七の下、琥珀地獄判官(コハクノヂゴクハンガン)

 溶岩帯は果てしなく続き、それにつれてクサビは自分の位置がわからなくなっていた。


スハエの姿も見失っていまや溶岩の襞の中をはいずりまわる小動物の気分になっていた。


両側は高々とそびえる溶岩の壁に迫られ、空は一筋の線のように見える。


もうなん時も歩いているのに山へ登る感じがない。


平坦な狭い場所をひたすら歩き続けている。


世界から断絶してしまったかのようだった。


 そんな中、溶岩壁が透けて見える時がある。


幾重にもなった襞の中を戸惑いながら歩む衛士たちの姿が右手にも左手にも見える。


大声をあげて呼んだが声は届かぬようだった。


それに気を取られている間に足元がぬかるんで来ていた。


底に溜まった蜜のようなものが絡みついて足を上げるのさえ億劫だ。


蜜は溶岩壁の隙間からにじみ出ているようで、だんだんと嵩が増し、腰のあたりまで来て動けなくなった。


蜜を手に取ってみる。


刺激のある匂いがした。


クサビはその時になってようやく気が付いた。


関東最強の嬰嶽、琥珀地獄判官コハクノジゴクハンガンに取り込まれたのだと。


 蜜はクサビの喉元の高さまで達し、いよいよ息の根を止めに来たかのようだった。


泳ごうにも蜜は濃厚で重く、手先すら動かすことがままならない。


このまま蜜に埋もれて嬰嶽の中で息絶えるのか。




 その時、上方からずっしりとした衝撃音が響いてきた。見上げると一筋の空から強い光が降り注いでいる。


そして再び、衝撃音とともに地鳴りのような振動が溶岩壁を伝って、蜜溜りの表面をゆらした。


何度となく繰り返されるそれは、まさしくスハエが琥珀地獄判官へ打槌を仕掛けているものだった。


その振動は蜜溜りを揺らし、クサビの体を浮き上がらせる。


数十回も繰り返したころには、クサビは腰まで蜜溜りの上に出ることができた。


そのまま溶岩壁に手を伸ばし、自分の体を引き上げ蜜溜りを脱出すると、クサビは溶岩壁をよじ登り始めた。


壁からにじみ出てくる蜜に手や足を取られながら、確実に足場になる乾いた場所を探り探りクサビは壁をよじ登る。


その間も、勢いを増して蜜溜りがクサビの足下に迫ってきて捕えようとするが、ギリギリのところでスハエの打槌がそれを押し返す。


その繰り返しでクサビはようやく溶岩壁の頂上に手が届くところまできた。


ところがクサビがあと一手を伸ばそうとした時、溶岩壁が内側に倒れはじめた。


一筋の光が閉ざされようとした時、クサビは己の内なる衝動を一気に吐き出した。


嬰喰を放ったのだ。


「糞が。おせえんだよ」


 スハエの罵倒さえ懐かしく感じた。


 溶岩帯は、あふれ出る蜜に覆われ黄金色に輝いていた。


その表面に衛士たちの姿があった。


その中にザワを見つけてクサビは安堵した。


よって、今向かうべきは琥珀地獄判官。


その心魂に絞られた。




 以前、嬰嶽に取り込まれれば解徐の機を感じた。触れるに難い心魂に近接しえたからだ。


ところがこの嬰嶽にはそれがなかった。


心魂の在処がわからなかったのだ。


鳥獣虫由来の嬰嶽に心魂のないものはいる。


しかし、人由来の嬰嶽でそのようなものにクサビは出会ったことがなかった。


琥珀地獄判官コハクノヂゴクハンガンとはもとは判官様。人のはずだが。


 どこに問いを発すればよいのか。


「汝が劈開を示せ!」


 それは心魂の在処に向けてでなければならなかった。


クサビが恥辱と知って内なる嬰喰に身を任すのは、相手の嬰嶽が隠し切れずに露呈した人の欠片を見定めるためだ。


人にしか人の在処は分からない。


逆に言えば心魂が隠されていればこそ存在する劈開なのだった。




 今、クサビが目にしているのは蜜の海だ。


そこに深みや瀬はあるにしても、ひたすら平らかな表面をしていた。


クサビの嬰喰はまるで凪の中あてどなく水面みなもに浮かぶ藻屑のようだった。


 また、心魂なくして嬰嶽は生きられない。


心魂こそ嬰嶽の核だからだ。


鳥獣虫もまた、天青鬼鹿毛がそうであったように、心魂に準ずるものを持つ。


思えば琥珀地獄判官はクサビを蜜の中に取り込もうとした。


もしやそれは、核を欲してのことだったのではないか。


故に嬰嶽なのに結晶せず液状なのではないか。


それに思い至った時、クサビの嬰喰が蜜の海の底に向け急速に潜り始めた。


