第十一話 覇王級

 早朝の満ヶ崎。


 いつもならば小鳥がさえずっている時間だが、この日は妙に静かだった。そう、覇王級――紅夜叉が現れたのである。その不穏な空気を感じ取ったのか、小虫一匹見当たらない。まだ人々が活動を始めるよりも前であったことが不幸中の幸いであった。


 颯は呪印から飛び出すなり、結界を張り巡らす。人避けの結界とは違う、空間断絶の結界。これで何人たりともこの結界の中に入ることは出来ない。唯一入ることが叶うのは同じ結界を使うことの出来るウォーデッドのみだ。


 紅夜叉が颯の存在に気付く。そして口角を上げた。歪な笑みだ。人間であった頃の記憶など、とうに消え去っているのだろう。


「颯、開放許可」


 結界の外。ビルの屋上から十六夜が指示を出す。呟くようなその声は、本来であれば届かない距離だ。しかし、颯は間髪いれずに答えた。ウォーデッドと十六夜の間に距離は関係ないのである。


「御意」


 左の刀を顔の前に持ってきて、颯は最早お馴染なじみとなった転身の呪文を唱えた。


「解!」


 懐中時計のような装飾が中央からパックリと開き、中から禍々しい瞳が現れる。颯の足元から上がる黒い炎。やがて炎は消え、漆黒の鎧姿の颯だけが残る。


「颯、参る!」


 颯は両の刀を抜刀し、紅夜叉に斬りかかった。




 詩織は嫌な予感に目を覚ます。全身汗びっしょりで、妙に身体が重い。


「何、これ――」


 いつも目覚ましに使っている時計で時間を確認すると、時計の針は午前四時を指している。


 息苦しい。何か嫌なことが起こっている。そう思わずにはいられない。


 どうするべきか思案していると、スマホが鳴り出した。縁からの着信である。


「縁ちゃん。どうしたの? こんな時間に」

『しお姉、無事!?』


 縁は相当慌てているようで、声がいつもの倍ほどのボリュームがあった。


「無事って何のこと? 私は大丈夫だけど」

『そっか~。よかった』


 スマホの向こうで息をつく縁。流石にただ事ではないと感じた詩織は、思い切って尋ねてみることにした。


「何かあったの?」

『え~と、上手く説明できないんだけど、とにかく大変なの!』


 聞けば縁の方も嫌な予感がして目を覚ましたのだという。自分ひとりなら気のせいと済ませてしまうところだが、霊感の強い縁がそう言うのであれば信憑性は高い。


「翔には? もう連絡した?」

『いや、まだ。何て説明すれば言いかわかんないし』


 仮に命の危機があるとして、どこへ逃げればいいのか、どの程度の被害が出るのか想像も出来ないのだ。下手に動いては事態を悪化させることにもなりかねない。かと言って、自分達だけ逃げて他の人は放置という訳にも行かないだろう。


「とりあえず翔にも連絡して集合しよう。理由は適当でいいよ」

『わかった』


 縁との通話を切り、詩織は外出のために着替えを始める。着替えながら、両親を起こすべきだろうかと考えたが、首を横に振った。


「まだ何が起こってるかわからないんだし、言っても信じてもらえないよね」


 いつもならしっかりと髪もセットしていくところだが、今はそんなことを気にしている場合ではない。ヘアゴムで簡単に髪をまとめると、詩織はまだ薄暗い屋外へと飛び出していった。




 結界の壁に叩きつけられる颯。


 戦闘開始から数分。全身から血が噴出し、既に満身創痍まんしんそういである。


「……これが覇王級か。大したもんだ」


 相手はまだ石化の能力を使用してきていない。遊んでいるのだ。これまでにかなりの数の妖を相手にしてきた颯であったが、紅夜叉には未だに傷一つ付けられていない。


 鎧の間から溢れる血が地面を赤く染める。生身の人間ならばとうに立っていられないであろう出血量だ。


 ウォーデッドが流す血は、血であって血ではない。実際には霊血れいけつと呼ばれる、霊力が凝縮したものである。妖の血も同様のもので、大量に流せば死に繋がるのだ。


のろい、もろい。そんなことではつまらないぞ、ウォーデッド」


 紅夜叉が言葉を発する。覇王級に分類されるくらいなので、それ自体は大したことではない。しかしこの戦闘で彼女が口を開いたのは初めてだった。紅夜叉は音を媒介に石化の能力を使うという。つまり彼女の声はそれ自体が何かしらの呪術であり、そのことを彼女は知っているのだ。故に迂闊にはしゃべらない。口を開くのはそうする意味があるときだけだ。


「随分楽しそうだな。相手をいたぶるのがそんなに好きなのか?」


 重い身体を起こし、颯が立ち上がる。その間もボタボタと血が滴っているが、当の颯は気にも留めない。


 刀を握り直し、紅夜叉に向かって歩みを進める。速さでは勝てない。力でも勝てない。ならばどうする。考えろ、思考を止めるな。相手はまだ石化能力も残している。自分がピンチに陥れば、迷わずそれを使うだろう。石化を防ぐ手段は今のところ思いつかない。であるならば決める時は一撃で終わらせなければならないのだ。滅殺。これを叩き込めれば勝負は付く。滅殺はこの世の理を越えて全てを絶つ技。いかな妖もこれを防ぐことは出来ない。ならば。


