【KAC20232】チコとブラウン

音乃色助

第1話(完結)


 私は固い椅子の上に座っている。

 両足を前に投げ出し、腕は二本ともだらんと力なく下している。

 私の視界を人が通り過ぎていく。親に手を繋がれた幼子が、歩きながら私の顔に目を向けることもままあった。そのままフェードアウトしていくのが常だったが、時折彼らは物欲しそうな目つきで、親の顔を窺いながら言った。


「お母さん、この子欲しい。ねぇ、買って?」

「ダメよ。こんな大きいの、どこに置くっていうの」


 駄々をこねる彼らの手を引っ張り、親たちが私の元から離れていく。その光景は私の日常であった。その景色が私の前で何度も、数えきれないほど繰り返された。


「この子、全然売れないわね。もう入荷して二年だっけ?」

「かわいいんだけど、割高なのよ。新しいシリーズもどんどん出てきてるし、このまま置いててもしょうがないかもね」


 私の毛についた埃を払いながら、目の前ではぁっと嘆息する音が聞こえた。



 ある日のことだ。私の前を通り過ぎようとした少女がピタリと足を止め、口元に指をあてがいながら、じぃーっと私の顔を見つめた。切りそろえられた黒髪が綺麗な愛らしい子だった。


「お母さん、この子欲しい。ねぇ、買って?」


 幾度となく聞いたその言葉。だけどその日は、その先の台詞が違っていた。


「あら、大分古ぼけているように見えるけど、この子でいいの?」


 少女の言葉を受け、その母親と思しき人がやってくる。母親は私の全身像を品定めするように見やりながらそう言った。少女がニンマリと頬を引き伸ばしながら、


「うん! 私この子がいい!」

「そう、今日はチコの誕生日なんだから、チコが欲しいものを選んだらいいわ」

「やったぁ! ママ、大好き!」


 チコと呼ばれた少女が飛び上がり、彼女の母親に抱き着く。

 ほどなくして、私は大きな茶色の紙箱の中に全身を入れられた。


「それじゃあ、明日までに郵送しますので」

「ええ、お願いします」


 その会話を最後に、私の視界が暗がりに包まれる。



 次に視界が明るくなった時、私の目の前に見覚えのある少女の顔があった。チコと呼ばれていた彼女だ。


「わぁ! いらっしゃい! ここが私のおうちなの、今日からあなたのおうちでもあるのよ!」


 そう言い、茶色の紙箱から出された私をチコがぎゅっと抱きしめた。彼女はまっさらな頬を私の顔に摺り寄せていた。

 やがてチコが私から体をはがし、興奮した口調で言う。


「あなたに名前を付けてあげなくちゃね。あなたはとっても綺麗な茶色の毛をしているから、ブラウンってのはどう? 素敵な名前でしょう!」


 その後チコは、ブラウン、ブラウン、と繰り返しながら、私の頭を撫でた。飽くる様子を見せず、ニコニコと笑いながら私のことを何度も抱きしめた。





 チコは毎日のように、私に声をかけた。


「おはようブラウン! 今日はとっても天気がいいね。お昼になったら一緒にひなたぼっこしましょう?」

「ブラウンただいま! 今日は体育の授業でなわとびをやったの。二重飛びがなかなか上手にできなくって、明日からお庭で特訓しなくっちゃ」

「今日、あなたのことを友達に自慢したの! みんな、すごく羨ましがってたわ。えへへ、私、あなたを褒めてもらってとっても嬉しかった!」


 物言わぬ私に向かって喋りかけるチコは、いつも笑っていた。笑っている彼女を眺めながら、彼女の両親もまた口元を綻ばせていた。


「チコはブラウンのことが大好きなんだな」

「本当ね。チコ、大切にしなくちゃダメよ?」

「うん! とっても大切にするよ!」


 私がこの家にやってきてから、三人の笑顔は常に絶えない。



 ある日、チコが私に提案する。

「今日は公園に行こうと思うの。一緒に砂遊びをしましょう」

 少女の言葉を受けて、近くにいた彼女の母親が目を少し見開きながら、

「あら、ブラウンを外に連れて行くの? 汚さないように気を付けてね」

 それだけ言って、私たちの元から離れる。

「はーい! 行きましょう、ブラウン」

 少女は元気よく返事をしたのち、私の手を掴み外の世界に飛び出した。


 公園に連れられた私は、砂場の上に座らされた。対面にいるチコがせっせと砂を積み上げる様を眺めていた。

