第40話 犬も歩けば鬼に当たる

 寿太郎じゅたろうは格子の間から手を伸ばし、手繰りで鍵を確かめてみた。


 引っ張ってみたりガチャガチャと動かしてみたりしたが、鉄製の鍵は重く頑丈な作りで格子戸の留め具もぐらつきはない。いっそ格子戸ごと外そうとしたがふすまと違って外れないようしっかりと金具で固定されていた。


 仕方なく他に出口がないかも探してみた。続きの小部屋に小さな扉を一つ見つけたが、しっかりした南京錠が掛かっていて、そこも開きそうにはなかった。


 どこかに鍵があるかも知れないと思ったが、勝手に他人の部屋を荒らすのは流石に気が引けて止めた。


 外側の襖は閉められていないため明るく閉塞感こそないが、いかにも牢屋な作りは中にいる人間の気力を奪うのには十分だ。


 途方に暮れた寿太郎は座布団に腰を下ろしぼんやりと天井を見上げた。そういえば船底でもこうやって天井を見上げていた気がする。人間なにも出来ることが無くなるとなぜ天井を見上げてしまうのだろう。


 ふと、先ほど頼次よりつぐが言った言葉を思い出した。


 ――義兄にいさんはあの『白茲はくじ』の息子だからな。


頼次あいつが言ってたのはこのことか」

 寿太郎はあぐらをかいた膝に肘を付けて額を押さえた。


 十数年前の授賞式での白茲の闖入ちんにゅう事件は翁から聞いた。自身にも関わりのあった事件だ。忘れるわけもない。しかし、少し考えれば分かりそうな事なのに、寿太郎は信乃本来の性格を察することができなかった。無論、寿太郎にも言い分はある。


「あの外見で大暴れする様に見えるか!? 見えないだろ。あー、もう。一人で行って何かあったらどうするんだよ」


 そう思うと、どうにも居ても立っても居られなくなって、寿太郎は勢いよく立ち上がるとうろうろと離れの中を行ったり来たりし始めた。


 獣舎の動物よろしく忙しなく歩いていると、背嚢リュックから顔だけを出していたカステラと目が合った。


「そうだカステラ。お前、あそこの花瓶に飛びつけ」


 先ほど信乃が鍵を入れていった花瓶は格子戸から二メートルほど先の柱にある。格子の隙間からカステラをジャンプさせれば届かないだろうか。


 しかし、カステラは背嚢から出られた嬉しさで寿太郎の周りを跳ね回ってばかりだった。


「そりゃ無理だよな。そうだ。頼次を呼んできてくれ。それくらいなら出来るだろ?」

 カステラは一声高く吠えると渡り廊下の先へと消えていった。



 かくして、カステラは頼次ではなく別の人間を連れてきた。


 光で溢れる渡り廊下を背に臙脂色の着物を着た八重子が艶然と微笑んでいた。


「あら、エセ役人が面白いことになってるわね」


 この場合、カステラが連れて来たというより、連れて来られたが正解だ。

 引き綱を短く持った八重子がカステラを引きずっているのを見て寿太郎の血が一気に頭に上った。


「あんた、何やってんだよ。カステラを離せ!」


 八重子の後ろを見たが頼次の姿はない。だが、今はそれどころではなかった。


「この犬が大事なら交換よ。部屋の中にある絵、何でもいいからこちらに渡しなさい」


 ――くそったれが!


