兄の帰還

碧原柊

兄の帰還

 七年前に姿を消した兄がふらっと帰ってきたのは、朝から茹で上がってしまいそうなほどの暑さに見舞われていた、八月の終わりのある日のことだった。


 その日、俺は少し遅い夏季休暇を取ってはいたものの特段出かける予定もなく、労働に勤しむ父と母の代わりに年の離れた弟妹たちの相手をしていた。ゴミ出しのために一瞬外に出ただけで汗が噴き出してくるほどの気温の中で、メスを求めて鳴き続けるセミの声は鬱陶しさを通り越して涙ぐましさすら感じてしまう。エアコンはもはや冷暖房器具という名の生命維持装置だ。二十七度に設定された部屋で冷えた麦茶を飲みながら、俺はまず、母親に頼み込まれていた弟妹たちの宿題チェックに取り掛かった。


 終わっているわけがないと予想はしていたものの、三日後に始業式を迎える小四の妹と小二の弟の手元には未だ手つかずの課題がいくつも残っていることが判明して俺は大きな溜息をついた。さすがは俺の弟妹たちだ、期待を裏切らない。その時点で二人の世話を引き受けた昨日の自分を悔やんだが、見なかったふりをするわけにもいかず、「どうしてぎりぎりまでやらなかったんだ」とこぼしつつ、二十七歳サラリーマンの貴重な休日を小学生の宿題に費やす羽目になった。


 悪びれる素振りも見せず「だってしょうがないじゃーん」と開き直っている妹の結衣にいくぶん苛立ちをおぼえつつも、ドリルや絵日記を進めるようにせっつき、ときにはわからない問題を懇切丁寧に教えた。

 丸一日かけて始業式にはなんとか間に合うかもしれないというところまで進んだのを見届けて、俺はほっと胸を撫で下ろした。厄介な読書感想文が残っているが、俺も本を読みきることすらできず提出をすっぽかした経験があるので力になるのは難しそうだ。申し訳ないが父か母にがんばってもらおう、と諦めて夕飯の準備に取り掛かった。


 夕飯前だというのに弟の匠とパピコをはんぶんこしている結衣を横目で見ながらカレーとサラダを作り、いい具合にトロトロになった鍋の火を止めたところでピンポーンと呼び鈴が鳴った。

 どうせ通販か祖父母からの荷物だろうと当たりをつけつつインターホンの応答ボタンを押すと、そこには七年前に突然家を出ていったっきり連絡のひとつも寄越さなかった兄の大貴が立っていたのだ。液晶画面に映る、ざらついた粗い粒子に象られた兄はまるで朝出かけていつもどおり帰宅したかのようになんでもない顔をしていて、それを見た瞬間腹の奥からふつふつと怒りがこみ上げてきた。


 散々心配させたくせに、いまさら何事もなかったみたいに帰ってくるなんて虫が良すぎる。出てやろうか無視しようか迷っていると、背後から結衣の声が聞こえてきた。

「……大貴にい。大貴にいだよね?」

 突っ立っている俺の顔を覗き込みながら結衣が言う。兄が出ていったとき、結衣はまだ四歳にもなっていなかった。一緒に映っている写真はあるが、俺と両親のあいだでは兄はもう帰ってこないものとして扱っていて、もうずいぶん長いこと大貴という名前すら出していない。そんな兄を覚えていたのかと驚くと同時に、大貴はたしかに結衣と匠にとって血の繋がった兄なのだという事実を突きつけられたような気持ちになる。


「ねぇね、だれか来たの?」

 小四の結衣に比べると、まだうんと幼い喋り方の匠が二つ上の姉にまとわりつきながら尋ねた。手には空っぽになったアイスの容器が握られている。結衣が「さっさと捨てなよそれ。プラごみだからね」と大人びた口調で言った。匠は渋々といった様子でキッチンの奥にあるプラスチック用のごみ箱に容器を捨てにいき、戻ってきてまた結衣に聞く。


「あれだれ? 教えてってば」

「大貴にいだよ。覚えてないの?」

「おにいちゃんはひとりしかいないでしょ?」

「もうひとりいるんだって」

 結衣に教えられてもらっても匠にはピンと来ないようで、ふぅんと気のない返事をした。匠にいたっては赤ちゃんに毛が生えた程度のころまでしか大貴に会ってないのだから記憶になくて当然だ。匠の中では、家族は両親と兄ひとり姉ひとりということになっているだろう。