「見ててブラウン、私、砂の山をおっきく作るのがとっても得意なんだから」

 チコがふふんと鼻を鳴らし得意げに言う。私はというと、黙って彼女を見つめるばかりだ。

 ふいに私の前方から、複数の足元と共に耳慣れない声が聞こえる。


「あらチコ、もしかしてその子が、前に言ってたブラウンかしら?」


 チコが振り返る。彼女の目の前には、チコと同じくらいの背丈の子供が三人立っていた。チコが返事を返すも、その声はいつもより元気がないように聞こえる。


「あ、うん……。どう、とってもかわいいでしょう?」


 チコの言葉を受けて、三人組の一人が私の全身を舐めるように見やった。


「あなたがあんなに自慢するもんだからどんなに綺麗かと思ったら、薄汚れていて古めかしいじゃない。私の家にいる最新シリーズの子の方が、よっぽどかわいいわ」

「そんな、そんなことないよ。ブラウンを悪く言わないで」


 チコが立ち上がり、泣きそうな声で言う。


「そうだ、良いことを思いついた。私たちがその子をお似合いの姿にしてあげる」三人組の一人がそう言うなり、徐に私に近づいてきた。


「何、何をする気なの?」

「こうするのよ」


 三人組の一人が屈み、砂場の砂を片手で掴み上げたかと思うと、私の頭の上からさらさらとかけはじめた。

 すると後ろにいた二人も、習うように砂を掴み、私の全身にぶつけていく。


「やめて、やめてよ」


 チコがいよいよ泣きじゃくりながら言った。だけど三人組は彼女の声に耳を貸さずに、むしろ面白がる風につづけた。

 私の毛の中に砂が注ぎ込まれる。開きっぱなしの瞳の表面にもかかった。私はじっとしながら、彼女らの行為をただ享受していた。


 しばらくして、アハハと笑いながら三人組が私たちの元から立ち去った。チコは嗚咽を漏らし、目に涙を溜めたまま私の全身についた砂を一生懸命払った。「ひどい、ひどいよ」

 やがて彼女は泣き止み、私の手を掴んで立ち上がる。


「帰ろう、ブラウン」


 夕暮れが照らす道路をとぼとぼと歩きながら、私たちは帰路を辿った。


 家に帰った私の姿を見てギョッと顔を強張らせたチコの母親が、強い口調でチコに言った。


「あれだけ汚しちゃダメって言ったのに、砂まみれじゃない。明日はおやつ抜きだからね。すぐにお風呂場でブラウンを洗ってあげなさい」


 チコは返事をせず、顔を俯かせたまま私をお風呂場に連れて行った。

 私の全身をゴシゴシとタオルでこすりながら、「私の、私のせいじゃないのに」ぶつぶつと、低い声で繰り返していた。





 チコが私に声をかける回数が、次第に減っていた。たまにしゃべりかけられるも、彼女はすぐに沈鬱な表情になって、私から目を逸らした。私はリビングの隅の床に無造作に置かれ、両足を前に投げ出し、二本の腕をだらんと下ろしながら、じっと前だけを見つめていた。私の身体の表面に埃がたまっていく。以前は時折、チコが私を綺麗にしてくれたが、今では私に触れようともしない。


 窓の外の景色が暗くなり、明るくなり、また暗くなり、明るくなる。

 それがどれだけ繰り返されただろうか。

 気づけば、チコは私に目を向けることさえしなくなっていた。まるで私という物体などはじめから存在しなかったかのように、チコは私に一切干渉することなく、彼女の日常を積み重ねていった。





 チコは、はじめて出会ったときと比べて大きく成長していた。彼女の母親と違わないくらいの背丈になっていた。同時に、私の映るリビングの光景にも変化が訪れる。チコの両親たちが口論する日が増えた。


「最近は週末、ゴルフばっかりでろくに家にいないじゃない」

「これも仕事なんだよ。しょうがないだろう」

「あら、ただの仕事ならどうして、こんなにたくさんゴルフクラブを買う必要があるのかしら? 誰を招くわけでもないのに、観賞用のスタンドまで買って、成金趣味もほどほどにしてよね」

「俺の稼いだ金だ。俺がどう使おうが買ってだろう。お前に何か言われる筋合いはない」


 最初のころは互いに冷静さを努めるよう、静かな声で会話を交わして二人だったが、日を追うごとに、容赦なく大声でののしり合うようになった。そんな二人の中にチコが割って入ろうとする。


