第48話 友を送る

 須長を私服の警察官が広間から連れ出していく。断罪の場となってしまったお披露目会場は未だ重い空気が澱んでいた。


「私、何か飲み物を取ってくるわね」

 あまりに重たい空気に耐えられなかったのか若溪ルオシーがことさら明るく言って席を外した。

 寿太郎じゅたろうは手近な椅子を二つ持ってくると信乃しのに座るよう促す。


「たまたま今回見つかっただけで諸々余罪もありそうだから、これで一件落着ってわけにはいかないだろうけど、後のことは警察と税関に任せておけばいい」


「……私としてはもう少し須長さんと話してみたかったのですが仕方がありませねんね」

 信乃は膝の上で指を組んで少し残念そうに言った。寿太郎は足を投げ出して頭の上で腕を組む。


「結局、須長は翁と白茲はくじのどっちを恨んでたんだろうな」


 須長は画壇を仕切っていた東城伯爵家に直接手を出すことは出来ず、やむなく標的を深山家に変えたのだろう。美術品の海外流出や贋作を流出することで、東城家の画壇への影響力を下げることに成功した。

 だが、あれだけの怒りにもかかわらず所業が暴かれた途端に復讐を放棄して逃げたりと行動に一貫性がない。寿太郎にはそれが理解できなかった。

 寿太郎が考え込んでいると、信乃が静かに言った。


「強いて言えば自分ですかね。――羨ましかったんじゃないでしょうか」


「須長には白茲や翁が自由になんの遠慮もなく絵を描いているように見えたのか」


 須長とて一等が目されていたのなら実力はあったはずだ。なのに人を羨んで自らの研鑽を怠った上に足まで引っ張ろうとした。これではいくら事情があったとしても同情の余地はなかった。


「そうかも知れません。でも、父も父ですよ。自分と組めば特等を取れるだなんて、そんないい加減なことを豪語したんですから」


 信乃は拳で膝を叩くと憤慨して言った。これには寿太郎も頷いた。とんだ大言壮語だが、須長はともかく慎重な翁ですら信じてしてしまえるほど白茲は魅力的な人物だったのだろう。


「その傲慢さが二人を巻き込んだ、か」

 寿太郎は天井から正面の絵に目を移す。馬に跨がって振り返っている人物が描かれている。この絵の片割れ「孤蓬こほう」には、馬を引いている人物がいた。


 ――白茲はどういう思いでこの絵を描いたんだろうな。


「もし須長がもっと人の心に寄り添える人間だったなら、この班馬はんばをあいつが描いていたかもな。待てよ、それならいっそ三人で描けばよかったんじゃないか?」


 寿太郎の提案に目を丸くした信乃は大笑いした。

「先生、笑いすぎだって……」

「君の発想にはいつも驚かされますよ」


「ちょっとあんたたち。私が離れてるうちに楽しそうにしてるじゃない」

 器用に三つのコップを持って戻ってきた若溪ルオシーは、氷の入った炭酸水を二人に手渡すと椅子に座って一口含む。

「ん、冷たくて美味しいわよ」


 若溪は一気に炭酸水を飲み干した後、絵の方に歩み寄ってしばし眺めていたが、いきなり手を叩いて飛び上がった。


「分かったわ、この絵の題材が!」


「題材?」

 寿太郎が聞くと若溪は浪々と漢詩を読み上げた。


山橫北郭、、此地一為別、万里征、浮雲遊子意、落日故人情、揮手自去、蕭蕭鳴」


「せめて俺にも分かるように日本語で言ってくれ、先生だって困ってるだろ」

 信乃も突然の中国語に難しい顔をしている。若溪は優越感たっぷりに笑うと、軽く指を振って二人に説明した。


「これは李白の『送友人ソン・ユウ・レン』よ。旅立つ友人を送るうたね」


「旅立つ友を送る……」信乃が呟く。


 目の前にあるのは屏風の左側、旅立つ方の側だ。信乃がパチパチとコップの中ではじける泡を見つめて言った。


「送られる側を隠したのは、父は誰にも絵を描くことを諦めて欲しくなかったのかも知れませんね」

 

「それは面白い解釈だ」

 背後からの翁の声に恐縮した信乃が立ち上がった。翁は気にせずと手を振ると言った。

「三人で上を目指していた頃は大した技巧などなくとも毎日が楽しかったものだ。久仁信くにちかはきっとそれが忘れられなかったのだろうな」


「あ、その……事情も知らないのに勝手なことを言ってすみません」

「構わぬよ。まあ、この目で完成品を見られないのは残念だが」

「そんなに見えてないのか?」


 炭酸水を飲み終えた寿太郎は翁の方へ椅子の背を抱くように座り直す。


「うむ。ぼんやりとは見えているがな。絵を描く時には眼鏡を掛けていてもほとんど見えぬ」


「いつからだ? それって絵を描こうとする時だけなのか」


「急激に悪くなったのは卒業してからだな。それに昔はもっと見え方に落差があった。絵を描いている時だけかなり見えにくいのだ。今は老眼もあるがね」


 翁の目が急激に悪くなったのは事件が発端だとしたら。寿太郎は以前、軍で聞いた噂話を思い出した。

「翁。その目、治るとは言わないけどある程度は良くなるかもしれないぞ」

「どういうことだね高村君」


「俺も又聞きだけどさ。欧州の大戦おおいくさでさ、帰還兵の目が極端に悪くなってたことが結構あったらしいんだよ。調べても目には異常がない。でも、他にも症状はあったとしても復員してしばらくしたら目だけは多少マシになる事例ケースが出て来た」