 俺がどんなに腹を立てていたとしても、二人が実の兄に会うきっかけを奪っていい理由にはならない。そう思い直し、俺は玄関に向かった。カルガモの親子みたいにうしろから結衣と匠がついてくる。

 サンダルをつっかけながら三和土に下り、玄関の鍵を外して扉の外に出る。「おまえたちはここで待ってろ」とクロックスのまがいものに足を通そうとしている結衣と匠に言いつけると、あからさまに不機嫌な顔になった。口を尖らせた表情がよく似ているなと思う。


 夜になってもまだ外気の熱は収まっておらず、湿気を含んだ生温い風が一日中エアコンの効いた部屋にいた俺の全身を包んだ。あまりの不快さに思わず眉をひそめる。夏の夕暮れは遅く、午後六時を過ぎてもまだ明るい。アブラゼミの声は鳴りを潜め、代わりに哀愁漂うひぐらしの声が響いていた。


「よう。久しぶり、遼」

 リュックひとつを背負って門柱の前に立っていた兄の大貴は、俺の姿を見ると照れくさそうな笑顔を浮かべて口を開いた。

 その脳天気な声を聞いた途端、弟妹たちのために、と一旦は収めた怒りがまた一気にぶり返してくるのを止められなかった。生きて帰ってきたんだからそれでいいじゃないか、とすべてを許してやるような懐の広さはあいにく持ち合わせてはいない。


「てめえ、どの面下げて帰ってきやがった」

「ずっと連絡しなくて悪かった。ごめんな」

「ごめんで済むとでも思ってんのか。どっかで野垂れ死んでんじゃねえかと心配させられたほうの身にもなってみろ」

 簡単に家にあげるつもりはなかったが、玄関先でやり合っている俺たちの前を、二軒隣に住む石井さんの奥さんが買い物袋を下げながら通り過ぎていった。不自然に見えない程度に視線を向けられたような気がする。これ以上ここで言い争っていたらご近所の噂になるかもしれない――そんな思いがよぎるのと同時に、玄関のドアが勢いよく開いて結衣と匠が飛び出してきた。


「大貴にい! おかえり!」

 久しぶりの再会を喜び、思いきり大貴に抱きついた結衣のうしろで匠がまごついている。大貴はそんな二人の頭を両手でいっぺんにぐしゃぐしゃと撫でた。

「結衣、匠! 元気だったか? 大きくなったなあ」

 目尻に皺を作りながら、大貴が順番に結衣と匠を抱き上げた。軽々と二人を持ち上げる大貴の腕は七年前より逞しくなっているように見えた。出ていったときよりも短く整えられた髪と、浅黒く焼けた肌。目がなくなるようなくしゃっとした笑い方は昔のままだった。


 突然家族がひとり増えた匠は不思議そうな顔で俺のほうを振り返り、「早く入ろ」と結衣が大貴の腕を引っ張る。俺ははあ、とひとつ息を吐いて玄関の扉を開けた。匠、大貴、結衣の順番で靴を脱ぎ、最後に俺が入って玄関の鍵を閉めた。真新しくもなく、かといって履き潰されてもいない、ちょうどよく使い込まれた俺の知らないスニーカーが玄関に並んでいる光景に妙な居心地の悪さを感じてしまう。頬の内側を軽く噛みながらサンダルを脱ぐ。怒っていたはずなのに、いざ迎え入れるとどんな顔をしたらいいのかわからない。


 家中を侵食しているカレーの匂いに気づいた大貴が子どもみたいに笑って俺のほうを振り返る。

「カレーの匂いする。遼が作ったのか?」

「そうだけど」

「昔からカレー作るのは遼の当番だったよな。遼のカレーがいちばん美味いもんな」

「おまえのぶんはねーよ」

「大丈夫、あるよ。お兄ちゃん、いっつも次の日も食べれるくらい鍋いっぱいのカレー作るもん」


 得意げに言う結衣に向かって、大貴が「そうだよな」とまた笑った。

「もうおなかペコペコだよ。おにいちゃん、早くカレー食べよう?」

 一日中夏休みの宿題に向き合っていた匠が悲痛な声をあげる。わかったわかった、と答えると匠はそのままリビングに駆けていってソファにダイブした。無駄に体力を消費するほど有り余っている体力がうらやましい。

