【KAC20233】愚者の選択【ぐちゃぐちゃ】

なみかわ

愚者の選択

「何度言われても同じ、だ。漫画家になるなど許さんし、ましてや大学にも行かず専門学校で漫画の勉強? もってのほか、だ」

 父は、何回相談しても『漫画家なんてあきらめろ』としか言わなかった。


 父も母も、僕が部屋を漫画で埋め尽くすことは怒らなかったものの、その漫画を描く方になりたいというと一転して反対するのだった。


 実は両親はそれぞれ、漫画家になりたかったことがあったそうで、実際に月刊誌の漫画投稿欄にも何回か掲載されたことがあって――その本はリビングの本棚にいまも並べてあるくらいだ――、母の姉にあたる伯母によると、母も父も、だんだん投稿ペースが落ちて、いつしか止めてしまったみたい、ということだった。おそらく、よくある現実に目を向けたというかたちだとは思うし、結婚して僕を育てるのにも経済的に大変だと思ったはずだ。


 母方の祖父母は遠方に住んでいることもあり、伯母は近くで頼れる親戚としていろいろ相談に乗ってくれる。しかも、伯母は漫画雑誌で有名な出版社に勤めている。その担当ではないにしても、両親が漫画家を目指していたこととあわせて、僕には何か運があるのではと思わざるにはいられないのだった。



「それで私を頼りにしてきたのー? かわいい甥っ子のためならだいたいなんでも協力してあげるけど、それはねー」

 独特の話し方をする伯母は、コーヒースタンドで、困ったように言う。この店は家族でも皆でも、ふたりでもよく来ていて、「伯母さんとコーヒー飲んでくる」と伝えると母も父もそうかいってらっしゃい、と送り出してくれる。


「仮に私が、漫画の部署の人に頼んだとしてもよー? それがよっぽどー、読者に面白そうでなければ、デビューの近道にすらならないんじゃないー?」

「もちろんそれはわかってるよ、だから、」

 僕はコーヒーを飲み干してキメ顔をする。カップの底に、溶けきらなかった砂糖があって、やや甘くてニヤリとしたけど。

「ものすごく面白い作品を描くんだ」

「まあー」

 伯母はニコニコしてくれる。

「まず退路を断つ。専門学校で漫画をもっと学んで、誰も読んだことのない、唯一無二の着想ノートを作成して、伯母さんの会社の人に見てもらうんだ。そこから編集の人と漫画制作をする」

「まあまあー」

 相づちをうってくれてから、伯母も自分のコーヒーを飲み終える。


「私ー、会社に、投稿したい原稿を持ち込むのかとー、思ってたー。着想ノート? んー、漫画の下書きって言われる、ネーム、ってやつでもなくて?」

「長期連載だからね。第一話の分は作ろうかなと思ってる」

「じゃあー、まず高校を卒業するまでにひとつ描いてみなよー?」

「いやいや伯母さん、それだと、まだまだ技術がなくて。パソコンも買いたいけど高くて、お年玉を貯めてるんだ」

「そうなのー……」

 伯母は少し寂しそうに、伝票を取って帰り支度を始めた。



「あんたまた姉さんにケーキおごってもらったの?」

 家に帰ると、仕事から帰ってきていた母があきれていた。「また漫画家になりたいとか相談してたんでしょ? 姉さんは人事総務の仕事で、ほんとに編集部門と接点がないんだよ? 迷惑かけてるよ?」


 確かに迷惑をかけているけど、夢をあきらめた母さんよりましだ――という言葉は、口には出さなかった。




 数週間後、伯母から、四人が入っているラインに「懐かしいビデオを見つけたしうちに見にこない?」と入った。どうせ結婚前のホームビデオだろうし、「話すと恥ずかしくてきりがないわ」とか「お前だけ行って、こい」とその日の夜には両親は行かないということに決まった。



 伯母の家も頻繁に、ひとりでも母とでも父と三人でもよく行っているので、手土産はドーナツで、どこで買えばいいかも覚えている。

「まあー、いらっしゃいー」

 いつものノリで伯母は僕を招いてくれて、さっそくリビングのテレビにケーブルを繋いであった、ビデオカメラ――スマホの半分くらいのサイズのデジタルビデオテープに録画するもの――の電源を入れる。


「このカメラ出たばっかりで高かったんだけど、父ちゃんが奮発したのよー、ふたりの結婚式録るんだってー」

 たしかに、母方の祖父は、新しい物好きで、父よりも新型のスマホを持っていたりする。僕は薄型テレビに再生された、両脇が黒い画面を見た。








 部屋のベッドに倒れこんだ僕は、震えが止まらなくて冷や汗が全身に湿っていた。急に風邪をひいたわけじゃなく――。どうやって伯母の家から帰れたか、思い出せない。幸いなことに今日、僕は伯母と夕飯を食べるからと、両親は久しぶりに2人で出かけていたので、この姿を見られなくてよかった。





 映像は両親が結婚する前に暮らしていた小さなアパートを映していた。まず足の踏み場もないほどに大きな紙が散らばっていて、どうやってここに置いたのかわからない、コンビニで見るようなコピー機がぶんぶんうなっている。さらにこれまた窓から入れたんじゃないかというサイズの棚にはたくさんの薄い引き出しがあって、スクリーン・トーンという漫画の画材がぎちぎちに入っている。学習机を改造したようなデスクが部屋の中程に向い合わせでふたつ、さらにその上に液晶モニターやら、瓶詰めのインク、コーヒーの粉の空き瓶にはぎちぎちにさまざまな太さかたちの筆が突っ込まれている。ちょうどB4サイズくらいの漫画の原稿用紙を置くところだけがデスクライトに照らされていて、そこだけがほんとうにゴミひとつなくきれいだった。ガ、ガガ、シャッ、シャッ、初めて聴いた、鉄のペン先がインクをたくわえて原稿用紙に溝を彫り、真っ黒な線を引く音が響く。父の手には軍手がはめられていて、母は原稿の上にティシュを置いて、原稿用紙に作者の手垢すらつけまいとしていた。デザインナイフで切り取った背景のスクリーントーンの屑が鼻についていると、伯母の笑い声がさしこんだ。やがて、カメラは真剣な二人から離れて部屋にこれまた大量に積まれている雑誌や、二人がためてきたのであろう印刷した写真のファイル、そして何十冊もある大学ノートをとらえる。伯母の右手がぱらぱらひらくと、どれもぎちぎち真っ黒に設定やネームが細かに記されている。


 ――そのほかにもいろいろなものがビデオに残されていたが、その辺りから僕の記憶はあいまいになっていた。





 僕は、母にも父にも何かしらの理由があって漫画家の夢をあきらめたと思い込んでいた。違った。何もしていない、ほんとうに何もしていない、ネームも書いていないし絵の練習もしていないし投稿する原稿すら一枚も書いていないのは僕で、両親がみずから「漫画家はあきらめた」と言ったことはなかった。両親に自分から僕の描いた漫画やプロットを見せたこともなかった、なにもしていなかった。だから両親はそんな僕が漫画家を目指すなど無理だと言い切っていたのだった。



 僕はガタガタ震えたまま、風邪になるようなあらゆる行動すら今まで何もしてこなかった自分が程度の超えたバカだった、それにやっと気がついて、感情に収拾がつかなくなっていた。


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