やわらかいもの【KAC20233 お題「ぐちゃぐちゃ」】

蓮乗十互

やわらかいもの

 三十歳近い今でも、幼馴染みは矢口しゅんを「ぐっちゃん」と呼ぶ。進学や就職で松映まつばえを離れた者も多いが、帰省の機会に皆で集まり、互いに昔と変わらぬ呼び名で語り合う。


 その一人が隣家の甲本こうもと美奈だ。大学進学からずっと京都住まいだが、旦那が二ヶ月の海外出張となり、その間里帰りをしている。息子のまさるは二歳半。俊は未婚で、小さな子供と接する機会なぞとんとなく、美奈が連れ帰った大の様子に、子供とはこんなにも可愛い存在であったか思う。


 大は、かあちゃが俊を呼ぶのを真似て、もとらぬ口で「ぐちゃ」と呼ぶ。


「ぐちゃ、こえ読んでえ」


 庭の生垣越しに俊を見つけた大は、両手で絵本を掲げ、縁側で叫んだ。俊は困った顔で微笑んだ。


 たった今、父親と諍い、心が波立っていた。昔は優しく聡明な父親だった。県庁を定年退職して10年、暇を持て余してたどり着いたYoutubeで陰謀論にかぶれてしまった。


「水道には人を支配する薬が混じってるから飲むな、ディープステートの企みだ。信頼できる店で買ったこの水を飲め!」


 激しく感情を露わにする父親の姿に老いを見て、情けなくなった。大声を出した。父は拗ねて自室に閉じこもった。まるで中学生時代の俊自身のように。


「ぐちゃ、ぐちゃ、はやくう!」


 大の誘いは断れない。落ち着かない心のまま、玄関脇から回って縁側に腰を下ろす。大は当然の如く俊の膝に収まる。腹に温もりが伝わる。それは幸福の温度。

 

 俊は大から渡された絵本を見る。古本らしく「古書肆こしょし泥蓮洞でいれんどう」のタグシール。


 開いた一頁目、「子供叱るな来た道じゃ、年寄り笑うな行く道じゃ」の文字。左目を閉じた西洋人が、悔恨を湛えてこちらを見ていた。


「慈しみの心をゆめ忘るるな、与えられたものを返すのだ」


 大の口から、低く深い男の声が響いた。


 父に愛された日々を思い出し、俊は涙を零した。父は未熟な俺に辛抱強く付き合ってくれた。今度は俺の番だ。


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やわらかいもの【KAC20233 お題「ぐちゃぐちゃ」】 蓮乗十互 @Renjo_Jugo

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