「食いたいなら手伝え。その前に手洗ってこい」


 大貴は素直に頷いて背負っていたリュックを床に下ろし、洗面台に向かっていった。結衣と匠、それに洗面台から戻ってきた大貴を手伝わせて食卓に皿を並べる。そろそろ母親も帰ってくる頃合いだが、小学生二人の腹はとっくに限界を迎えているので先に食べ始めることにした。


 いただきます、という声に続いて俺以外の三人がものすごい速度で皿から口へとスプーンを運んでいく。あっという間に皿の中身は胃の中に消え、俺が一杯食べ終わるあいだに他の三人は二杯たいらげた。普段から野菜を食べたがらない匠に「サラダも食べろ」と言うと、匠は気の進まない様子でレタスときゅうりを一枚ずつ、それにツナを少し取って食べた。


「ねえねえ、みんなでゲームしようよ」

 結衣の提案に匠が「やるー!」と右手を挙げる。いきなり兄がひとり増えたことなんて匠にとってはさほど重要な問題ではなさそうだ。それともすでに受け入れているのかもしれない。我が弟ながら順応性の高さに驚く。

 大貴に問い詰めたいことは山ほどあるが、それを二人のまえで口にするのは憚られた。すでに三人はテレビの前に陣取ってどのゲームで遊ぶか相談している。七年ぶりだというのに、拍子抜けするほどあっさり自分たちの中に収まっている大貴が俺には不思議でならなかった。


 結局レーシングゲームをすることに落ち着き、各々自分の使うキャラクターをカスタマイズしているところで、玄関から鍵を開ける音がした。それに続いて、「ただいまー」と言いながら母親がリビングに入ってくる。大貴が顔を上げて母親を見た。


「おかえり、母さん。それと、ただいま」

 ただいまにただいまって返すってどういうことだよ、俺は思わずツッコミそうになるのを堪えた。ゲーム機のコントローラーを握る大貴を認めた母親が目を丸くする。怒るのか、説教するのか、それとも泣き出すか。だが、息子との七年ぶりの再会に母が示した反応はそんな俺の予想を軽々と超えるものだった。


「あら、大貴。あんた帰ってたの」

 あろうことか、母はいつもどおりの表情でそう言ってのけたのだ。ここまで来ると、「もしかして俺のほうが異常なのか?」という気持ちにすらなってくる。

 いくら俺たち家族の成り立ちが一風変わったものだとはいっても、さすがにこれは「ない」んじゃないか。腑に落ちないものを抱えながら、俺はコントローラーを置いて立ち上がった。


「ちょっと出てくる」と言い残し、財布とスマホだけを掴んでリビングを出る。

「あ、遼! 気をつけなさいよ!」

 二十七歳になった息子にも、制服を着ていたころと同じ言葉をかける母親に「大丈夫だって」と素っ気なく返して外に出た。なにか欲しいものがあるわけではなかったが、昂ったままの頭を冷やしたかった。


 日が落ちたぶんいくらかましだが、じっとりと水分を孕んだ空気が肌にまとわりついてきて気持ちが悪い。このままでは近い将来沖縄だけでなく日本のほとんどが亜熱帯になってしまうんじゃないだろうか。そんなことを考えながら家から十分ほどの距離にあるコンビニを目指して歩を進めていると、うしろから「遼!」と俺を呼ぶ声がした。足を止めて振り向く。大股で歩いてくる大貴はあっという間に俺に追いついた。


「なんだよ」

「俺も行こうかなと思って」

「勝手にすれば」

 うん、と言って大貴は俺と肩を並べて歩き出した。昔はよくこんなふうに学校から家までの道を二人で歩いていたな、と思い出して胸のあたりに苦いものが広がる。

 戸籍上、確かに大貴は俺の兄だが、血は繋がっていない。年だって大貴のほうがたまたま三ヶ月早く生まれたから便宜上兄なだけで同じ学年だ。家族という枠に押し込まれるより前、俺たちは親友で、たぶん恋人と名のつくものだった。


 大貴とはもともと家が近所だったこともあって、幼稚園で出会って以降、小学校、中学校と同じ学校に通った。「大貴と遼は親友だもんな」と周りからも言われるくらいには仲が良かったと思う。このまま一緒に大きくなっていくんだろう、そんな予感を抱きながらも、大貴が同級生の女子に告白されたという話を聞くたびになんとなく面白くないものを感じていた。


