第20話 雨夜の雁

 市電上野駅から国鉄飯田町駅いいだまちえきまでは約一里四キロだという。ゆっくり歩いても一時間程度だ。


 深山みやま邸を後にした寿太郎じゅたろうは、市電の駅を素通りして公園へと道を折れた。


 ここ数日の長雨で遊歩道は泥濘ぬかるんでいて、暗い足元は気をつけていても靴の中まで泥が入り込む。


 分厚い雨雲のお陰で早めに訪れた夕闇に、点消方てんしょうがたと書かれた半纏はんてんを着た男が泥を跳ね上げながら点火棒で池の周囲の瓦斯灯がすとうに次々と火を灯していく。


 瓦斯マントルの放つ未熟な檸檬色が暗い水面を照らすと、渡りの時期を過ぎた雁がばさりと羽を広げた。


 いつの間にか足を止めていた寿太郎は、濡れた池の欄干に片手を掛けて水鳥が引く小波をぼんやりと眺めていた。仲間に取り残された雁は飛ぶわけでもないのに濡れた羽をしきりに毛繕いしている。


 諦念にも似た表情を浮かべていた信乃しのの顔がまぶたを閉じても水面の風景のように消しても現れて、脳は壊れたキネマトグラフのように何度も繰り返した。


 寿太郎はもう幾度目か分からない先ほどのやり取りをまた思い出していた。




「――それで勝算のありそうな深山家に目を付けたのですか。手前勝手にも程があります」


 信乃の声には苛立ちと失望が入り混じっていた。


「引っかき回す気なんてなかった。俺も焦ってたんだ。一月で絵が見つからなかったらネーデルランドに帰る約束だったから。でも、先生にとっても真作を探すのは悪くない話だろ」


 取り繕い、弁解するごとに信乃の失望は大きさを増していくようだった。それでも言葉を重ねることをやめられなかったのは、何か言わなければ決定的に終わってしまう気がしたからだ。


「私もあの絵の事は気になっていますが……君に事情があるように私にも事情はあるのです。先ほどの状況を見たでしょう。協力は出来かねます。どうぞお引き取りください」


 初めて会った頃のように慇懃に言った信乃は、座したまま右手で袂を押さえ裏門の方へ軽く手を伸ばして静かに頭を下げた。


 信乃の怒りはもっともだった。見つかった絵に贋作の疑いがあったとして、それで信乃が困っていると頼んできたわけではない。


 その上、勝手に義俠心を膨らませて、信乃に被害者であることを押し付けようとしたのは寿太郎の方だ。


 伏せられた信乃の表情は寿太郎からは見えなかった。


「でも、あんな風に扱われていいはずはないだろ」

「君は私が外に出る理由を作ってくれたんでしょうが。分からなければはっきり言いましょう。ありがた迷惑です」

「……!」


 努力ではどうにもならない問題など世間には山ほどある。寿太郎もいやという程見て体験してきたはずだ。自分もネーデルランドで退っ引きならない状態になったが故に今ここにいるのだ。


 もし、あの時こうしていれば、ああしていればなどは意味がない。誰だってその時はそれが最善に思えたから選んだのだ。たとえ他人がそれを間違いだと思ってもだ。


 自分の事ですらままならないというのに、人には安易に努力が足りない何とかできるはずだと講釈を垂れるなど傲慢にも程がある。


 寿太郎は信乃の言動の一つ一つの意味をもっとよく考えるべきだったのだ。


 内心ではあわよくば親父の鼻を明かしてやりたいという意地もあった。親父を正面からぶん殴れるあっと驚く情報を手に入れたかった。そんな子どもっぽい下らない見栄のために、寿太郎は信乃の都合など一切考慮しなかった。


 しかし、しかしだ。


 あんな状況に置かれて、信乃はもっと怒ってもいいはずなのだ。


 寿太郎と屋敷で会った時、信乃は電話を繋いでもらえず、寿太郎の来訪すら知らされていなかった。

 なんとかしてやりたいと思った。それも傲慢な考えなのだろうか。自分の考えている自由と信乃が考えている自由は違うのだろうか。


 寿太郎が項垂れたまま縁側に立ち竦んでいると、重いため息を吐いて信乃が顔を上げた。

 相変わらず信乃の表情は硬かったが、先ほどよりは僅かに柔らかい口調で言った。


「――言い過ぎました。その仕事とは一体どのような仕事なのですか。真作を見つけるというのは建前なのでしょう?」


 寿太郎は言葉に詰まった。核心を避けて話をしても信乃の信頼は得られない。


 話さなければ何もできずに時間切れ。話せば信乃をも巻き込んで厳罰処分。ついでに親父の日本ヤパンでの仕事も終わる。比ぶべくもなかった。話さず立ち去ればいい。困るの自分一人だけだ。