「激戦地から戻ってきてからですか。それは環境などの原因が取り除かれれば、また見えるようになるということですか?」


 いくぶん声を弾ませた信乃に、寿太郎はあまり期待を持たせないよう提案だけにとどめた。

「半端な話で期待を持たせてしまうかもだけどさ。欧州の軍医ならもっと良く知ってるかもしれないな」


 寿太郎も翁と須長の深い因縁話を聞いていなければ思い出さなかった話だ。翁は感心したように頷いた。

「可能性が残されているのは良い。久仁信の残した絵が見られると思うと心も躍るというものだ。ありがとう」


「そういえば、翁はなにかご用事があったのではありませか?」

 信乃が逸れた話を戻すと、翁は「忘れる所だった」と言って飯塚に促した。側に控えていた飯塚が紙挟みカルトンを信乃に渡す。回収してくれていたという月白のエスキースだ。


「ありがとうございます。それと引渡し予定の班馬ですが――」


「深山にあったのならそのままで良い。儂の意地で探していただけなのだ」

「いえ、翁に受け取って頂きたいのです。あれは父がに描いたものでしょう?」


 翁は柔らかく微笑むと肯定も否定もしなかった。


「ふむ、では儂が買い取ろう。屏風に仕立て直して帝国美術館に寄贈すれば君はいつでもあの絵を見ることが出来るしな」

「助かります。襖絵のままでは傷むので保管場所に悩んでいた所です」


 すると翁が突然、信乃に向かって頭を下げた。

「信乃君には悪いことをした。もっと早くに手を打っていれば君はこんな苦労などせずとも良かったのだ」


 信乃は首を振った。

「横濱で『瑞雲と白鹿』が見つかったこの機会でなければ、追い詰めることはできなかったと思います」


 信乃は仕方ないとは続けなかった。それは翁の長年の労苦に対する敬意だった。


「そう言ってくれると有り難いがね。須長が流出させた白茲の作品は取り返すことはできなかったが、権利証は警察が預かっている。もし何かがあっても儂が保証しよう」


 翁の言葉に寿太郎が椅子から立ち上がってハイハイと手を挙げた。

「じゃあさ。ついでに深山の借金も帳消しにできねえかな。あと俺の給料もちびっと上乗せしてくれると嬉しいんだけど」


 突如、寿太郎の頭に衝撃が走った。頭を押さえて振り向くと父である高村重雄が鬼の形相で立っている。


「何を寝惚けたことを言っている。この馬鹿息子が!」

「痛えな。おや、あんた贋作美術館の人じゃないか。今日はどうしたんだ?」

 寿太郎は重雄の隣に立っている横濱税関の職員の男に気付いた。


 寿太郎と信乃に挨拶した税関職員は相変わらずの陽気さで言った。

「あはは、よく覚えてらっしゃいますね。翁に『班馬』の鑑定を依頼されましてね。この機会に高村さんを紹介してもらった所なんですよ」


「クソ親父、今度はどんなあくどい商売をするつもりだよ」

「人聞きの悪いことを言うな。今度は凄いぞ、欧州交易ルートの新規開拓だ。そこで日本の美術品を真っ当な値段で売る。来年、新たな拠点を横濱に開設する予定だ」

 得意満面な重雄に寿太郎がまたかという顔をすると税関職員が言った。


「そこの所長を私が引き受けることになりましてね。いよいよ夢への第一歩ですよ。名前ももう決めてるんです。サロン・デ・ルフュゼです」


「それってフランス語? 翁もなんか前に言ってたよな、先生」

 信乃が頷くと、税関職員はよくぞ聞いてくれましたと胸を張って言った。


「落選展と言う意味ですよ。その昔パリで官展の落選者だけを集めた展覧会にあやかっています」

「あやかってって、そんなひでぇ名前の展覧会に?」

 ある意味晒し者のような展覧会に寿太郎は顔を顰めた。


「名前こそ酷いですが、新時代を担う画家が批判を恐れず立ち向かって次々と巣立っていった美術史にとって歴史的転換点なのです。ね、いい名前でしょ?」


 楽しそうに言う元税関職員に寿太郎は面白いことを思いついた。


「じゃあまだ今は所長さん一人なのか。そうだ、事務員を一人雇っちゃくれねえかな」

「寿太郎、何を考えている。残留など絶対に許さんぞ!」

 間髪入れず咎めた重雄に寿太郎は両耳を押さえた。

「ああもう。親父は黙っててくれよ」


 寿太郎の提案に元税関職員が嬉しそうに言った。

「開設準備に丁度人手がいる所だったんですよ。でもお給料を出せるのはまだ先になりますねえ」


「ああそこは大丈夫だ。そいつ今はちょっと怪我しててさ、治るまでの間に仕事を覚えて貰えば、その間は無給でもいいと思うぞ。読み書きに帳簿付けもできるし、客あしらいも上手いんだ」


 信乃が驚いて寿太郎の顔を見た。


「ほうほう、そんな優秀な人材がいるとは。それは誰なんです?」

 元職員と一緒になって驚いている信乃に、寿太郎はニッと笑った。


「信乃先生の……ああ、紹介してなかったっけ。彼は深山白茲のご子息。雇って欲しいのは彼の弟だ。絵画にも詳しいし結構お買い得だと思うぞ」

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