 親友という関係に変化が生じたのは、中学校二年生にあがったばかりのころだ。

「俺、遼のことが好きだ」

 友達じゃなく、付き合いたいって意味で。

 試験勉強をしていた俺の部屋で、大貴が手を震わせながらそう言った。驚くと同時に、あのモヤモヤした気持ちは大貴に対する恋心だったのかもしれない、と妙に腑に落ちたことを今でも覚えている。

 男同士でそうなることは怖かった。でも大貴が俺の手の届かないところにいってしまうのはもっと嫌だった。うん、と頷くと大貴の顔が近づいてきて、勉強しながら食べていたポテチのコンソメの匂いが混じったキスをした。


 俺たちの関係にもう一度大きな変化が起きたのは、それから半年ほど経ったときだった。

 俺の生物学上の父親と大貴の母親が、判を押した離婚届を置いて駆け落ちしてしまったのだ。

 大貴の家とは家族ぐるみの付き合いをしていたが、当人以外、二人が関係を持っていることにまるで気がついておらず、いなくなってから事の重大さに直面する羽目になった。

 その頃のことは、思い出そうとしてもあちこちピースを失くしてしまったパズルみたいでうまく思い出せない。あまりにひどい出来事は人間の防衛本能として体が記憶を消去してしまうのかもしれない。


 血の繋がった実の親が自分を置いて逃げたというのは、思春期の多感な少年の心に陰を落とすにはじゅうぶんすぎるほどの事件だった。情熱を傾けていたテニス部も三年生にあがるまえに退部し、大貴に合わせる顔もなく(それはお互いさまだっただろうが)朝起きてまた寝るまでの時間をなんとか潰しているような、そんな無気力な日々を送っていた。


 当然勉強にも身が入らず、上位三分の一程度には入っていたテストの成績も最下層まで落ちた。そんな息子を見るに見かねた母親は、とんでもない冒険に出た。

「遼。お母さんね、大貴くんちといっしょに暮らそうと思う」

 大真面目な顔で母親がそう切り出したとき、ついに頭がおかしくなってしまったのだと俺は思った。当然だ、自分の夫が壊した家庭と同居するなんて正気の沙汰じゃない。中学生の拙い考えながら、これはメンタルクリニックにでも連れて行ったほうがいいのかもしれないと不安になった。


 しかし、俺の想像に反して母親はおかしくなったのでもやけくそになったのでもなかった。真剣に考えた結果、この傷を癒やし、前を向いて歩いていくためには、同じ思いをしている二人と共同戦線を張るのがいいんじゃないかという結論に行き着き、自分たちのことを誰も知らない土地で再出発しないか、と大貴の父親に申し入れた。そして大貴の父親はその申し出を受け入れた。

 

 そうして、俺の母親と大貴の父親は俺たちを育てるために戦友として再婚することを決めた。いま考えてもとんでもない豪胆さだと思うが、俺たちのことを考えて悩みに悩んだ末の決断だったのだと思うと頭が上がらない。

 その時点で二人は、もしも互いの伴侶が帰ってきたとしてもやり直すことはあり得ないと腹を括ったのではないだろうか。高校入学に合わせて引っ越し、同じ家で暮らす俺たちはあまり似ていない双子として自然と街に溶け込んだ。大貴たちと暮らしたらいつまでも傷の舐め合いになるんじゃないか――そんな不安はすぐに消え去ったのも良かった。あたりまえに日常を過ごす大貴と大貴の父の姿を見ているうちに、俺も自然と背筋が伸びるようになってそのうちに成績も上がっていった。


 面倒なことにならないように、と別々の高校を選んだので、俺たちが元は別の家族だったと気づく人間は誰一人いなかった。そのうちに結衣が生まれ、さらに二年後に匠が生まれた。

 俺の預かり知らぬところで俺の母親と大貴の父親になにがあったのかというのは知る由もない。戦友として新たなスタートを切った男女が本当の夫婦になることだってあるだろう。年の離れた妹と弟は文句なしに可愛かった。俺と大貴に血の繋がりはないのに、結衣と匠は俺とも大貴とも血が繋がっているのというのがなんだか不思議だった。