 はじめは陽の光に照らされ黄金に輝いていた蜜が、深みに行くほど赤みを帯びてきて、底に着くころには深紅になっていた。


紅く広がる蜜の底は、不思議に光があって明るかった。


その光の中に一点の小さな白い花が咲いている。


どうやらそれが光の源のようだった。


クサビの嬰喰が近づくと白い花が小さく揺れ花弁が少し開いた。


その花弁の中を覗くとユウヅツが目をつぶり鎮座していたのだった。


ユウヅツが真っ赤な蜜の底に眠っている。


クサビの嬰喰は得体のしれぬものを警戒するようにその周囲を遠巻きに回り始める。


「ユウヅツ」


 クサビが呼びかけると、眠れるユウヅツの瞼が少し動いたようだった。


それは痙攣のように微かだった。


「ユウヅツ。それがお前の望みなのか」


 クサビはユウヅツに問うた。


蜜の底のユウヅツがクサビの声に応えて話し始めた。


「琥珀地獄判官はわが夫ですが心魂を持たぬ亡者です。それは夫が黄泉から還り来た時に、案内の者がいなかったために墓所から出られずに終わったためです。本来はサヨが手引きをする定めであったのに、サヨの死により道を外れました。ゆえにサヨは夫をあの世へ連れて戻らねばならないのです」


 ユウヅツは語り終わるとゆっくりと目を閉じ頷いた。


すべての運命を受け入れたかのようなその姿こそ、ユウヅツ自らが琥珀地獄判官の心魂となったことを意味していた。


クサビはそれを母として受け止めた。




「汝の劈開を示せ」


 クサビの声が水底に響く。


真っ赤な蜜が渦巻き始め、その中心に祈るような姿でサヨ姫が端座していた。


そこにスハエの打槌だ。


その掌撃に身をよじらせた琥珀地獄判官が天上に向けて一斉に蜜を噴き出した。


赤い蜜は天空で昇華して雲を作り、やがて豪雨となって不死の頂に降り注いだ。


大量の蜜は山頂のすり鉢に溜まって火壺となり、すぐに巨大な炎の塊を噴き出し始める。


不死山がもうもうと噴煙を上げながら鳴動し、ついに大爆発を起こすと、噴煙を真っ赤に切り裂き火炎が四方に飛び散った。


そして山頂より溢れ出した蜜は溶岩流となって、もうもうと土気を吐き出し麓に向かって流れ落ちて行く。


その行先には大きな水の海があって、ついには流れ落ちた溶岩流で沸騰し白い煙を上げたのだった。


 火壺のただなかにユウヅツの姿があった。


琥珀地獄判官の心魂が日の下に晒されたのだ。


クサビの嬰喰がすかさずユウヅツに襲い掛かる。


「母上!」


 ユウヅツがクサビに向かって叫ぶ。


吹きすさぶ火炎風の下、クサビがそれを聞き分け、嬰喰の中でもがきながらユウヅツに手を伸ばす。


ユウヅツもまた、それに応えて手を差し出す。クサビの手は蠕動する嬰喰の肉襞に押し戻され、僅かのところで届かず、クサビの姿は嬰喰に吞み込まれてしまった。


 次に嬰喰の中からクサビが浮き出た時には、既にユウヅツはクサビの嬰喰によって喰われた後だった。


――ここに関東最強の嬰嶽、琥珀地獄判官コハクノヂゴクハンガンとその妻の嬰嶽、夕星ユウヅツは解徐されたのだった。


 打槌の音と激痛。そして愉悦の内にクサビは我に返った。


不死の頂はすでに晴れ、びょうびょうと強い風が吹いていた。


そこに一人佇みクサビが言う。


「己が劈開を示せ」


 強風荒ぶる不死の頂が、春風そよぐかつての住処、北の対屋に変わる。




 クサビは童女の髪を梳いている。


美しい姫だった。


クサビはこの美しいサヨ姫が愛おしかった。


何度も何度もその髪を梳いてやった。


裳着の日、髪を梳きながらクサビは思った。


この一瞬に居続けたい。


この時に永遠にとどまっていたい。


その永遠を壊した悪逆人が憎かった。


そして悪逆人の妻となったお前が憎かった。


お前を父に殺させたのは私だったのだ。


「母はお前を愛しすぎた。それが母を蝕んだ」


 打槌が入る。


クサビが示した劈開に嬰喰が捩じり入る。


そして刹那のうち、己が宿主を食らい尽くしたのだった。


――ここに母の嬰嶽、クサビは解徐されたのだった。

 

 不死の頂のはるか上、紺青の空に一つ星が瞬いていた。


ユウヅツの星、太白星が母の行くべき道を教えてくれていた。


<完>

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