第23話 翁の思惑

 寿太郎じゅたろうの説明は間違ってはいない、が合ってもいなかった。


 義母は信乃しのには反対していない。

 信乃は否定も肯定もせずにただ黙っていたが、その間に寿太郎は好き勝手に話を盛っていった。


「先生が時間を気にしてたのはそれなんだよ。絵の具だってこっそり買ってごまかしてるみたいでさ。俺はこっちのしきたりルールなんて分からないけど、先生は家督かとくだなんだって最初から諦めちゃってるんだよ」


「それは勿体ない話だ。その年齢としで諦めるにはまだ早いのではないかね」


 信乃は寿太郎の会話を遮ろうとしたが、寿太郎はまあまあと手を振って話を続けた。


「翁もそう思うよな。でさ、翁からの支援があったらマダムの気も変わると思うんだよなあ」


 信乃は寿太郎の顔をまじまじと見てしまった。先日の来訪時に義母の人となりを身を以て知ったはずなのに、どうしてそんなことを言うのか分からなかった。


「ふむ。いろいろと事情がありそうだ。自宅では描けないというのなら、儂の所有しているアトリエを貸すこともできるが」


「あー、だめだめ。そもそも、家のしきたり? とかで外出自体にいろいろと制約があるらしくてさ。行き先なんて告げたら絶対に無理だよ。ああいう人は直接お偉い人から説得してくれた方がいいんじゃないかなあ」


「儂が直接出向くこともできるが、紹介状とかその程度でも良いのかね?」


 話の流れが嫌な方に向かっているのを感じて信乃は密かに眉を潜めた。

 家で描く時間を与えなければ、贋作犯の特定がしやすくなる。しかし、まだそこまで絞り切れていないはずだ。

 なら、他にどんな目的があるのか。信乃は今までの寿太郎の行動を一つずつ思い出して、はっと顔を上げた。


「待ってください!」


 思わず立ち上がってしまい、フォークが皿の上を転がって騒がしい音を立てた。

 信乃はようやく寿太郎の意図を理解した。寿太郎が狙っているのは深山家にもう一度入ることだ。


 義母は見栄っ張りで体面を重視する人だが、猜疑心が強く、簡単に人の言動に流されるような人間ではない。

 ああいう人間は事を荒立てることを極端に嫌う。だからより強い力を持つ翁を巻き込もうとしているのだろう。


 信乃は不思議そうに見上げている寿太郎と、穏やかな笑みを口元に浮かべている翁を交互に見てから、ゆっくりと腰を下ろした。


「失礼しました。その、本当に――本当に困るんです。私は家督を継ぐ者としてやるべきことがあります。絵は単なる趣味ですから」


 翁はナイフとフォークを皿に置くと、片側だけに肘掛けのある特注椅子に体をもたせ掛けた。


「ふむ、だとしても後援を断る理由はないと思うがね。画材も安くはなかろうに」

「今の環境で十分です。専門的に習った訳ではありませんし、官展にも出す予定などありません。それに高村君も私の絵を見たことはありませんから、とんでもなく下手かもしれないですよ」


 信乃しのは愛想笑いで牽制しつつ翁の出方を窺った。


「ふは、ふはは。芸術とはなんと業深い。信乃君、趣味で満足しているのならば、官展など気にしないのではないかね」


 信乃はテーブルの下で膝の上に置いた手を固く握り締めた。緊張を悟られないよう薄く唇を開いて一呼吸する。


 翁はカップに口を付けて冷めた珈琲を一口啜ると、蕩々と語った。


「確かに、生憎と今の儂は絵を見ることは叶わん。絵に上手い下手などないと耳障りの良いことも言わぬ。しかし、儂はこれからの新芸術は、技術だけではなく感性がものを言う時代になると思っておる。明確な描線を廃し柔らかなタッチを重ね空間そのものを描き出したり、或いは極限まで簡素化した抽象的表現で事物の核心を突く、それらの多彩な表現を可能にする新素材の理解と未知の題材への挑戦、素晴らしいと思わないかね――」


 翁はそこでようやく一息つくと、それまでの熱弁とは調子を変えゆっくりと言った。


「深山君、支援が無理であれば倉庫で眠っている絵の具を受け取ってはくれないかね」


 表面上は頼んでいる体だが、それは承諾ありきの言葉だった。


 無理難題との二択。寿太郎風に言えば食えないオッサンである。


 信乃は軽く両手を振って断りの意思表示をするも、翁には見えていないことを思い出し、無難な断りの言葉を探して頭の中の引き出しをひっくり返した。


「いえ、日本画の画材ですし、あまり一般的でもありませんのでお気遣いは無用で――」


「遠慮せずとも良いぞ。儂が道楽で描いていた時の物だからの。岩絵具でも彩墨でも一通り揃っている。一部劣化の激しい素材もあるが保存は万全だ。必要なのはどんな絵の具かね?」


 何も受け取らずに帰るという選択肢はないらしい。これ以上拒否しては余計に怪しまれそうだ。


「……鉛白えんぱくが足りなくて探しているのです」

 翁はフォークでタルトをいじりながらしばし沈黙した後、鷹揚に頷いて言った。


「ふむ。それは確かに今は手に入りにくいであろうなあ。古い浮世絵ならともかく今では胡粉ごふんが主流だ。明治の世までは鉛白も現役だったが、とんと見かけなくなったな。とはいえ儂の若い頃でも使っている画家は相当に珍しかったが。まだ倉庫にあるやもしれん、あれば持って行くかね?」


 信乃は梅幸堂の店主に「持っている人に分けてもらえ」と言われたことを思い出した。鉛毒についての話題が持ち上がる以前は、流行ってもいないが珍しいほどでもないありふれた顔料で、趣味人の翁が持っていてもおかしくはない。


 なによりこの機を逃がして、また東京中の在庫を探し回ることになってしまうのは避けたかった。


 かなり悩んだ末に承諾した信乃に、翁は満足そうに頷くと背後の執事に指示を出した。


「二階の倉庫の鍵を持ってきなさい。寿太郎君、君の部屋の前にプレートのない小部屋があるだろう。そこが倉庫になっている」


「わかった。でも絵の具だけなんて勿体な……痛てっ」

 信乃は後ろ手で寿太郎の膝頭を打ち払うと、翁に向かって言った。


「お気遣いありがとうございます。このお礼はいつかまた」

「礼など構わぬ、また来てくれれば」


 信乃が返答に迷っているといきなり掴まれた肩がぐいと横に押し退けられ、信乃の肩口からひょいと顔を出した寿太郎が大声で言った。


「はいはいはい! また来るよ。な、信乃先生」


 深山家再突入計画の目論見は頓挫したというのに全く懲りていないらしい。


 翁は膝に置いたナプキンを綺麗に畳んでテーブルに置いた。会食の終了の合図と受け取った信乃は翁に合わせて立ち上がる。その音に気づいた翁は信乃の方に顔を向けて破顔した。


「信乃君、一つだけお節介をしよう。儂は結構、寿太郎君の審美眼を信頼しとるのだよ。とても有意義なひとときだった。儂はこれで失礼するが、残りの菓子は遠慮なく食べなさい」


 翁が退出したことで、お茶会はそこでお開きとなったのだった。

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