第30話 宵越しの銭は犬も持たない

 子犬がいつも付けている赤い蝶ネクタイには小さな巾着袋が括り付けてあった。


 信乃しのは縁側に腰を下ろし子犬を膝の上に抱えると巾着袋を外した。中には和蘭陀おらんだ語で書かれた紙片が入っていた。


 今回は走り書きではなく平易な単語で書かれていて分かりやすい。ただし、内容は信乃の許容できる範疇を軽く超えていた。


「一週間は出掛けないと言ったはずなのに明日来いって、人の話を聞いてないじゃないですか。カステラに怒ってるんじゃないですよ」


 信乃は悲しげに鳴いたカステラを撫でると抱えて作業部屋に戻った。信乃は文箱から便せんを出すと片手で文鎮を乗せ筆で一言書き付けた。


 信乃は庭先に誰もいないことを確認し、小走りで裏門に駆け寄ると裏門を開けようとして手を止めた。


 そもそも子犬はどうやって入ってきたのだろうか。猫じゃあるまいし、人の背丈を超える高さの築地塀ついじべいを小さな子犬が自力で越えられるとは思えない。


 まさか上から放り投げたのだろうか。そんなことをしたなら後で文句を言ってやろうと思ったが、その必要はなかった。


 立派な築地塀ついじべいは漆喰どころか中の土壁も崩れたままで、板で塞いだだけの所が幾つもあったからだ。


 信乃はこんもりと茂った紫陽花の葉をかき分け、怪しい箇所を一つずつ探した。すると予想通り子犬が通れる位の穴が掘られていた。


 ――人の家にこんな大穴をあけて!


 首輪に文を括り付けたカステラを下ろし、その背中を軽く叩いて穴の方へと追い立てた。


「ご主人にしっかり伝えてください。『NEEいかない』って」


 小首を傾げている子犬は返事の代りに信乃の手の平を舐めた。耳の後ろを撫でてやるとぷすっと鼻を鳴らして穴に潜っていく。


 信乃はカステラが穴を抜けたことを確認すると、何か蓋になるような物を探しに物置へ向かった。壊れた木製の鍋蓋を持って穴を塞ぎに戻ってくると、そこにはまた子犬が座っていた。


「なんで戻ってきてるんですか!」


 信乃はカステラの傍らにしゃがむと巾着からノートの切れ端の様な紙を取り出した。そこにはやはり和蘭陀語で「明日迎えにいく」と書かれていた。


「だから何処へ……そうじゃない。こちらだって忙しいんですよ」


 信乃が押し殺した声で手紙を握り潰すと、カステラが心配そうに膝に前脚を置いてきたので、そのふわふわの額を親指で軽く撫でてやる。


「お前のせいじゃないよ。碌でなしのご主人様に言っただけだ」


 こんな場所で悠長に手紙で押し問答をしていても埒が明かない。信乃は紙切れを裏返すと、近くに生えていたヨモギの葉をちぎって手の平で揉み、『Zoals je wiltかってにしろ!』とでかでかと殴り書きをして巾着に詰め直した。


 新しい仕事を貰った子犬は意気揚々引き上げていき、それ以降は戻ってこなかった。



 翌朝、信乃は珍しく母屋で朝餉を取ることにした。

 昨日大騒動をした畳敷きの居間に人数分の座布団を並べていると、割烹着を着た年配の女性がおひつを持って入って来た。


「まあ、信乃坊ちゃん! 嗚呼ああ――今は旦那様でございました。おはようございます」


 彼女は先々代から奉公に来ていた女中頭だ。深山家の台所事情が悪くなり全員に暇を出したが、彼女だけはこうして時折食事を作りに来てくれている。


「キヌさん突然にすみません。今日はこちらで食べます。私も手伝いますので」


 元女中頭は顔をくしゃくしゃにして喜んだ。しかし、信乃は素直に喜べなかった。今月を最後に彼女にも暇を出さないといけないからだ。


「そんな、どうぞお座りになって下さい。直ぐにお持ちします。旦那様と大奥様も喜ばれますよ」

 