 酷く喉が乾いた。

 寿太郎は散々迷った挙げ句、今の気持ちを素直に伝えることにした。


「俺が考えなしだった。話したら本当に先生を巻き込んでしまうかもしれない」


「巻き込もうとしたのはあなたでしょう。半端に話される方が気になります」

「下手したら先生も逮捕されるかも」


 話してしまうことで寿太郎は楽になるが、それでは寿太郎が負うべき責任を半分信乃に押し付けることになってしまう。


「君の望んでいる物はそんなに簡単に諦められる程度の物だったのですか」

「それは違う。あの絵をもう一度見たいのは本当に本当のことだって。でも、先生に迷惑掛けることになるし、もし手伝ってくれるとしても聞かない方が」


「それを判断したいから聞いているんですよ」


 信乃は組んだ腕を指先でゆっくり叩きながら続けた。

「聞いていないことで、ややこしい事態になる方がよほど困ります。もし不利益を被るようなことがあるのなら私が話さなければよいだけです。それに君が何かを隠しているように、私にも隠している事があるかもしれませんよ」


 信乃は自分を信用しろと言わなかった。

 寿太郎は信乃が何かを隠しているだろうことは薄々感じてはいた。それが何なのかは分からない。だが、寿太郎の答えは既に戻れない所まで傾いていた。


 寿太郎はもう一度鴨井の言葉を思い出した。第三者への捜査状況の漏洩は駄目だが、協力者を作ってはいけないとは言われていない。

 寿太郎は膝に手を突くと、気合いを入れるように思いっきり息を吐いた。


「言えるとこまでだけど……。海外に流出している日本画の贋作の出所を調べてる。依頼人の指定は深山白茲みやまはくじ。先生も美術館で気にしてただろ日本の美術品の海外流出。ちょうど深山派のことだし、それで先生に手伝ってもらいたくて」


 濡れ縁を雨が叩く音や葉裏のカエルがしきりに鳴く声がよく聞こえた。

「そうしたら、その一緒に……」


 黙って聞いていた信乃は袖口に入れていた手を出して居住まいを正すとゆっくりと頭を下げた。


「契約上の事を無理に聞き出してしまったのは申し訳ありません。どれ程のお咎めがあるのですか。まさか解雇とか」


「ちょっと先生、頭を上げてくれよ! 内務省の具体的な捜査状況は俺も知らないし話せないけど、協力してもらえるなら業務上必要だし、ある程度の説明は仕方ないと思う。それに信乃先生はほぼ当事者だし、俺じゃ頼りないかもしれないけど絶対に迷惑がかからないようにするから」


 信乃はふむと言うと、一つ疑問を口にした。


「仕事の内容を聞くに、真作を探すという話はどこから出たのですか」


「それは自分で考えたんだよ。贋作の出所を探せって言われても素人の俺に分かるわけがないから、真作がどれだけ残っているかを先に調べた方が分かりやすいと思ったんだ。雇い主だって俺が犯人を見つけられるなんてこれっぽっちも考えちゃいないだろうし、ある程度の成果があればいいと思う」


「なるほど……」

 その時、信乃の背後、硝子障子に仕切られた離れの向こうから大声が聞こえてきた。


「また下書きを広げっぱなしにして、義兄にいさん一体どこに行ったんですか!」


 二人は弾かれたように顔を上げた。


 正座をしていた信乃は衣擦れの音すら出さずにすっと立ち上がった。その恐ろしく美しい動作に寿太郎が見入っていると信乃が寿太郎の傘を押しつけてきた。


頼次よりつぐが戻ってきます。早く裏門から出てください。多少走っても雨音が消してくれます」


「待って待って、話が途中だって。俺、飯田町の下宿に引っ越したんだ。子犬もいるし今度来――」


 信乃に背中をぐいぐいと押されながら、寿太郎は懐から紙束と鉛筆を取り出して手早く書き付けた。


 湿気た紙片を信乃の手に握らせると濡れ縁下の踏石ふみいしに脱ぎ捨てていた革靴を引っかける。数歩で庭を横断して裏門に取り付くと、閂を滑らせて開いた門扉の隙間に身体を捩じ込ませた。


 寿太郎が顔だけを残して中を窺い見ていると信乃は犬を追い払うように手を振り、口だけで「早く行け」と言ってきた。


 門を閉じるとまた頼次の声が聞こえてきたが、寿太郎は振り返らず駅へと走り出した。

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