さよなら、パンナコッタ

コノハナ ヨル

⭐︎

 何の気無しに入った居酒屋で働いてたバイトの子、それが真由子だった。最初に声をかけたのは、たぶん俺の方だったんじゃねぇかな。けして美人ってわけじゃねえけどさ。ふにゃっと笑うところとか、意外とはっきりものを言うところが自分でも驚くほどツボっちまってね。気づけば通い詰めてたよ。

 詳しくは聞かなかったけどさ、真由子はわりといいとこのお嬢さんらしかった。けど、いまいち親とは上手くいってなかったみてぇで、着の身着のままに近けぇ形で家を出てきたっていうんだ。格安のアパートに住んで、昼と夜で、ふたつの仕事を掛け持ちしてるけど、はっきり言って生活は苦しいって、だいぶ打ち解けた頃に俺にこぼしてきた。


 「それは大変だなぁ。ちょうど、引っ越そうと思ってたんだ。俺と一緒に住んでみるか」

 完全に酔って言った出まかせだった。少なくとも、あの段階で言うつもりなんてなかったよ。だけど、へぇ? と驚いたように目を丸くした真由子は、少し間を置いてから

「じゃあ、そうしよっかな」とヘラっと笑ってきたんだ。


 耳を疑ったね。そんな都合が良いことあるのかって思ったよ。慌てて「それって、どういうことか分かってんのか」って確認したんだ。一緒に暮らすことの意味が分かってんのかって。そしたら言うんだ。「そうなりたいから言ったんだけど」って。だから俺はその日、彼女を持ち帰ったんだ。


 借りたのは、駅から何分か歩いたところにある団地の一部屋だった。ボロい1LDKだったけど、俺ら二人が暮らすには十分だったよ。家賃と、生活費の半分を俺が出す代わりに、真由子は居酒屋でのバイトを辞めて、家のことをやってくれた。土方の俺は安月給だったから多くは渡せなかったけど、真由子は何かと器用でね。少ねぇなかでも、あれこれ工夫して、俺を喜ばせようとしてくれたよ。


 ある日、早めに仕事が終わって帰った時のことさ。夕飯ができるまでもう少し時間がかかるから、これ食べて待っててよって、真由子がカップに入った真っ白なプリンの出来損ないみてぇなもんを差し出してきたんだ。

 「なんだこれ」訝しがる俺に、真由子はそれが『パンナコッタ』っていう、今流行りのデザートだと教えてくれた。新聞にレシピが載ってたから、作ってみたっていうんだ。


 正直、俺はこういうキザってぇ食いもんは苦手だ。俺の生まれて育った家はドがつく貧乏で、甘いもんなんて滅多に食えなかったから、どうにも腰が引けちまう。俺ん中の俺が、似合わねぇなってヤな感じで茶化すんだよ。


 でもさ、食わねぇのも流石に悪いからさ。一口だけだって断って食ったんだ。そしたらよ、はは。ズドーン、雷が落ちたね。すっかり虜になっちまった。「うめぇ。これ、うめぇよ!」ガキみたいに上擦った声あげて、夢中で掻き込んだね。大の男が菓子一つに何騒いでんだって感じだけどさ、真由子は嬉しかったんだろうな。ちょくちょく作ってくれるようになったんだ。


 並んで食ってるとさ、やけに視線を感じるんだ。横を見ると、真由子がジッとこっちを見てるんだ。褒めて欲しいんだよ、俺に。口に出してはいねえけど、表情でバレバレなんだ。それが可愛くてさ、思わず押し倒しちまうことが多かったね。

 まだ甘さと酒の香りが残る口でさ、息を奪い合うみてぇにキスをしてさ。真由子の白くて柔らかい体を隅々まで味わって、俺のもんにしてくんだ。脳が痺れちまうような時間だったよ。でさ、事が終わると真由子は腕を俺のからだに回して、ギュッと抱きしめてくるんだ。……泣きそうになったよ。ああ、こんな俺でも愛されてるんだって。


 真由子は、純朴で心の優しいやつだったよ。いつでも俺のことを考えてくれていた。今思い返しても、アイツほどできた女はいねぇ。俺の人生で、あんなにも満ち足りてた時期はなかったよ。でもさ、俺は根っからの貧乏人。贅沢に慣れてねぇんだ。だから――。だから、バカなことをしちまった。


 本当に偶然だったんだよ。監督に、仕事終わりに無理やり連れてかれたキャバクラで、昔好きだった女に会ったのさ。服すらまともに買えなくて、いつもボロばかり着てる俺を、クセェって鼻つまんで振った女だよ。そいつがさ、サイズがあってねぇチンケなピンクのドレス着てさ。誘ってきたんだ、この俺のことを。

