タコ――水属性系男子・魚水海里の事件簿Ⅲ――

水涸 木犀

タコ [theme3:ぐちゃぐちゃ]

「いつもので」

 席に着くなりカウンターの向こうにいるバーテンダーの男……塩見しおみに声をかけると、彼は頷き厨房へと声をかける。上着を脱いで大きく伸びをした俺は、深く息を吐きだす。

「疲れているみたいだな、海里かいり。ほら、ジントニック。飲みすぎるなよ」

 戻ってきた塩見は細長いグラスを差し出しながら、爽やかに声をかけてくる。こいつはいつもそうだ。接客業だからというのに関係なく、いつだって自分の疲労や愚痴を表に出さない。それでいて心身の体調を崩したことがないのだから、よほど自分の身体のコントロールが上手いのだろう。疲れているとすぐ周囲にばれるし、放っておくとたちまちのうちに風邪を引く俺とは大違いだ。

「年度末の会社員なんて、みんな同じようなものだろう」

 ただそれだけを答えて、ジントニックに口を付ける。飲みなれた爽やかな風味が喉を通過していき、少しだけましな気分になる。

「仕事が忙しいのか」

 今日は俺以外に客がいないせいか、やたらと絡んでくる。元々塩見とは中学時代からの腐れ縁なので、お互いに今更気を遣う関係でもないのだが。いくらコミュ障気味の俺とは言え、放っておいてくれというのも感じが悪い気がしてグラスを睨みつける。

「まあ。でもいつもの時間に飯を食いに来ることはできているから、ましなほうだろ。もっと忙しい奴はまだ帰れていないだろうからな」

「そうだよなぁ。残業の話とかを聞くと、会社員が定時勤務だっていうのは嘘だなって思うよ。頭のなかもぐちゃぐちゃになりそうだわ。とはいえ忙しさやしんどさを感じる度合いは人それぞれだからな。海里、無理するなよ」

「ああ。一人身だし、他人に迷惑かけないようにはするよ。……ほら、お客さん来たみたいだぞ」

 右手を上げて大丈夫アピールをしたついでに、視界の端でバーの扉が開くのが見えた。塩見も俺に構うのをやめて新たな来客のほうへと目を向ける。


「いらっしゃいませ。一名様ですか」

「はい……」

 入ってきたのは茶髪交じりの長髪を下した女性だった。まだ大学生くらいだろうか。社会人すれしていない、若々しい雰囲気を感じる。しかしその表情は今の俺と大差ないくらい、疲れ切っているように見えた。

「では、こちらの席へどうぞ」

 女性は塩見に誘導された通りに俺の二つ隣のカウンター席に座る。差し出されたメニュー表をちらりと見てから

「モスコミュールありますか? あと、本日の日替わり丼を」

 と問いかける。どうやらメニューを見る前に頼むものを決めていたらしい。塩見はさわやかな笑顔で

「かしこまりました」

 と頷くと俺の時と同様、厨房に一声かけてから酒づくりに取りかかった。


「お疲れでいらっしゃいますね。ライムは疲労回復に効きますから、今のあなたにぴったりだと思いますよ」

 ライムの薄切りが挟まれたモスコミュールを差し出しながら、塩見は女性に声をかける。彼女は二、三拍グラスを眺めてから顔を上げる。

「わたし、疲れているように見えます?」

「そうですね。元気な時のお客さまはもっと快活で明るい方なのではないかと思いますよ」

 初対面の女性相手によくそんな台詞が出てくるなと感心しながら、俺はジントニックを再び口に運ぶ。やはり塩見のコミュニケーション能力の高さは、俺には逆立ちしても身につけられる気がしない。いや身につけたいとも思わないが。

 女性はモスコミュールのグラスを傾け、小さく息をついた。

「悪いことがあったわけじゃないんですけど。今日、生まれて初めて一人で引っ越ししたんです。大学を卒業して、四月から入社するので。配属先が決まって、家を探して、ようやく今日荷物の搬入があって。でも片づけとかが大変で、到底夜ご飯を作る元気が出なくて。スーパーでお惣菜を買おうかと思って外に出たら“日替わり丼あります”っていう看板を見かけたので、こちらに」

「それは、お疲れさまでした。お一人での引っ越し作業は疲れますよね。私は大学時代から一人暮らしを始めましたが、引っ越し当日は疲労困憊で、荷物の梱包を解く気にもなれなかった記憶があります」


