ヌクレオチドの伝言

鳥辺野九

ポリヌクレオチドの鎖


 こんな依頼も珍しい。

 ナノマシン結合子ドライバーをリモート操作しながらアキチカは考えた。

 ぬいぐるみを自分のペットに似せてデザインする。それ自体はよくある事例だ。

 ペットを飼ったことがあるならば、誰しも別れを経験するはずだ。寿命の短い愛玩動物との死別は避けられない事象だから。

 だからこそ、家族同然に愛した生き物を姿形そっくりに再生させる。

 塩基配列を人工的に縫い合わせ、遺伝子デザイナーの意のままに生物をリデザインする生体ぬいぐるみは旧来の遺伝子工学の遺産だ。

 現代遺伝子工学においては塩基配列を縫い合わせるどころか、ゼロからデザインできるまでに発展している。それなのに従来の生物が持つ塩基配列を縫い変える旧式の生体ぬいぐるみで、あえて、元々そこにはない『ある特定の塩基配列』を縫い合わせるだなんて。二重の手間暇かけてぬいぐるみを縫い直すようなものだ。


「ご依頼の遺伝子構造ですと」


 アキチカは耳に固定したイヤフォンを外し、乱雑に物が置かれたデスクに放り投げた。イヤフォンは耳から離れたことを感知して音声スピーカーをオンに切り替える。


「どうしても生体として寿命が短いものになります。言うなればワクチンに対する副反応みたいなものです」


『ええ。承知しています。何度も申し上げている通り、そのヌクレオチドの鎖が必要なのです』


 イヤフォンの向こう側、通話相手はすでに分かりきっているといった口調で言った。何を言っても無駄か。アキチカは改めて疲労を感じた。


「あくまでも確認のお電話ですので、気を悪くしないで聞いてください」


 ナノマシン結合子ドライバーをリモート操作して遺伝子の塩基配列を縫い合わせる。ただでさえ神経をすり減らす作業なのに、わざわざ生体ぬいぐるみが持つ寿命を短くして特定の日時に死亡させる遺伝子を組み込むだなんて。

 この疲労感は精密作業のせいだけではなさそうだ。アキチカは眉間を強く摘んで揉んでみた。少しでも眼精疲労が和らげばいいが。


「倫理観や正義感から確認するわけじゃありません。シンプルに興味があるからです」


『何でしょう?』


「何故、西暦2222年2月22日に、このぬいぐるみは生命活動を停止しなければならないのですか?」


『決まってるじゃないですか。その日が記念すべき猫の日だからですよ』


 古臭い卓上カレンダーをめくってみる。何度見返しても今年は西暦2251年だった。2月22日の猫の日とやらは再来月にもやってくる。


「生体ぬいぐるみの寿命を精密にコントロールし、30年も過去へ送り届ける意味が理解できないのです」


『タイムデリバリー技術が確立したのは2249年の出来事です。今現在に至って2222年に戻ることに不思議はないでしょう?』


 ほら、これだ。アキチカの口から重いため息がこぼれた。どうやっても話が噛み合わない。

 タイムデリバリー技術を利用すれば生体ぬいぐるみを過去へ送ることは難しくない。時間遡行の重量制限は今のところ5,000グラムが限界だ。いつの日か人間サイズの物体も過去に送ることも可能になるだろう。

 時間運輸法に抵触する事案でもない。生体ぬいぐるみに時間を遡る旅をさせることそのものに問題はない。寿命をコントロールして特定の日付に命を消滅させることが、アキチカの腹の底に溜まったわずかな道徳心に訴えかけている。


『テレビ通話を許可してもらえますか? 私のぬいぐるみを見たいのですが』


「ええ、いいですよ」


 物が雑多に積まれたデスクを見られるのも別に構いやしない。伸び放題の無精髭に眉間の険しいシワだって不眠不休で業務にあたっている証だ。PCのカメラを起動させ、アキチカは疲れた身体を斜めに傾けてケージで眠る生体ぬいぐるみを映してやった。