「お父さん、お母さん、やめてよ」

「チコ、中学生はもう寝る時間でしょう。自分の部屋に戻りなさい」

「でも」

「いいから、大人の話に子供が首をつっこむんじゃない」


 二人はチコの悲痛な声に一切耳を傾けず、彼女の言葉を無視して喧嘩をつづけた。チコは哀しそうに顔を歪ませ、やがて諦めたように嘆息してリビングから出ていく。そのやり取りが毎夜、私の目の前で繰り返されていた。



 ある日のことだ。窓から茜色の日差しがリビングに注ぎ込まれていて、その場所はがらんとして誰もいなかった。しかしドアの開く音が聞こえ、誰かが中に入っくる。チコだった。

 チコはぼうっとした様子でしばらく佇んでいた。やがてゆらりと顔を動かし、私を見る。何年かぶりに、私とチコの視線が交差した。チコがおぼつかない足取りで私に近づく。彼女はしゃがみこみ、埃だらけの私の頭を撫でながら言った。


「お父さんとお母さんね。離婚することになったの。お母さん、この家出ていくんだって。これからは私とお父さん、二人だけで暮らしていくんだ」


 チコは笑っていたが、目から涙もこぼれていた。





 また長い時が経った。

 チコの母親の姿を見なくなってから、この家はめっきりと静かになった。チコと彼女の父親が二人一緒にいることはほとんどなかった。

 チコの背丈が大きく成長することはなかったが、容姿は少しずつ変化していった。髪が茶色に染まり、耳にリング状の金属の物体が装着されていた。


 ある時チコが男の人を連れて、二人でリビングに入ってきた。その人は彼女の父親ではなかった。

 カーテンを閉めているチコに向かって、その男の人が言う。


「本当に、親は夜まで帰ってこないんだよな?」

 チコがうなづき、

「うん。うち片親だし。お父さん、最近は帰ってくるの夜中なんだ」


 チコはソファに座っているその男の人の元に向かい、隣に腰を掛ける。ほどなくして二人は体を密着させはじめた。かつて、私の全身を洗うため、お風呂場でそうしていたように、チコもその男の人も、自らが纏う衣服をはぎとりはじめる。暗がりの空間で、肌色の彼らが蠢いているのを私の瞳がずっと捉えつづけた。

  

 チコはその日からしばしば、その男の人をリビングに連れてきて、同じことをするようになった。でもある夜を境に、その出来事がピタリと止まった。

 ある夜――その日は珍しくチコと彼女の父親が二人でリビングにいて、彼らは何やら言い争っている様子だ。


「高校生の癖に、俺に黙って男を連れ込んでいたとはな。お前はいつからそんな不良娘になってしまったんだ」

「別に誰かに迷惑かけてるわけじゃないんだから、いいでしょ? 私の家に誰を呼ぼうが、お父さんには関係ない」

「お前の家? ふざけるなよ。この家のローンは誰が払ってると思ってんだ。お前の食費を、誰の給料から払ってやってると思ってんだ」


 その光景に、私は見覚えがあった。かつてチコの両親が口論していた様にそっくりだった。

 その日から、静かだったリビングに再び、人の声が鳴るようになった。チコと彼女の父親は、顔を見合わせるたびに大声で怒鳴り合った。彼らの笑顔を最後に見たのは、いつだろうか。





「いたっ」


 チコと彼女の父親がののしり合うようになってからほどなくして、いよいよ父親がチコに手をあげた。チコはよろめき地面に倒れ込み、鼻息を荒くした父親が彼女を見下ろした。涙目になったチコが頬を手のひらで抑えながら、父親をにらみ上げる。


「サイテー、こうやってお母さんにも暴力振ってたんだ」

「お前が言うことを聞かないからだろう。私は何も間違っていない。毎日お前たちのために働いて、お前たちのことを考えていたのに、なんでそれをわかってくれないんだ?」

「お父さんは私やお母さんのことなんて、これっぽっちも考えてないよ。私、知ってるんだよ? お父さん、ずっと浮気してたんでしょ。だからお母さん、愛想尽かして出て行っちゃったんでしょ。そんなひどいことをしたお父さんの言うこと、聞くわけないじゃん」