 相槌を打つ塩見の言葉に、俺も心の中で同意する。引っ越し作業は本当に気力と体力が持っていかれる。大学が同じ俺と塩見は互いの家の引っ越しを手伝ったが、あれは二回も経験したいものじゃない。ましてや女性だと、すぐ使いたい化粧品類なんかが多くて当日中にある程度片づけたいという思いが強いんじゃないだろうか。案の定、彼女は大きく頷いた。

「わかります! わたしもさすがに寝るスペースと洗面所までの動線は確保したいと思って片づけていたんですけど、すっかりくたくたになってしまって。部屋も散らかり放題でぐちゃぐちゃな状態で出てきてしまいました。化粧も薄くてみっともない状態で外食するのはどうかなって思ったんですけど。食欲には勝てませんでした」

「いいんですよ、そういう日があっても。ましてやお客さんはまだ社会人になる直前でいらっしゃいますから。そこにいる人なんて、毎晩うちに食べに来ていますからね。格好もほとんどが部屋着に近い状態ですし。うちを家か何かと勘違いしているんじゃないのかと疑いたくなりますね」


 突然塩見が俺のほうに顔を向け、女性もこちらを見やる。いくら旧知の仲とはいえ、こうして突然話を振るのはやめてほしい。しかし俺の今の格好はスウェットにパーカーといういで立ちだ。何も言い訳ができないので、黙って苦笑いを浮かべるしかなかった。

「この近くにお住まいなんですか?」

 俺の気持ちを知ってか知らずか、女性は俺に話しかけてくる。俺は無言で頷いた。

「彼は私の中学時代からの同級生なんです。いまは常連客でもありますね。もしお客さんが今後このお店に来てくださるようでしたら、今の時間に来ると大抵彼がいますよ。ほとんどの場合今みたいな恰好で、ジントニックと本日の日替わり丼を注文していきます」

 俺の代わりに塩見が質問に答える。いらん情報も含まれている気がするが、自分で答えなかったのが悪い。気まずい思いをしながらジントニックをすすっていると、塩見がボウル皿を二つ手に持ってきた。


「お待たせしました。本日の日替わり丼、親子丼です」

「今日もうまそうだな」

 話が変わったことにほっとして、俺は丼の中身に注目する。真っ黄色の卵の間から、細かく切った鶏肉が顔を覗かせている。一口口に含むと、柔らかい卵と鶏肉が混ざり合い、身体に染みわたっていく。

「美味しいです……本格的ですね」

 同じく親子丼を口にした女性も、ほうっと息をつく。

「バイトの子で、料理人を目指している子がいるんですよ。日中はレストランのバイトで、夕方はこっちの厨房に入ってくれているので助かっています」

「おかげでうまいめしが食えて助かってる」

「彼に伝えておくよ」

 俺がぼそっとつぶやいた言葉に、塩見はにこやかに答える。


 しばらく二人並んで黙々と食していたが、しばらくしてから女性がぽつりと言葉を零した。

「引っ越しの荷物に、母からの救援物資も含まれていたんですけど、その内容がよくわからなかったんです」

「救援物資……いわゆる仕送りのようなもの、でしょうか」

 塩見の問いかけに、女性は頷く。

「はい。実家から一人暮らしに移行したので、仕送りというよりは実家からの荷物にプラスアルファで、母から私宛の段ボール箱がひと箱あったっていう感じなんですけど。そこに一言書きで、こんなメッセージが入っていたんです」

 女性は自分の手持ち鞄を漁り、一枚の一筆箋を取り出した。ご丁寧に俺にも見えるように横向きに置いてくれる。そこには、“蛸には気を付けなさい 母”と書かれている。

「『タコには気を付けなさい』ですか。アレルギーをお持ちなんですか?」

 塩見のもっともな問いかけに、女性は首を横に振る。

「いいえ。魚介類は大好きですし、タコも問題なく食べられます。だから意味がよくわからなくて。調理しにくいから購入する際には気をつけるようにっていう意味かとも思ったんですけど。それって別にタコとは限らないですよね。明日電話して聞いてみようと思って、一応引っ越しの荷物とは分けて持ち歩いているんです」

