第35話 犬、始発にて来たるや

 寿太郎じゅたろうは三人を自室に通すと約束通り粗茶だけを乗せたお盆を直に床に置いた。


「何この部屋。テーブルセットくらいないの!? まるで牢屋みたいに殺風景だわ」


「今、お嬢様レディがお座りになってる敷布はカステラのだからお礼を言っとけよ。嫌なら俺のベッドでもいいけど」


 顔を顰めた若溪に寿太郎は人が集まってきて喜び跳ねている子犬を指差した。


「若溪さん、この椅子を使ってください」


 卒倒しそうな若溪を見て気の毒に思ったのか信乃しのが部屋に唯一ある椅子を勧めた。


「それは駄目よ! 先生と呼ばれる方を差し置いて座るなど師父に叱られます」


 信乃は「もう先生ではないので」と気まずそうにしながら「板間に正座は慣れていますから、気にしないでください」と言った。


「何をやったらそんな刑罰を受けるの!?」


 若溪の驚きに信乃が笑う。

「武道の基本的な修養ですよ。祖父の願い叶わず何一つ身につきませんでしたが。カステラ君西洋手拭タウルをお借りしますね」


 驚く若溪に爽やかに笑いかけた信乃はタオルの上に遠慮無く座った。


 執事の飯塚いいづかが茶請けの焼き菓子を持ってきた時、部屋には不機嫌そうに椅子に腰掛けている若溪、ベッドにはやる気無くだらけた寿太郎、信乃に至っては床に正座をしていた。


 そんな不可解な状況にも関わらず飯塚は淡々と菓子を取り分け、お盆を信乃の前に滑らせると丁寧にお辞儀をして何事もなかったように部屋から出て行く。


 扉が閉まった時、階下の振り子時計が五時を告げた。


「よし、信乃先生の時間も限られてるし手早くいこう」


 自分の分だけさっさと焼き菓子を確保した寿太郎は信乃に目配せをした。


「では単刀直入に聞きます。若溪ルオシーさんは翁からの指示で深山みやま家を見張っていたということですけれど、どうしてです」


「屋敷に出入りする人間を部下達が確認してたのよ」


「さっき言ってた須長すながって奴の出入りを調べてたのか?」

 寿太郎が問うと若溪はあっさりと頷いた。彼女が言うには見張っている間は須長は一度も深山家に現れなかったらしい。


「須長さんは必ず電報を使っていました。忙しいからだと思っていましたが、確かに怪しいですね。そういえば皓宇ハオユーさんは須長さんとは、いつ頃どこで知り合ったのでしょうか」


「四、五年前に上海で出会ったみたい。大きな取引をすると言われて日本で須長と貿易会社を立ち上げた。そこまでは良かったのよ。でも、上海の密航路が軌道に乗ったら須長は会社を自分だけの名義にした。金だけ取られたって気付いても後の祭ってわけ」