 普段は信乃が離れにいるため絵を持ち出すことは出来なかったのだろう。


 それが信乃が成人してもなお、この部屋に留まっていた理由だったのだ。そして寿太郎をここに置いて出て行った理由でもある。


 ――先生はマダムが残ったスケッチまでも売り払おうとすると思ったんだな。


「はっ、やなこった」

「この犬がどうなってもいいの?」


 そっぽを向いた寿太郎に、八重子はカステラの引き綱を持ち上げた。嫌がって後ろに下がるカステラの顔が蝶ネクタイの首輪に阻まれて毛皮に埋まる。こんな時でなければとても可愛いのだが、そうも言ってられない。


「カステラに何かしたら俺、本当に怒るからな」


 威勢の良いことを言ってはみたものの、正直、八重子を前にすると頼次ほどではないが逃げ出したくなる。


 硝子玉のような八重子の黒目の奥に薄ら寒いものを感じた寿太郎は、緊張を高めないよう独り言を呟きながらゆっくりと座卓の向う側へ廻り込んだ。


「この和紙って奴はカンバスと違って薄いんだよな。紙挟みカルトンに挟んでおかないと丸めて持ち歩いたら傷みそうだ。傷んだ絵ってどれくらいで売れるんだろうなあ」


 寿太郎は図案帳スケッチブックをいかにも邪魔だとばかりに仕草で畳の上に避けて置く。それから積まれた画仙紙を卓上の全体に広げ、選び悩んでいる様子を演じながら座布団の下に図案帳をさっと潜り込ませた。


「なら、その紙挟みとやらに良さそうな絵を挟みなさいよ」


 八重子が苛ついた口調で言うと寿太郎は密かに口の端を引き上げた。


 画仙紙がせんしは厚手で丈夫な和紙だ。紙の縁が不揃いなものは更に丈夫な手漉きの和紙で、ちょいと触ったくらいで穴が開くような障子紙とは訳が違う。


 信乃の言っていた通り八重子は美術品に疎く、画材の知識も乏しいようだ。


 寿太郎は時折、八重子の様子を伺いながら卓上に積まれた画仙紙の束を何枚か捲る。すると黄ばんだ和紙の間に一枚だけ異質な紙があった。


 ――なんだこの黒い紙。これでも入れておくか。開けて真っ黒な紙が入っていたらさぞ驚くだろうな。ざまあみろだ。


「何をトロトロしてるのさっさとしなさいよ。このエセ役人!」


「いやあ、どれがいい絵なのか俺にはさっぱり分からなくてさ。これなんかどうだ……いや、こっちの方がお高そうだ」


 紙挟みカルトンは新聞紙より一回り以上大きく、開けば八重子からは何をしているか見えないだろう。


 八重子は組んだ腕をいらいらと指で叩いている。これ以上焦らしてはカステラが危ないかもしれない。寿太郎は紙挟みの上から顔を出して言った。


「あ! カステラお前、そんな所で粗相すんじゃない!」

「何するのよ、この駄犬!」


 八重子が慌ててカステラの引き綱を伸ばす。寿太郎は八重子が気を取られている間にすかさず黒い画仙紙を紙挟みに差し入れて紐を綴じた。


「ほら入れたぞ。早くこっちにカステラを寄越さないとそこでしちまうぞ」

「先にそっちが絵を渡すのよ!」

「ああ? 鍵を開けないと渡せないだろ」

「開けるわけがないでしょう」


 一抱えもある木炭紙もくたんし大の紙挟みカルトンは当然、格子の間には通らない。


 八重子は格子戸を和鍵の心棒の幅ギリギリまで開けて二センチほどの隙間を作ると、そこから絵を出すように指示をした。


 寿太郎から紙挟みを受け取った八重子がカステラの引き綱から手を離す。途端にカステラは寿太郎のいる格子戸の中へ弾丸のように滑り込んで来た。寿太郎はカステラを撫でながら八重子に言った。


「俺にはどれが本物かなんて分からんし、適当に取っただけだから何が入ってても怒んないでくれよな」


 八重子は「エセ役人」と吐き捨てるとあっという間に渡り廊下の先へと消えて行った。

 荒い足音が遠ざかると、寿太郎はカステラを抱きかかえて畳にへたり込んだ。子犬の毛皮に顔を埋めて安堵の息を付く。

 どこかで床板のしなる微かな音がした。静かになった離れには自分とカステラしかいない。寿太郎は中庭を囲う柱の影に目を向けた。


「――頼次、そこにいるなら出てこいよ」

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