「そうですね。わざわざ仕送りの荷物に入れてあったということは、お母さんからすると大切なメッセージなのでしょうからね。きちんと確認された方がよいでしょう」

「そうですよね」


 女性が頷いている脇で、俺は一筆箋の文字をじっと見つめていた。二人はタコだと言っているが……

「これはタコじゃない」

 俺の言葉に、二人が顔を上げた。

「これはタコじゃなくて、クモです。本来タコは、海の蛸の子どもと書きます。それが省略されてここに書いてある一文字でタコと読むこともありますが。どちらも足が八本あるから、おんなじ字を当てたんだと思います。あるいは魚へんで鮹と書くほうがわかりやすいですね」

「クモ……」

 女性は一筆箋を手に取り眺める。その様子を見ていた塩見がそういえば、と言って手を叩く。

「この辺り、最近毒グモが発見されたらしいんですよ。外来種の小さいやつが。それで近隣住民の人は見つけても素手で触らないようにって、地域紙に書いてありました。もしかしたらそのことでしょうか」

「そう、かもしれません」

 女性は顎に手を当てながら頷く。

「引っ越しの荷物を広げたら部屋がぐちゃぐちゃになりますからね。うっかり踏みつけでもしたら大変ですから、忠告の意味で箱の一番上にメッセージを残されたのかもしれません」

 塩見は完全に、毒グモと一筆箋の内容を結び付けているようだ。納得したように何度も頷いている。

「ええ。明日、母にその線で確認してみます」

「あ、最近近所に出たっていう毒グモはこれです。一応気をつけておいたほうがいいかと」

 塩見の意見に同意する女性に、俺は脇からスマートフォンを差し出した。画面には近所で出没したクモの写真と、その解説文がついている。余計なお世話かとも思うが、近所に引っ越してきたという女性の身の安全のための情報共有だ。先人として一応忠告をしておいた方がいいだろう。女性は顔を近づけて、小さく頷く。

「わかりました。これですね。……わざわざありがとうございます」

 俺は無言で首を横に振り、スマートフォンを手元に引き戻す。こういう時スマートな受け答えができないところがコミュ障の辛いところだ。

「じゃあ、わたしは家の片づけがあるのでそろそろお暇します。お二人とも、ありがとうございました」

「いいえ。お気をつけて。宜しければまたいらっしゃってください」

「ええ。ご飯もお酒も美味しかったです。ぜひ伺います」

 ぺこりと頭を下げて席を立つ女性を、俺は無表情で、塩見はにこやかな笑みで見送った。


・・・


「お、来た来た」

 後日、俺がバーの扉を開けると、待ち構えていたかのように塩見が近づいてきた。

「この前の木村さんな、覚えてるだろう? あの引っ越ししたばっかりっていう女性」

「ああ」

 相変わらずどのタイミングで名前を聞き出しているのか謎だが、俺の心の中の疑問に構わず塩見は言葉を続ける。

「やっぱりお前の予想通り、例の一筆箋に書かれていたのはクモだったんだと。毒グモのニュースをたまたま旦那さん……木村さんのお父さんから聞いてとっさに荷物に入れたらしい。とっさに書いたら、癖で虫へんのクモの字になったんだってさ。紛らわしい書き方して申し訳ないってお母さんからは謝られたって言ってたけど。ともかく解決してよかったよ」

「そうだな」

 俺が頷くと、塩見はいたずらっぽい顔でこちらを見てくる。

「今回もお手柄だったな、海里。魚へん漢字ばっかり詳しいと思っていたけど、そうじゃないものも覚えてるんだな」

「いや、虫へんのクモの字は、魚へん漢字を覚える過程で覚えていただけだ。基本的に俺は魚へん漢字しかわからない」

 淡々と告げる言葉に、塩見の笑みが深くなる。

「それでもいいじゃないか。こうやって俺のところのお客さんの役に立ってるんだから。これからも頼むよ」

「タイミングが合えばな」

「相変わらずつれないやつだな」

 塩見には苦笑されるが仕方ない。俺はあくまでひとりの客に過ぎない。これからも時と場合によっては、反射的に塩見と客との会話に口を挟んでしまうかもしれないが、それはあくまで稀なケースだというのを彼には忘れないでもらいたい。しかし彼の笑みを見ていると、なんだか塩見にうまく丸め込まれてしまいそうな気がしないでもなかった。

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