「なっ――」


 チコの父親は顔を真っ赤にして、わなわな震えていた。やがて彼はふぅっと大きく長い息を吐き、だし抜けにリビングから出て行った。

 地面にへたり込んでいたチコはよろよろと立ち上がり、ソファに腰を落とす。両手のひらで顔を覆って、動かなくなった。時折、彼女が鼻をすする音が聞こえてくる。


 彼女の視界は手のひらで覆われている。だから彼女は気づかない。

 でも私の視界は捉えている。静かにリビングのドアを開き、再び部屋の中にやってきた彼女の父親の姿を。


 彼女の背後ろに忍び寄った父親の手には、長いロープ状の物体が握られていた。確かあれは、幼いころチコが庭で使用していたものだ。彼女はそれをなわとびと呼んでいた。

 彼女の父親がロープを、前かがみになっているチコの前に垂らす。

チコが顔を上げた。彼女はようやく父親の存在に気づいたようだ。


「えっ、お父さ――」

 驚愕を顔に浮かべながら、チコが振り返って何かを言おうとした。しかし彼女の発声が途中で止まった。

 チコの表情が一変する。彼女は苦悶するように顔をゆがめる。

 チコの首元に、彼女の父親が握ったロープが巻きつけられた。


 自身の首元に両手をかけたチコが、ばたばたと両足を動かしていた。ソファの前にあるテーブルに足先が当たり、大仰な音がリビングに響く。チコは五体をくねらせ、抗うように暴れつづけた。


「お前が、お前らがいけないんだ。お前らが、私の言うことを聞かないからこうなるんだ。悪い子には、おしおきが必要なんだ」


 ぶつぶつと何かをしきりに呟いている彼女の父親が、強く握った拳を緩める気配はなさそうだ。彼の目は焦点が合っておらず、何かを捉えているようには見えない。

 チコは何かを言おうと、叫び声をあげようとするもままならない様子だ。やがて彼女の動きが緩慢になっていく。顔はひどく青白かった。


 私は直感した。チコはこのままほどなくして、動かなくなる。

 同時に、彼女と出会ったばかりのころを思い出した。


 私がはじめてこの家に来た日、チコは興奮冷めやらぬ様子で、夜が更けるまで私に喋りかけつづけた。寝る時も私を寝室に連れて行き、私を抱きしめながら眠りに落ちた。私はあの時の彼女の体温を覚えている。今でも彼女は、あの温かさを持っているのだろうか。このまま彼女が動かなくなったら、彼女の体温はどこに行ってしまうんだろう?


 今までに感じたことのない感覚が私の身体を巡っていた。

 じっとしていられない衝動が、私の身体を突き動かそうとしていた。

 チコを助けなければならない。

 今、それができるのは、私だけだ。


 私は、前に投げ出していた両足を引き寄せ、立ち上がろうと試みた。体が軋む感覚があるが、できないことはない。私はそのままよろよろと、ひどく緩慢な所作で歩き出した。

 二人が私に気づく気配はなかった。私は壁伝いに進み、リビングの脇に何本もたて掛けられている長い棒状の鉄を一本、手で掴んで引き上げた。チコの両親たちがゴルフクラブと呼んでいた物体だ。


 私は二人に近づく。両手でゴルフクラブを握りこんだまま、ゆっくりと頭上で振りかぶった。


「……えっ?」


 ようやく、チコの父親が私に気づいたようだった。彼は目を大きく見開き、私のことを凝視していた。

 私は両腕を振り下ろす。ゴルフクラブの先端が、彼の頭に直撃した。


「がっ」


 声にならない声を一瞬だけあげたのち、チコの父親はぐらりと地面に倒れ込んだ。横たわったあと、彼の頭から赤い液体が流れだす。チコの父親は目を見開いたまま、動かなくなった。


「げほっ、げほっ……」


 チコがせき込み、荒い呼吸を繰り返したあと私を見た。

「えっ」、ソファに座っている彼女が二本足で立っている私を見上げたあと、破竹の勢いで立ち上がり、今度はソファの裏で横たわっている彼女の父親の姿に目を向けた。


「ウソ、なんで、どうして」


 私の手に握られているゴルフクラブからは、チコの父親の頭から出た血がしたたっていた。私はチコに近づこうと、よろよろと再び足を動かした。すると、


「ひっ……!」


 短い悲鳴をあげたチコがあとずさる。「こ、こないでっ!」、声を裏返らせながら彼女はそう言った。来ないでと言われたので、私は彼女の指令通り、ピタリと足を止める。

 チコはわなわなと震え、及び腰の姿勢で手を伸ばしはじめた。テーブルの上に置いてあった小さな機械のような物体を手に取り、耳にあてがう。


「――も、もしもしっ! あの、えと……、私の家の『トイ・ヒューマン』が勝手に動き出して……、私の父を、こ、殺したんです! このままじゃ私も……早く、早く助けに――」



