的な流入が原因なところもあります。


 たとえば、外国から新しい神話が輸入されて、それが定着したパターン。

 また、輸入された神話を聞いて「ははぁ、これは我らが◯◯神のことだな」と同一視するパターンもあります。


 あまり詳しい話を書くと一部のかたに叱られたりするかもしれないので書けませんが、世界的に大きな宗教の中には、他の土着信仰や神話を飲み込んでどんどん巨大化したものもあったりします。


 日本にカトリックが入ってきた時、そこらの庶民に「ははぁ、天主さまってのは天照大神さまのことだやな」などとされて、宣教師が「日本人を教化するのは無理!」と本国に泣きを入れたなんて話もあって、あー、日本ってつくづくその辺の感覚が特殊だなーと思ったりします。


 そういう我が家はクリスマスも初詣もハロウィーンも楽しみつつ、神棚と仏壇が並んでいて、お葬式は浄土真宗スタイル、結婚式は神前で、年に一度はお伊勢さんに行きたいよねって感じの典型的な日本の家庭です。


 外国人が見たらひっくり返りますね。


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 とはいえ、ぼくは決して無神論者ではありません。

 むしろ信心深い人間に分類されると自分では思っています。


 特定の信仰は持っていませんし、何か(or 誰か)の教えに従って生きてたりもしませんが、神仏、あるいは精霊スピリットといった上位存在のおかげでこの世界が成り立っている、という感覚があります。

 たぶん、同じく信心深かった祖母の影響が強いのだと思います。

 なんというか、人知の及ばない何かの気配を感じるというか、感謝する対象は生きる上で大切な気がするというか、大体そんな感じです。


 ちゃんと信仰を持っている方にしてみたら不真面目極まりないのでしょうが、身の丈に合った信心で生きていると自分では思っています。


 ▽


 さて、いろんな神話やら伝承を見ていると、驚くほど共通点があります。

 だからこそ「比較神話学」なんて学問が成立し、海外では人気ジャンルだったりするわけですが、とにかく、文化的に関わりがほとんどない複数の神話で、細部は異なるものの、だいたい同じことが書いてあったりします。


 これが本当に神仏や精霊スピリットに起因するのか、あるいは人間の DNA に刻まれた想像の産物なのかはさておき、こういう共通項はとても楽しいです。


 だいたいの宗教や神話には人はこう生きるべき、といった指針もあって、これもだいたいのところで共通しています(なぜか神道にだけはこれがないんですよね。不思議です)。


 ぼくはこういった文化や民族、歴史を超えた共通項が、この世界の本質なのではないか? と考えていて、だからぼくは、例えば「なぜ人を殺してはならないの?」みたいな疑問を抱いたことはありません。

 いや、そらあかんやろ、普通の感覚としてさぁ、みたいな感じで、そこから「なぜ?」と言うふうにはつながっていかないです。


 だからできれば、悪意は少なく、自分の役割を果たしつつ、あまり人さまに干渉することなく、でも細く繋がりながら協力しあって生きていきたい……と、まぁ理想なので、なかなかそういうわけにもいかないのですが、なんとなくそんな感じで生きています。


 ▽


 でもって、やっと本題です。


 日本やインド、東南アジアだけでなく、欧米やアフリカでも、天地創造の物語の共通項があります。


 だいたいが、細いなにかで混沌とした海をと混ぜて、その雫から島ができたりします。


 面白いです。


 日本の国生み神話でもそうで、Wikipedia によると『天の沼矛(ぬぼこ)をまだ何も出来ていない海原に下ろし、「こをろこをろ」とかき回し矛を持ち上げると、滴り落ちた潮が積もり重なって島となった』とあります。


 こをろこをろ……海を混ぜる表現としてどうなんだろうと思うのですが、神々のセンスと人間のセンスが違うだけかもしれないのでそれは置いておきましょう。


 ほかにも東南アジアでも似た感じで、矛じゃなく船の櫂だったり、はたまた男性器だったり色々ですが、とにかく世界はぐちゃぐちゃから生まれていることになっています。

 神々もそっと混ぜたりはせず、ぐちゃぐちゃと混ぜて、その泡から◯◯が生まれた、みたいな神話も多いです。


 いまの自分が完成されてないのも当然です。

 なんせぐちゃぐちゃから生まれたわけですから、だからこそ完成に憧れるのでしょう。


 これってなんとなく安心しませんか。

 完成されてなくてもいいんだ、完成に憧れているのは不遜じゃないんだ、と神話が語ってくれていわけですので、不完全な自分を肯定するのには十分な根拠です。


 ▽


 最近、神話世界において真理とされていたことが「意外とマジなんじゃね?」といった研究結果が出てきています。


 主に仏教哲学がアツいようですね。

 量子力学の研究で「アカシックレコード、意外とアリかもよ」とか「時間って本当はなくて」とか「永遠の未来は永遠の過去につながっている」とか、はたまた「この世界は人の認識に依る」「人の精神は物事をうごかす」とかなんとか、ほんまかいな思うような研究結果が出てきてたりして、とても興味深いです。


 それが正しいのか、あるいは恣意的なものなのかはわかりませんが、どっちみち答えなんてぼくが生きてる間には出ないでしょうから、ぼくとしてはどっちでも構いません。面白いほうを信じて生きていくようにしています。


 でも、なんとなく「ぐちゃぐちゃ」から始まった我らが神話が、いまのぼくにつながっているかもしれないと思うと、この不完全極まりない世界も、意外と悪くないのかもよ? と思えてきます。

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