 よくある話だが余りに短絡的で聞いていて寿太郎ですら頭が痛くなりそうだ。


「行く当てのなくなった弟弟おとうとは組織に戻ろうとして手土産を要求されたわ」


「それで計算掛けいさんがかりをそそのかして須長の裏帳簿を盗み出そうとしたのか」


 もし社員が須長の悪徳な経営方針に不満を抱えていたとしてもこのご時世だ。多少の金を積まれたとて、やっと就いた仕事を不意にしてまで皓宇に加担などしないだろう。


「意趣返しどころか帳簿も手に入らず仕舞い。その上、計算掛りの死で須長が皓宇ハオユーの動きに勘づいて逃げ回る羽目に」


「皓宇が裏帳簿を狙っているのを知ったのなら、もう逃げるか処分してるんじゃないか」


「それは大丈夫だと思うわ。幸か不幸か水死体の件で警察が事務所に出入りしているから、逃げる時間はなかったはず」


 もし皓宇の言う通りに地元の有力者に金を握らせているのなら、逃げるどころかこれからも堂々と業務を続けることも有り得る話だ。


「あんた、いや青幇チンパンの目的は須長に落とし前を付けさせることなのか」


 寿太郎の疑問に若溪は否定した。

「須長が上海でやった詐欺は我が国では裁けないのよ。私たちは翁に引き渡す所まで」


「領事裁判権ですね。それで組織は翁の力を借りたのですか」


 若溪は信乃に頷くと、焼き菓子を頬張って急いで茶で流し込んだ。


東城大人トンチャンターレンは須長に個人的な恨みがあるみたいだし、ちゃんと裁いてくれるはず。我々は手を汚さずに意趣返しできて万々歳ね」


 須長を正当な手順で裁くとなると不起訴や保釈の可能性が高い。それでは若溪たちの溜飲は下がらない。だから内務卿である翁の力を借りて報復するつもりなのだ。


「でも、翁はなぜ須長が深山の家に来ると思ったんだ。翁は贋作調査をしていたんじゃないのか」


 寿太郎は信乃の視線に気付いて彼の方を見ると、信乃はゆったりとした動作で若溪に視線を移した。それは余りにも自然過ぎていっそ不自然で、寿太郎は訝しげに目を細めた。


「申し訳ないけど贋作調査に関しては私も分からないわ。私が受けたのは須長を表に引きずり出すことよ。大体はこんな所ね。他にあるかしら信乃哥哥にいさん


 信乃が正座したまま深々と礼をしたので、寿太郎もベッドに腰掛けたまま軽くを頭を下げる。


 騒がしくしてたからか、信乃の膝の上で寝ていたカステラがくわっと欠伸をした。そしてすぐに丸くなると、また軽やかな寝息を立て始めた。


「ほんとこいつ先生にだけは懐いてるな」

 寿太郎は信乃の膝の上からカステラをひょいと持ち上げると寝床に戻す。


「それじゃこの辺りでお開きだな。後は若溪が須長の事務所に踏み込んでみないと分からないんだろ」

「ええ、決行は週明け。遅刻厳禁よ」


***


 翌日、信乃は目が覚めて直ぐアッと声を上げた。


「そう言えば、私が得をすることって何だったんだ」


 寿太郎が小学校で約束した「得する事」の意味は分からず仕舞いだった。だが、わざわざ聞いてまたぞろ何かに巻き込まれるのはご免だった。


 昨日は丸一日横濱の騒ぎで潰れてしまい、今日こそは残りの十円を掻き集めないといけない。


 母屋での朝食後、信乃は離れに戻ると押入れからありったけの画材や小間物を部屋中に広げた。どれもこれも二束三文にしかならない古道具ばかりで、掻き集めても十円には到底届きそうにない。


 先日、翁から貰った稀少な岩絵具は確かに高いものだが日常で使い回せるような類ではないし、何より未使用でないため普通の質屋では買い取ってもらえないだろう。


 信乃は広げた道具類をまた片付けながら、次に無心できそうな知人はいないかを考えた。裕福な家ならばたったの十円ぽっちでしかない。

 月も半ばを過ぎた今、余裕のある家でも纏まった金を他人の、それも返す当てのない人間に貸してなどくれないだろう。


 ――翁ならば。


 信乃はその考えを振り払った。翁に対する父の感情もあるが、何よりも借財の経緯を話さなければならなくなる。それに須長の裏帳簿が翁の手に渡れば、この家もどうなるか分からない。それまでに土地権利証だけはどうあっても取り返しておきたい。


 残る案は借り換えだ。だが、既に借金を負っている身では真っ当な金利の店は望めず、結果、高利貸しから借りることになるだろう。


 後々苦しくなったとしても今は須長との縁を切る方が先、ではある。けれどもそれで破綻しましたでは意味がない。


「やはり質草なしに借りるのは無理があるか」

 信乃は和箪笥の鍵付き引き出しから古い図案帳を取り出した。青表紙のそれには英語でスケッチブックと書かれてある。


 一ページ目には几帳面な字で「瑞雲ずいうん白鹿はくろく」と書かれてあり、頁を捲っていくと全体の構図や絵に使用されたモティーフの鉛筆デッサンが、時に色付きで詳細に描かれていた。


 白茲はくじの完成画は先日義母に伝えた通り一枚も残っていない。

 だが習作の類は今後の作品のためだと言って義母に渡していなかったのだ。義母は走り書きに過ぎないとスケッチ類には気にも留めなかったのが幸いし、今も手元に相当な数が残っている。


 美術品に疎い義母が須長から指示を受けていたのは確かだ。須長は習作の存在にも気付いているだろう。


「習作の価値に気付くのも時間の問題か。まあ私が売っていれば世話ないですけれど」


 信乃は自嘲すると図案帳を入れた折鞄を持って、勝手口で草履を引っかけてから母屋正面に回った。


 門の脇戸をくぐって道に出ると、そこには昨日散々見た顔があった。


「おはようございます! 先生は起きるの早いなあ」


 学童のように明るく返事をした寿太郎に、信乃は心底うんざりしながらも最低限の礼儀で挨拶を返した。


「――おはよう。毎日毎日本当に懲りないですね君は……また厄介事を持ち込みに来たのですか」


 信乃は宿題を丸ごと忘れてきた癖に笑って誤魔化そうとしている生徒を叱るように言った。


皓宇ハオユーを捕まえた時にちょっと体が鈍ってるなって思ってさ。カステラの散歩にもなってちょうど良かった」


「まさか飯田町いいだまち駅から歩いてきたんですか」


 寿太郎が背中を見せると背嚢リュックからカステラが鼻先を出していた。これでは散歩というよりは荷物だ。東城屋敷からは片道一里以上五キロメートル、徒歩だと一時間弱かかる。子犬を連れて散歩するには厳しい距離だろう。


「いやいや、アレだよアレ!」寿太郎が指を差したのは築地塀ついじべい横に止められた自転車だ。それでも往復で一時間。信乃はげっそりした顔で言った。


「では私は用事があるので。ごきげんよう」


 信乃は駅方向へ向かうために足を向ける。すると寿太郎が行く手に回り込んだ。避けて通り抜けようとしてもまた道を塞いでくる。信乃は仕方なく押し退けようとしたが寿太郎は頑として動かない。


 信乃は握った手を震わせると勢いよく寿太郎の鼻先で人差し指を振った。


「いい加減に退いてください。今日は本当に君の相手などしていられないんです」


 すると寿太郎はニッと笑って信乃の胸元に茶封筒を押しつけた。悪戯小僧のような笑みを浮かべて待っている寿太郎を前にして、信乃は煩わしそうに封筒の中身を引き出して言葉を失った。


 そこには真新しい十円札が一枚入っていた。


「翁からお使いの駄賃だってさ。太っ腹だよな……え、ちょっと信乃先生!」


 信乃は封筒を両手で握り締めると崩れるように地面に膝を突いた。

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