 颯は瞬時に速度を上げ、紅夜叉に肉迫する。


 左の刀で一閃。


 足を狙った低い一撃は、しかしあっさりとかわされてしまう。読まれている。そう思った瞬間には既に紅夜叉の爪が振り下ろされていた。紅夜叉の爪が颯の右肩を抉る。鎧は紙のように裂け、その下の肉を断ち切った。


 鋭い痛みと衝撃が右半身を襲う。そのまま袈裟斬りにされずに済んだのはギリギリ防御が間に合ったからだ。しかしダメージは少なくない。このまま攻撃を貰い続ければ、自分はそう遠くない未来に死ぬだろう。それだけは避けなくてはならない。


 何故。


 ふと脳裏をよぎった。何故自分はここで死んではならないと感じたのか。わからない。だが、それが重要のような気がする。ここで死ねない理由が何かあるはずだ。思い出せ。思い出せ。


 颯は思考を続けながら刀を振り抜く。紅夜叉は当然のようにそれを躱し、距離を取った。


 今度は紅夜叉の方が攻撃を仕掛けてくる。速い。目で追うのがやっとだ。重くなった身体では躱すことは叶わない。ならばと颯は一歩踏み込む。相手の攻撃を受けてでも滅殺を叩き込もうとした。しかし――。


 足が止まる。ダメージのせいではない。相手の攻撃を受けることを躊躇している。このまま攻撃を受ければ、刺し違えることは叶うかも知れない。だがそれではいけないのだ。この妖を倒し、その上で自らが生き残らなければならない。そんな風に思えてならなかった。


 守れ。


 内なる声が颯に囁く。それが何者の声なのか颯にはわからない。


 守れ。


 内なる声は更に囁く。


 何を?


 内なる声に問いかけても、答えは返って来ない。一体何を守れと言うのか。こんなにボロボロになって、相手には手傷一つ負わせられない自分に、いったいどうしろと。


 思考が定まらない。もう目の前に紅夜叉が迫っている。攻撃も防御も今からでは間に合わない。


 終わった――そう覚悟した瞬間だった。


「颯~!」


 自分を呼ぶ声がする。この声は誰のものだったか。懐かしい。自分は昔、この声を聞いたことがある。ではその昔とはいつか。それはわからない。だが、その声は颯にとって大切なものに思えた。


「お兄ちゃ~ん!」

「颯~っ!!」


 最初の声に次の声が続く。


 颯は咄嗟に呪印を構築した。間に合うかはわからない。それでもやれることをやるべきだと、そう感じたのだ。




 紅夜叉は楽しんでいた。ウォーデッドをここまで一方的になぶれるなど思ってもみなかった。ここまで自分は強くなっていたのだ。石化能力を使うまでもなかった。


 その事実は彼女を高揚させる。口元がにやりと歪んだ。見た目は人間とさほど変わらない自分が、鎧姿の男を圧倒する。これを楽しまずにいられるか。答えは否。楽しむ他ないではないか。


 だからこそ一息には殺さない。少しずつ相手の鎧を破壊し、肉を切り裂き、ダメージを蓄積させる。相手の動きが鈍れば、その分手加減を加え、ギリギリ防げるように、かわせるように、攻撃を仕掛けた。


のろい、もろい。そんなことではつまらないぞ、ウォーデッド」


 あまりの楽しさに、思わず声をかけてしまう。


「随分楽しそうだな。相手をいたぶるのがそんなに好きなのか?」


 答えてやる義理はない。しかし相手の言うことは当たっている。今まで気づかなかっただけで、誰かをいたぶるのは楽しいものなのだ。


 今度は足を狙って攻撃を仕掛けてくるウォーデッド。そんな見え透いた攻撃など当たるはずもない。その場で飛び跳ね斬撃を躱し、そのまま振りかぶった左手を振り下ろす。鎧はいとも簡単に砕け、爪はそのまま下の肉を切り裂いた。が、寸でのところで右の刀が爪の侵攻を阻む。これ以上振り下ろすと自身の左腕を落とされてしまいかねない。仕方なく手を引いた。


 とは言え、相手はもう虫の息。振るった刀にも力が入っていないのがわかる。


 一度距離を取って様子を窺った。恐らく相手が狙っているのは滅殺とやらだろう。ウォーデッドを何人も屠ってきたから知っている。奴等が持つ固有の必殺技だ。目の前のウォーデッドが持つ滅殺がどのような技であるのかはわからないが、喰らえば自分は無に帰すだろう。


 面白い。真っ向から滅殺を破って見せるのもおつというもの。やってやろうではないか。


 思い切り踏み込む。世界が縮むほどに速く、鋭く。ウォーデッドの鳩尾みぞおちに右手を滑り込ませる。


 相手は何やら呪印を展開したようだが、関係ない。そのまま鳩尾を貫く。肉の裂ける感触。滴る血の暖かさ。それらがこの戦いの勝敗を雄弁に物語っていた。

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