 “チャンス”だ、って思った。だから、店から出て最初に目についたホテルに入って、真由子には絶対にさせられない様なことをさせてやったんだ。痩せぎすった体に胸ばかりやけに大きくてさ、その胸だってホンモンかどうか分かんねぇような安っぽい女を抱いたんだ。

 なのに可笑しいよな。ヤってる最中、頭ん中ではずっと、早く帰りてぇ、真由子んとこに戻りてぇって思ってた。本当だよ。意味わかんねぇだろ。

 でもなあ、俺は、俺をバカにした女を、良いことなんて殆ど無かった昔を、屈服させたかったんだ。過去を殴ることで実感したかったんだよ。俺は今、幸せなんだ。お前なんかよりずっと。ざまあ見やがれ! って。


 だけど、神様は俺のそんな浅はかさを許しちゃくれなかったのさ。見られちまったんだよ、真由子に。女とホテルから出るところを。誓って言うが、他の女に手を出したのはそれが初めてさ。俺は真由子以外の女なんて眼中になかった。心底惚れてたんだ。でも、そんな言い訳意味ねぇよな。見られちまったんだから。


 真由子の姿に気づいた時、サアーと血の気が引いたよ。あいつ、震えててさ。なんでも、怖いことに巻き込まれたんじゃないかって、俺が行きそうな場所を一晩中探し歩いてたらしいんだ。あんなふうに泣く女を初めて見たよ。何にも言わねぇんだ、何にも。ただ、見開かれた大きな目から涙が溢れて、地面にボタボタ垂れて、それが止まんねぇんだよ。あぁ、ダメだ! 思い出すと胸が痛てぇ。ずっと、後悔してんだ。


 俺は謝って謝って、ひたすら謝って、そのくせ謝ることにすぐに疲れちまって、強引に真由子に許させた。俺はお前のことを愛してるんだから、それでいいだろうなんて開き直った態度で。早く、何も無かったことにしたかった。自分がしでかしちまったことを消したかったんだ。


 でもそれは間違いだったんだろうな。真由子は、それから変わっちまった。表向きは俺を許したみてぇに振る舞ってたけど、言葉や態度の裏にいっつも薄い氷が張り付いてるんだ。いくら抱いても、もう前みたいに何もかも忘れて一つに溶け合うみてぇにはなれなかったよ。

 パンナコッタだって作っちゃくれない。俺が食べたいって強請ると、材料がないとか、体調が悪いとか、何かと理由をつけて、のらりくらりとかわし続けるんだ。それが気に食わなくて、俺は何度か酷い言葉を真由子に言っちまった。怖かったんだ。あいつの心が離れてくのが。


 そんなんじゃ先がねえことくらい、わかるよな。今日みたいに寒さの残る、3月の日のことだったよ。いつも通り、俺が仕事に行って帰ってきたらさ、真由子の姿が部屋から消えてたんだ。もぬけの空ってやつよ。服も、靴も、化粧道具も、あいつがこの部屋に持ち込んだもん全部が消えてたんだ。まるで、初めから居なかったみてぇに。


 静まり返った部屋で、古い冷蔵庫だけがジジジジ、ジジジジ、うるさく騒いでやがってさ。蹴り入れてやろうかと思ったけど、そん時なんでか気になって、中を覗いてみたんだよ。

 そしたらさ、あったんだ。一つだけ、小さなカップに入ったあれが。俺が好きなパンナコッタさ。真由子は、最後にあれを俺に残してたんだ。


 キッチンの引き出しからスプーンを取ろうとしたけどさ、それはもう真由子が持ってっちまってた。食うのに使えそうなもんを、あちこち探したよ。どこもかしこも驚くほど綺麗で空っぽで、それでもようやく自分の鞄の底から、プラスチック製の小さなフォークを見つけたんだ。昔コンビニだか其処らで貰って、仕舞い込んでたやつだよ。


 部屋に差し込んでくる西日がやけに眩しくてさ。窓に背を向けて、がらんどうな部屋で、一人食おうとしたよ。


 だけど、どうしてだろうな。

 上手くいかねぇんだ。


 手からこぼれ落ちる砂みてぇに、すくってもすくってもボタボタ落ちてさ。見る間に、ぐちゃぐちゃになってくんだ。崩れて。ただ、ただ、崩れて。

 

 

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さよなら、パンナコッタ コノハナ ヨル @KONOHANA_YORU

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