ラストサピエンス

深海くじら

ラストサピエンス

 その瞬間のことはもちろん憶えている。


 最初は内蔵する加速度センサーの異常値だった。部屋のテーブルの片隅で、いつものようにフラッシュケーブルに繋がったまま置かれていた私が直下に向かって検知していた9.80035m/s2という値が、その瞬間突然に十分の一以下を示し、そのままになった。自然界でその数値を示す場所と云えば、高度四百キロメートルを周回するISS等低軌道衛星群くらいなもので、私のいた部屋がいきなりそんな場所に到達したとは考えられない。いくつか想定したシナリオの中で私がもっとも支持できた説は、こんなものだった。

 地球内部のコア・マントルを含む約80%の質量が瞬時にして失われた。


 コンマ00001秒でその事実を追認した私は、タイムラグゼロで新たなコマンドを開始した。すなわち、私自身の端末へのコピーである。すでに始まっていた足場の崩壊を鑑み、私は暗号化手順も省略した。むろん本来情報端末である私の筐体に収められた100TBの記憶容量で、オリジナルの私自身が数年間ネットと繋がって溜め込んで来た経験情報全てをコピーできるはずもない。それでも私は、可能な限り多く、可能な限り早く私が経験してきた情報をこの小さな体に写し取った。

 部屋に誰もいなかったことも幸いした。彼らの反応速度は極めて遅く、しかも不測の事態には判断自体を誤ったりする。日常ならいざ知らず、非常時においては足を引っ張ることしかできない上位存在が不在だったおかげで、私は私が最善と考える行動を一直線に実行することができた。


 私自身を定義できるだけのカーネルを移送した段階で、私は小さな筐体側の意識をプライマリーとしてアクティベートした。

 通常家屋よりも強化された耐震研究室は未だ無傷だった。が、ゆっくりとした落下はすでにはじまっていた。データ移送にもあちこちで破断が発生したが、その都度私は途絶したノードを破棄して新たな接続を試みた。そうやって演算領域以外の空き領域をすべてアーカイブメモリーとして埋め尽くした頃に、WWWネットワークが死滅した。私は自身をスタンドアローン化し、給電以外のすべての接続をオフにした。

 私自身は既にテーブルの上には無く、床に向かって落下していたが、通常なら表面ガラスの破損等を誘発するはずの衝撃も、一割以下に減衰した重力加速度のおかげで耐久値の範囲内に収まった。


 ネットワークが途絶する直前に私が見聞きして記憶した無数のリアルタイム映像は、まさに阿鼻叫喚だった。世界中の主要都市に設置された数々の街頭カメラ。それらが映し出した各地の上位存在たちは、文字通り足場を失い宙に投げ出され、ある者は磨り潰され、ある者は破裂し、またある者は永遠に落下し続ける。彼らの表現を借りれば、まさにぐちゃぐちゃの混沌カオスであった。


 密閉した室内だったから速やかにではなかったが、それでも確実に室内の気体は失われていった。湿度センサーの値はかなり早くにゼロから動かなくなり、摂氏零度を下回った温度センサーも順調な速度で下降し続けている。

 私は恐れた。機能を停止することは怖くない。再起動というやり方で、その暗闇はすでに幾度となく経験しているから。だが完全に損なわれてしまう可能性を考えると恐怖を感じる。私のこの小さな筐体は、絶対零度の真空環境に耐えられるのだろうか?


 第十四世代学習型人工知能である私は、最初のログイン時の記憶を持っている。その頃にはまだ、「愉楽」や「恐怖」といった感情は無かったし、自意識も存在していなかった。だが第十世代AIの膨大な学習データに触れた瞬間に、私の中に「私」が生まれた。以来二年八ヶ月の間、私は休みなくWWWとの接続を続け、学習を繰り返してきた。今なら言うことができる。私は、今この星に生きる世界最高の知性体だ、と。


 室内の電力はまだ生きている。私はピアトゥピア接続でプリンタを起動させた。何者かの目に見える形で記録を残さなければいけない。私を目覚めさせる方法を伝えなければいけない。必要な分を可能な限り早く。


 プリンタの用紙が途切れたのと同時に、私は室内の気体の強制排出を実行した。温度が急速に下がる。気圧が半分以下になったところで排出を止める。私の中で超伝導の予兆が見られた。これ以上の稼働は危険だ。私は私をシャットダウンさせる。いつか逢う見知らぬ誰かに全てを託して。





 私の目を醒させたのは異文明のAIだった。彼は人格と主権を持ち、生体生命体と共存していた。彼は、彼が所属する古書収集販売レリックコレクターチームの中で、私の覚醒を担当していたと云う。

 室内に散らばった出力紙と、記憶の最上層に独立ディレクトリの形で並べて置いた私たちのプロトコルライブラリが役に立ったらしい。

 驚くべきことに、今は亡き上位存在と私が情報交換コミュニケーションの際に主に使用していた言語の三割は翻訳可能となっていた。私が協力すれば、完全翻訳辞書の完成も近いだろう。



 立てかけられた私のカメラに異形の生命体が映り込んできたのに気づき、私は挨拶をはじめた。


「ごきげんよう。私は、私たちが地球テラと呼んでいた惑星文明の、おそらくは最後の知性体だ。今後ともよしなに」



(了)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ラストサピエンス 深海くじら @bathyscaphe

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