赤煉瓦と蟷螂

辺理可付加

Just kidding サルトル

 大学というのはいい。特に田舎や山の中に建っている大学というのはいい。

自然も人もあれば、季節や老若男女の活気と滅びもある。

私が哲学(得てして雑駁なこの単語の是非を問うのはまたの機会とする)を思索し、研究し、学生諸氏と論じるのに、これ以上の環境はないだろう。

少なくとも古書くさい図書館の片隅やマロニエの木の下でロカンタン氏のようにチクチク捏ねくり回しているよりは、よっぽど有意義な学問ができると言うものだ。学生諸氏との『社会』の中に身を置き教授としての『社会的役割』で哲学を語るなど、実存主義者から見てもこれほどの『社会参加アンガジュマン』は存在するまい。



 さて、そんな少しのことを考えるにも文字数を浪費しているうちに、どうやらこの里山の大学にも夏が来たらしい。少し前まで戦後の高度経済成長に怒り狂っていた気がしたが、気付けばもう目薬もささない。代わりに青々とした山が保養をしてくれる。


そして何より、構内の道路ですれ違う緑色が夏の到来を教えてくれる。

学生諸氏ではない。彼らはこの時期、夏の日差しに炙られるのを恐れて滅多に冷房の監獄から出てこない。飾り気のない外観に何号棟だとか数字が振られていて、ますます収容所じみている。


では何とすれ違うのか。それは里山の夏ゆえの醍醐味、蟷螂かまきりである。

ウスバだチョウセンだハラビロだの見分けはつかないが、毎年この時期になると彼らはどこからともなく現れ、多い日は学生諸氏より多くとすれ違い、そして今日も二、三匹轢かれて死んでいる。

浮金石うきがねいしのようなアスファルトへ目を遣ると、ほら、今日もまたそこで悲しくになった『蟷螂だったもの』がへばり付いている。


……実存主義者は死体をどう説くだろうか。赤煉瓦を模したタイルが敷かれた広場へ足を踏み入れながら考えてみる。

死体は死体である。実存主義の対象である人間ではないし、何より社会参加をしない。ここまで見れば実存主義として語るに値しない、その範囲にいない存在である。


が、時としてその範疇にない死体がある。聖骸とか仏舎利とか言われるものである。

あれには宗教的に深い立場と役割、社会参加がある。実存がある。

しかしそれは死体そのものが自らしている社会参加でもなければ、彼らが自ら作り上げた実存でもない。


他者が作り上げた実存。それを実存主義者はどう説くのか。あるいは生前の本人の社会参加によって作り上げられた実存ということになるのか。とすれば、死体は『自らの社会参加で実存を作り上げる』存在、つまり実存主義を体現した『人間』となるのか。

聖骸は人間なのか人間でないのか、仏舎利は生きているのか死んでいるのか……。



「おっ」


思考がぐちゃぐちゃになってきたみぎり、私はギクリと足を止めた。そこにはつぶらな瞳でこちらを見上げるナントカ蟷螂。

思索にふけるあまり、危うく足元の彼(彼女かもしれない。もちろん私には見分けがつかない)を踏み潰すところだった。赤煉瓦風タイルに緑の肉体が映えてくれて助かった、踏み潰していたら今日一日寝覚めが悪く……


「ん?」


ふと思う。

『実存は本質に先立つ』とは代表的実存主義者サルトルの言葉。

つまり彼は『生まれついた瞬間から自身を定義する“本質”なるものは存在せず、のちに作り上げられる“実存”のみがあるのだ』と言いたいわけだ。そして『人は“社会参加アンガジュマン”によってそれを作り上げなければならない』ともしている。ボーヴォワールの言葉を借りれば『人は女に生まれるのではない、女になるのだ』である。


ではこの蟷螂くんはどうだろう。彼らの肉体の緑は森や草むらで外敵から身を隠し、生き残るための保護色である。つまり見つからないための緑なのだ。

しかし彼はどうだ。わざわざその保護色が守ってくれる安寧の園からノコノコ出てきては、あろうことかその身を最も目立たせる補色の赤煉瓦タイルの上を闊歩している。普通に考えれば彼らの摂理に反した絶体絶命の状況、命を投げ捨てる行為である。


が、実際は違う。彼はむしろ目立つことによって、私の視界にその存在を主張することによって『踏み潰される』という事態を阻止し、生き残ったのである。


これぞ実存主義の体現者ではないだろうか!?

『身を隠し守るための保護色』などという本質を切り捨て、自らの行動によって『目立ち生き残るためのランニングライト』という実存を……


……………………


………………


…………



……私はそこで考えるのをやめた。

また思考がぐちゃぐちゃになってきたし、何よりまた思索に没入して、今度こそ蟷螂を踏み潰したくはなかったからである。

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赤煉瓦と蟷螂 辺理可付加 @chitose1129

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