 女中が出て行くと入れ替わりに義母が居間に入ってきた。信乃を見て硬直した八重子やえこは挨拶もせずいつものように上座に座る。


 続いて頼次が部屋に入ってきた。八重子と全く同じように身体を揺らして息を呑んだ。しかし、頼次は直ぐに姿勢を正して「おはよう。義兄にいさん」と言った。


 静まりかえった居間に女中が「遅くなってすみませんねェ」と言って、お櫃から信乃分の飯を茶碗によそう。

「ありがとう、キヌさん」


 信乃が箸を持って両手を揃えると、八重子と頼次の二人も両手を揃えた。名目上でも家長である信乃がいるため、八重子たちは信乃の膳が揃うまで待たざるを得なかったのだ。


 信乃は形だけでしかないこの習慣が嫌でいつも離れで食べていたのだ。


 ――今日に限っては胸がすきますね。


 しかし、あまり優越感に浸っていると後で自己嫌悪に陥ってしまいかねない。信乃は気持ちを切り替えて朝食を片付けにかかった。


 食事中八重子は明らかに機嫌が悪かったが、昨日の件で分が悪いからか早々に箸を置いて部屋に戻ろうとした。その背中に向かって信乃は声を掛けた。


義母かあさん今日は少し用事があって出掛けます。夕方には戻って参りますので、それまでに昨日の件、片を付けておいて頂けませんか」


 信乃も進んで口を利きたくはなかったが言うべきことは言っておかないといけない。


「そんなこと出来るわけないじゃない!」

 食事中ずっと言いたい事を我慢していたのだろう。八重子は思わず口を突いて出た己の言葉に口元を押さえた。


 やはり金は使ってしまった後なのだ。信乃は箸を置くと八重子に身体を向け直した。


「使ったと言っても全てではないでしょう。毎月十円ならば、まだ少しは残っているでしょう。それだけでも返済に充てませんか」


 使い道について尋ねるかどうか迷ったが月締つきじめめまで残り二週間ほどしかなく、まずは今月を乗り切る算段を纏める方が先だ。


 八重子は難しい顔をして立ち上がると、背後の仏間からダイヤル式の手提げ金庫を持ってきた。

 金庫から取り出したのは藤色の小袱紗こぶくさだ。その中には十円札が数枚入っている。信乃はそれを手に取って枚数を数えた。


「ひいふう、五十円ですか。元は幾ら借りたんです」

「――八十円よ」

 まさか本当に限度額一杯まで借りているとは。頭が痛いどころではない。


「頼次、今日は何日だ」

「十五日だけど」と立ち上がった頼次が、柱に掛かった日めくりの暦を一枚毟り取って言った。


 先月分の最後の給与は今日受け取れるはずだ。しかし、最後の月は受け持ち授業も少なかったため二十円ほどしかないだろう。


 生活費と女中の給金として使った二十円分はそれで埋め合わせられるとして、残りの十円をどうにかして工面しなければならない。


 頼次の給与は丁稚扱いなのでないも同然、当てにならず、高価な家財は祖父が売り払ってしまったため碌に残ってはいない。


「こちらの五十円は私の給金を足して七十円、週明けに私が持って行きます」

「義兄さん、それじゃあ十円足りないんじゃないか」


 勘定合って銭足らず。頼次の余計な一言に信乃は義弟の肩を叩いた。

「何とかします。お前は義母さんから目を離さないように」


「な、何の権限があって!」


 八重子は真っ赤な顔をして言ったが、信乃はもはや遠慮などする必要は無いと「家長命令です」とだけ告げ小袱紗こぶくさを懐に仕舞った。




 朝餉の後、直ぐに家を出た信乃は昨月まで務めていた尋常小学校へと向かった。


 職員室に教頭はおらず、事務掛りの男性が受領印と引き換えに封筒と明細書を渡してくれた。

 職員室から出ると丁度登校時間になったのか、子ども達が廊下に溢れている。

「参ったな」


 さっさと離れようと下足場で草履に履き替えていると背中に何かが乗っかってきた。覗き込んできたのは画材屋の孫娘だ。

「みんな深山先生だよ!」


 その声を聞いた子ども達があっという間に信乃を取り囲んだ。しばらくの質問攻めの後、ジリリと騒々しい始業のベルが鳴った。


「もう授業が始まるから皆戻りなさい。ちゃんと勉強するんですよ」

「はーい。先生またねー」


「はいはーい」

 甲高い子どもの声に混じって低い男の声が下足室に響いた。


 振り返ると妙にめかし込んだ格好の寿太郎が立っていた。濃い色のジャケットに細めのネクタイだけでなく、ベロア生地の中折れ帽子まで被っている。


「どうして君がここにいるんですか!」


「だって、迎えに行くって言ってたのに先生いないんだもん。あ、行き先はアイツに聞いた」

 アイツとは恐らく頼次の事だろう。

 

「家に来ないで下さいと何度も口を酸っぱくして言いましたよね」

「まあいいじゃん。頼次も今日は素直に教えてくれたし、マダムも何も言わなかったから大丈夫だって」


 そりゃそうだろう。義母も今朝はこのややこしい男を相手にしたくないと思ったに違いない。


「行きません。これから本当に大事な用事があるんです」


 週明けまでの三日で十円の工面をしなければならないのだ。寿太郎に付き合っている暇はない。


「まあまあ、これから税関に白茲の贋作を見に行くんだ。車も用意したから一緒に行こう」


 聞こえぬ振りで下足場を出ようとした信乃だったが、やはり気になって足を止めてしまった。


「翁からの依頼だから今度は捕まらないし大丈夫だって。いざという時にはコレもあるから」


 寿太郎は内ポケットから銀の懐中時計を取り出して蓋を開けると印籠さながらに突き出して見せた。


 ――ああ、それで頭髪が隠れる帽子とそれなりの服装をしているのか。


「立ち会い人不要なら私がいく必要はないでしょう」

「いいやあるね。来ないと絶対に後悔する」


 信乃は右手で左肘をぎゅっとを掴んで身構えた。

「それは脅しですか」

「脅しじゃないってば。行っときゃ絶対に得になるから。さあさあ乗った、さあ乗った!」


 どこで覚えてきたのかバナナの叩き売りのように言う寿太郎に信乃が額を押さえていると、校門の方からボフボフと気の抜けたホーンの音が二度続けて鳴った。


「あなたたち何をしてるのよ。ガソリンが幾らあっても足りないわよ!」


 うんざり顔の若溪ルオシーが車窓から顔を出してしきりに手招きをしている。


「どうして若溪さんが運転しているんですか」

「それは私が聞きたいくらいだわ。ねえ、早く乗って下さらないかしら。子どもの視線が痛すぎるのよ」


 振り返ると二階建ての校舎の窓に子ども達が鈴なりになってこちらを物珍しそうに見ている。上級生のいる上の階では教師が窓際から生徒を追い払っていた。


 信乃は後ろからの視線と正面の二対の目に押され車へと近づいた。さっと寿太郎が後部ドアを開け芝居がかった仕草でどうぞと手を振った。


 かなり高い位置の後部座席に乗ると車は一際大きなエンジン音を立てて滑り出す。


「それで、どこへ行くつもりなんですか」

「横濱税関」

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