彼女の一人前

如月姫蝶

彼女の一人前

「いただきます」の後に、暫しの静寂があった。

 やがて、ほうっと一息吐いてから、「やっぱり美味い」と、貴志たかしは言った。

「いやあ、幸恵ゆきえさんの豚汁はいつもながら絶品だ。白味噌の使い方が上手いなあ」

 弟夫婦の家を訪ねた彼は、頬を緩めて義妹の手料理を褒めたのだった。

「そうだろう?」

 弟である聡志さとしも、安堵の笑顔だ。

「何よ! 正直に言いなさいよ! 白味噌は甘くて苦手だって!」

 貴志の隣に座った妻の杏子きょうこだけは、きつい口調で反旗を翻したが——

「ありがとう。お世辞でも嬉しいですよ」

 当の幸恵が、ほんわかとした笑顔でそう言うものだから、喧嘩を売る甲斐も無いのだった。

「幸恵さん! 私はこの四十年間、あんたを鈴木すずき家の次男の嫁として一人前だと認めたことは、一度たりとも無いんだからね!」

 それでも言わずにはいられない杏子だった。

「今日は腰が痛くて……私はお先に休ませていただきますね」

 幸恵は、あっさりと敵前逃亡した。


「最近の記憶はぐちゃぐちゃさ。昔の思い出は残ってるらしいんだけどな。

 掃除や洗濯も、そりゃあもうぐちゃぐちゃなんだよ。俺とヘルパーさんでなんとかしてるけどな」

 二人きりになった食卓で、聡志は煙草に火を点けた。

「認知症が進むと、得意料理の味付けも狂っちまうって話だな。でも、幸恵さんの豚汁の味はまだ変わってない。苦手な白味噌をミリグラム単位で検出できる舌を持つ、この俺が保証するよ」

 貴志は弟の手を握った。

「幸恵は、認知症のせいで、幻覚の症状も出てきたんだ。いもしない人間の姿が見えるらしくて……お客さんですよ、なんて言うんだ」

 兄弟は、改めて食卓を見渡した。

 兄弟と幸恵、三人で囲んでいた食卓に、四人前の料理が乗っていた。言うまでも無く、一人前多い。

「おいおい、幸恵さんにしてみれば、誰かもう一人いたってことか。ひょっとして……杏子の姿でも見えてたのかな?」

 貴志は、亡き妻の名を口にした。


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