『ああ、私のアリアドネちゃん』


 ケージの中のリアルに動物の姿をコピーしたぬいぐるみはぴくりとも動かない。大量のナノマシンを生体内に注入する場合は本体を眠らせる必要がある。

 PCディスプレイの中の依頼人はフェイスカメラに近寄った。画面のぬいぐるみに頬擦りしようとしているのか。アキチカはその映像に不気味の谷という言葉を思い起こした。


『もうすぐ過去の私に逢えるからね』


 わざとらしく整った高い鼻筋はそのまま細い眉毛に繋がっていた。くっきりとした二重瞼は彫刻刀で削ったように深く、泣き腫らしたかのような涙袋が今にも破裂しそうだ。唇はぬらぬらと濡れてぽってりと重く、顎は喉に突き刺さりそう。

 依頼人はデザインドヒューマンだ。ビオロイドとも呼ばれる遺伝子操作人間。望むままの姿で時間の影響を受けずに、それこそ脳が溶け落ちるまで永遠に近い時間を生きる遺伝子デザインされた人間。

 確か。アキチカは画面から目を逸らして思った。確か、ディスプレイの女はこのデザインで七十を越えた老人だったはず。


『アキチカ先生。この子はちゃんと2222年2月22日に虹の架け橋を渡って天国へと旅立つんでしょうね?』


 遺伝子デザイナーは医師免許も持つ遺伝子治療の専門家だ。一般ビオロイドからも先生と呼ばれよう。2251年時点で七十歳を越えた美少女の顔を持つデザインドヒューマンは涙を流さんばかりに瞳をゆらゆらとふらつかせた。


「わざわざ時間遡行のタイムデリバリー時点から逆算しています。サプライズのため時間指定はしない、でしたよね?」


『ええ、感動のお別れですもの! 過去の私自身へのサプライズプレゼントです!』


 デザインドヒューマンはこうまでも悪趣味で自己中心的で、そして純粋な存在なのか。

 生物の死を回避できるようになった時代、死にはロマンがあることは理解できる。アキチカ自身は延命遺伝子縫合も容姿コントロールも受けていない。いずれ時が来れば死ぬ命。それだけだ。

 わざわざ時間遡行して過去へ遡り、一年間愛玩動物として生体ぬいぐるみを可愛がり、ある日突然の死別を演出する。命に対する冒涜に他ならない行為だ。

 誰がそれを赦す。ぬいぐるみの所有者か。生体の遺伝子デザイナーか。それともアキチカもまだ見たことがない神とかいう奴か。




「よう、起きろよ」


 遺伝子デザインも最終調整段階に入り、生体ぬいぐるみが目を覚ました。塩基配列に時限式寿命が組み込まれたことも知らずに、白毛にもふもふと覆われた猫は呑気にあくびで返事をした。


「元気そうだな」


 亀裂が入ったような琥珀色した瞳でアキチカを見つめる白い猫。生体ぬいぐるみは本物の動物のように大きく伸びをした。

 これから過去へ時間を遡り、一年間デザインドヒューマンの女とともに生きる。そして計算通りに死ぬ。運命は決まっているのだ。

 ぬいぐるみの死後、本体は冷凍保存され、タイムデリバリー技術が完成するのを待つ。時間遡行が可能になれば、再びアキチカの元にやって来るだろう。塩基配列を再縫合するために。繰り返して死ぬために。


「おまえは何度目の猫なんだ?」


 白い猫は首を傾げてアキチカの声を聞いていた。


「おまえとあの女と、どっちがぬいぐるみなんだろうな」


 塩基配列に意図的に寿命を組み込まれた生体と、遺伝子を望むままにコントロールする人間と、アキチカにとってはどちらも生体でどちらもぬいぐるみだ。違いなど微塵も見られない。


「なあ、解放してやろうか?」


 アキチカがその気になれば猫の遺伝子など幾らでも自在に書き換え可能だ。何なら無限の寿命を与えることだってできる。永遠に生きて、あのぬいぐるみ女が不様に崩れゆく姿を見続けることだって。


「さあな。君に任せるよ」


 生体ぬいぐるみの白い猫は笑うように答えた。

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