 家族になってからの俺たちの関係が中学校のころ以上に進展することはなかった。というよりも、意識的にお互いその話題を避けていたのだと思う。それでも俺は良かった。家族だったらきっと大貴との関係が途切れることはないだろうから。だからこそ、俺は腹が立ったのだ。大貴が突然家を出てそれから連絡のひとつも寄越さなかったことに。

 

 なにを話すでもなく、俺たちは無言でコンビニまでの道を歩いた。息が詰まりそうになり、煌々と光り輝くコンビニが見えたときにはほっとした。

 中に入るとキンキンに冷房が効いていて、快適さを通り越して身震いしてしまう。雑誌の表紙だけを眺め、新商品と書いてあるデザートをチェックしても特に欲しいものはなく、かと言って手ぶらで帰るのもどうだろうと逡巡していると、同じように店内を見回っていた大貴が口を開いた。


「そういや母さんが玉子とベーコン買ってきてくれって」

 わかった、と頷く。買うものがあるならちょうど良かった。かごを取って玉子とベーコンをそこに入れる。ついでにビールでも買って帰るか、と三五〇ミリリットルのアルミ缶を二本手に取ると、アイスケースを覗いていた大貴が満面の笑みでアイスをひとつ手に取った。


「遼、久しぶりにパピコ食おうぜ」

 大貴の指がつまんでいるのはホワイトサワー味のパピコだ。家に買い置きがあるぞ、とは言えなかった。外で食べる場合、パピコは二本いっぺんに食べるしかないし、そうでなければただの甘ったるい液体になってしまう。高校のとき、クラスメイトが「俺はリア充に負けない」とわけのわからない理屈を述べながらひとりで二本食べていたが、結局最後には溶け切った甘い水を侘びしく啜っていたことを思い出した。

 

 会計を終え、ビニール袋を手にコンビニを出る。足を動かすたびにビニール袋がガサガサと音を立てた。

「食ってから帰ろうぜ」と大貴が近くの公園に向かっていく。夜の公園には俺たちのほかに誰もおらず、怖さを感じさせるほどしんと静まり返っていた。

 大貴はベンチではなく、赤と緑と青に塗り分けられたカラフルなブランコに腰を下ろした。ここに引っ越してくる前、俺たちが小さなころ遊んでいた公園にあったブランコは、もっと素っ気なくて塗装もところどころ剥げている古びたものだった。この公園は遊具も新しく、近くに大きなマンションもあるので昼間はいつも家族連れや小学生で賑わっている。


 ビニール袋の中からパピコを取り出し、半分に割った片方を大貴に差し出してから、俺もブランコに腰を下ろした。ツマミを引くとそっち側に少しアイスが残るのがいつも気になってしまう。ツマミ側に残ったアイスを吸いながら隣を見ると、大貴も同じことをしていた。

「そんで? この七年どうしてたんだよ」


 俺は思いきってそう切り出した。高校を卒業したあと、俺は大学に進学し、大貴は建築系の専門学校に進んだ。そのまま家から通える就職先を探すのかと思っていたら、ある日突然大貴は家を出ていった。両親も寝耳に水だったようで、何度も連絡したが繋がることはなく、最後には「なにか理由があるんだろうし、生きていてくれさえすればそれでいい」と諦めてしまった。

「東京で仕事探して、まあなんとかやってたよ。東京っつってもずいぶん端っこのほうだけどな」

 大貴の言葉を聞きながらアイスを啜る。アイスを持つ指先がどんどん冷えていく。わかっているくせに、俺が求めている答えを返してこないことに苛立った。二十歳だった俺たちも、もう二十七歳だ。


「……俺が聞きたいのはそんなことじゃねえよ」

 吐き捨てるように俺がそう言うと、大貴はうん、と小さく頷いて押し黙った。なにも言わず、大貴が再び口を開くのを待つ。

「俺の母さんと、遼の父さんのこと探してた」

 ひとつひとつ、音を確かめるようにゆっくり大貴の口からこぼれていく言葉を夜の闇が吸い込んだ。

「働いて、金貯めて、探偵事務所に依頼した。あの家にいて、二人の世話になりながらやるのは違うだろって思った」

「なんでわざわざそんなことしたんだ。勝手にいなくなった奴のことなんかほっとけばいいだろ」

「わかってる。でも……俺が遼のこと好きになったから、だから遼の家族を壊しちゃったのかもしれないってずっと考えてた。俺が遼のこと好きにならなかったら、遼の父さんが遼を捨てることもなくて、俺たちはずっと親友でいられたんだろうか、って」