 しばらくして、けたたましく甲高い音がリビングの外から聞こえてきた。

 そしてすぐ、リビングの中に見知らぬ男の人が大量になだれこんでくる。

 私の五体は彼らに拘束された。私の手首に鉄状の丸い何かがはめられた。


「オイ、歩け」


 歩けと言われたので、私に鉄状の丸い何かをはめたその人の指令通り、私は彼らに連れられるままリビングを後にした。

 去り際、チコの顔が視界に映る。彼女はひどく怯えた顔つきをしていたが、ちゃんと息をして、生命活動を維持できているようだった。私は生まれて初めて目を瞑り、すぐに開けた。





 『トイ・ヒューマン』がはじめて商業発売されたのは今から二十年ほど前だ。高性能AIが搭載されたヒューマノイドロボットじゃあ飽き足らず、人々は本物の人間を飼うのを欲しはじめた。


 ホムンクルス技術の発達によって生み出された人造人間たちは、人の命令を従順に聞くよう脳がプログラムされている。人口低下により労働人員が不足していた現代において彼らは救世主となった。今では街で人造人間の姿を見かけるのも珍しくなく、最新のモデルだと普通の人間と見分けのつかない奴までいる。人造人間の存在を現代文明は受け入れ、業務利用だけでなく、娯楽や鑑賞用にまで製造されはじめた。


 『トイ・ヒューマン』は、玩具メーカーによって企画・販売された幼児向けの人造人間だ。妹や弟が欲しいとねだる一人っ子の子供などに需要があり、一時期は爆発的に人気が出たが、業務用と比較して脳プログラムが単純化されているため、彼らができることは少なかった。特に初期シリーズは、自発的に言語を発したり、子どもたちの行動にリアクションをする機能が備わっておらず、できることと言ったら歩行くらい。近くの公園まで一緒に散歩するくらいが関の山だったため、すぐに飽きられて不法処分されるケースが多く、社会問題にもなった。



「――つまり、初期シリーズの『トイ・ヒューマン』が、自らの意志で勝手に動き出すことなんてありえないというのが、『トイ・ヒューマン』シリーズ開発部主任であるあなたのご意見なんですね?」


 目の前の刑事がギロリと俺のことを睨みあげたので、俺は肩をすくませて答えた。


「ええ、今までにもそんな報告一件もないですし、その事件――『トイ・ヒューマン』が一人の男性をゴルフクラブで殴って殺した、んでしたっけ? ――に関しても、ちょっと信じられないというか。やっぱりその場にいた娘さんっていうのが、自分の罪を隠蔽するためにそんな嘘をでっちあげてるんじゃないですかねぇ?」

「我々もそう思ってはいるんですが、この事件は不可解な点が多くてですね。まず、娘さんが自分の父親を手にかけたのなら、そのあとすぐ通報するのはおかしいし、なにより、凶器に使われたゴルフクラブの柄から、逮捕した『トイ・ヒューマン』の指紋が確かに検出されたんですよ」

「なるほどねぇ」


 俺はちらりと、すぐに近くの実験用医療ベッドに横たわっている、『トイ・ヒューマン』――逮捕された張本人である『彼女』に目をやった。初期シリーズは茶色の長髪が綺麗な印象があったが、何年も手入れがされていないため毛はボロボロになってしまっている。


 目の前の刑事が手に持っていた手帳をパタンと閉じて、「では、何かわかったらご連絡ください」、杓子定規な敬礼を披露したのち、研究室を後にした。


 部屋に残されたのは俺と彼女だけ。

 俺は彼女が横たわっている実験用ベッドの脇に腰をかけ、しばらく彼女の顔を眺めていたが、彼女は目を見開いたまま拙い呼吸を繰り返すばかりだ。


「お前さん、ホントにお前さんが自分の意志で動いて、人を殺したりしたのかよ?」


 俺がごちるようにそう投げかけた。もちろん彼女からの返答はない。初期シリーズである彼女に言語機能が脳にプログラミングされてないからだ。


「……なわけ、ねぇよなぁ」


 俺は自重するように乾いた笑いをこぼし、腰を上げる。そのまま彼女に背を向け、部屋から出ようと入り口に向かった。


 自動ドアが開くと同時、背後ろから、何やら物音が聞こえた気がするが……まぁ気のせいだろう。



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【KAC20232】チコとブラウン 音乃色助 @nakamuraya

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