 寂しそうに笑う顔が胸に痛かった。真夏なのに木枯らしに吹かれているような心持ちさえした。大貴はなおも言葉を続ける。

「札幌に住んでんだよ。娘が二人いて、幸せそうだった。俺の顔見て泣きながら謝ってくんの。許してもらえるとは思ってないとか言ってさ。それ見たらどうでも良くなっちゃってさ。バッカじゃねえの、って」

 はは、と乾いた笑い声が静まり返っている公園に響く。大貴が蹴った小石がブランコの柵に当たって小気味良い音を立てた。バカだな、と思う。大貴が罪の意識を抱く必要なんて、最初からどこにもなかったのに。


「あいつらもだけど、おまえもバカだよ。俺の親父もおまえの母親も、家族捨てて逃げるようなクソ野郎だったってだけだ。俺もおまえも、なんも悪くないに決まってんだろうが。それに、そうなったからいまが不幸ってわけじゃねえだろ。俺たちは家族になって、父さんも母さんもきっと幸せで、俺ともおまえとも血が繋がってる結衣と匠がいる。これから先ずっと、なにがあっても俺はおまえの家族でいてやることができるんだよ。それじゃ駄目なのかよ。なあ、大貴。答えろよ」

 気づけば俺は、しゃくりあげながらまくし立てていた。目の端がぬかるんで、大貴の姿も公園の遊具も電柱も照明もすべてがぼやける。人が人である以上、どうにもならないことはいくらでもある。神様を恨みたくなるほど最低なことが起きても、俺たちはちゃんと前を向いて歩いている。


「……ごめん、遼。ごめんな」

「もう勝手にいなくなるなよ。心臓に悪いから。あと父さんにも母さんにも、結衣にも匠にもちゃんと謝れ」

「うん、わかった。約束する」と大貴が頷く。

 年甲斐もなく外で泣いてしまったことが気恥ずかしく、俺は「くそっ」と悪態をつきながら腕で目を擦った。

「ってか遼、アイス食うの忘れてんじゃね?」

 大貴にそう言われて持ったままのアイスを慌てて口に運ぶ。時すでに遅し、中身はどろどろの液体に成り果ててしまっていた。やっちまった、と思いながら溶けたパピコを一気に啜ってブランコから腰を上げた。


「遼、アイス食うのクソ遅いよな」

「うるせえ。ラーメン食うのは俺のほうが早いだろ」

「猫舌なんだよほっとけ」

 昔のようなやり取りを交わし、大貴と顔を見合わせて笑った。

 家までの道を戻りながら、俺はずっと心に引っかかっていたことを大貴に打ち明けてみた。

「俺、本当はおまえがもう俺といたくないからいなくなったんじゃないかって思ってた」


 この七年間、なにをしてもどこにいてもその考えが頭の隅に居座り続けていた。家族としてでもなんでもいいから、大貴のそばにいたい。そう思っていたのは俺だけで、大貴は離れたかったんじゃないか――答えの出ないその問いを、何千、何万回と繰り返してきた。きっと大貴も同じように、自分が犯したかもしれない罪について問いかけてきたのだと、いまならわかる。

「そんなわけないだろ。遼に会いたくて帰ってきたんだぞ」口を尖らせながら大貴が言った。それから「もちろん、父さんにも母さんにも結衣にも匠にも、だけど」と付け加えた。どうやら結衣と匠が口を尖らせるのは大貴譲りのようだ。二人の顔が頭をよぎって思わず吹き出してしまう。


「なに笑ってんだよ」

「なんでもねえよ」

「なあ、遼」

「なんだよ」

「俺はやっぱり、おまえのことが好きだよ」

 あのときと同じように、うん、と頷く。


 親友になって、恋人になって、兄と弟になった俺たちの関係がここからどこに進んでいくのか、それは俺にもわからない。ガサガサとビニール袋の音を立てながら、俺たちはそっと手を繋いだ。アイスを握っていたせいで冷えた手が、じんわりあたたかくなっていく。離れていた時間を取り戻そうなんて思わなくたっていい、ここからまた同じ時間を重ねていくことができるのだから。そんなことを思いながら二人並んで歩く。生ぬるい風が俺たちのあいだを通り抜けていった。

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兄の帰還 碧原柊 @shu_aohara

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