第2話 オヤトイサマ

 急に大人しくなった寿太郎じゅたろうを警官が素早く縄付き手錠で拘束する。


「おい待ってくれ、俺は何もしてないって! なんで手錠までされなきゃいけないんだよ」

「逃亡の恐れがある者の拘束は当然の処置である。やましいことがあるから逃げたのだろう」


 威丈高に言った若い警官は、寿太郎の肩をサーベルで押し付け膝の後ろを小突き地面に膝を付けさせた。

 警官は縄の先を自らの手首に巻き付け膝頭を寿太郎の背中に乗せる。重みで砂利が膝に食い込み、寿太郎は思わず呻き声を上げた。


「ふう、やっと追いついたか。巡査でかしたぞ!」


 年嵩の髭の警官は息を整えてから白手袋を嵌めた指先を寿太郎の鼻先に突きつけた。


「ここは御料地の公園ぞ。不審者は改めるに決まっておる。貴様にはこれから署まで同行してもらう」

「同行? 俺はただ道を聞こうと人を探していただけだ。異人が珍しいからって追いかけ回さなくてもいいだろ」


 髭の警官はやれやれと肩をすくめた。そして、先ほどとは打って変わった口調で諭すように言った。


「君の話は署で聞くから。な、これはお前さんのためでもあるんだぞ。未成年ではなさそうだが保証人を立てればよいだけではないか」

 その場で逮捕ではないだけかなり良心的な提案だったが、寿太郎にとってはそうではなかった。


「つまり家族を呼べってことか?」

「署には電話もある。一人くらいは知り合いもいるだろう?」


 警官はさも良いことを言ったかのように頻りに頷いている。寿太郎の血が一気に引いた。それはまずい。非常にまずい。


「いや、だからそれは困るんだって……どう言えば分かってくれるんだよ」


 この髭の警官も父親と同じだ。言い方が丁寧なだけで、寿太郎の話を聞く気など元よりないのだ。

 寿太郎が地面を見つめて押し黙っていると、芝居見物よろしく集まっていた野次馬たちは、途端につまらなくなったのか一人ずつ去っていき、遊歩道は元の人通りに戻っていった。


 ざり、と砂利を踏む音がした。急に静かになったせいか微かな音がやけに大きく聞こえた。

 藍色の鼻緒をすげた草履が寿太郎の視界に入ってきた。顔を上げると先ほどの青年が警官と寿太郎の間に立っていた。


「お取り込み中失礼ですが、お巡りさん。そこの荷物を取ってもよろしいですか」

「なんだ貴様も仲間か?」


 邪魔をされたと思ったのか、若い警官が高圧的な態度で言った。その首が少し上向いていて、見上げながら威張り散らす態度は少々滑稽だったが、青年は丁寧に頭を下げた。


「いえ、私は巻き込まれただけです。身分証はないですが名刺でよければ」

 青年は帯に手挟んでいた印伝の名刺入れを取り出した。髭の警官は受け取った名刺を検めると途端に表情を明るくした。


「これは失敬、学校の先生ですか。本官はこの不逞ふていの輩を懲らしめておりまして。ええ、何かありましたら危険ですからな。早めに立ち去られた方がよいかと」


 あからさまに追い払おうとしている警官に青年は穏やかに言った。

「危険……ですか。あの、差し出がましいかとは思いますが、その人を同行するのはお止めになった方がよろしいかと存じます」


 青年の言葉に髭の警官が「止めろとは?」と顔を曇らせた。


「その人はオヤトイ様かもしれません」


「ああ、それそれ! 俺の爺さんがそれだったんだって」

 ここぞとばかりに口を挟んだ寿太郎に、青年は屈んで荷物を拾い上げながら耳打ちをした。

「君はもう喋らないほうがいい。ここは私に任せてください」


「先輩、オヤトイ様っていったい何なんです?」

 若い警官が困惑した表情で隣の上司に問いかけた。髭の警官は額に滲んだ脂汗を制服の袖口で拭うと「その男――その方を解放しろ」とだけ言った。


 若い警官が突然の指示変更に当惑していると、髭の警官は厳しい表情で顎をしゃくった。

 背中で鍵の開く微かな金属音がし、寿太郎の手が自由になった。 若い警官は渋い顔をしながら寿太郎の腕を取って立ち上がらせ、寿太郎のコートを叩いて埃を落とす。


 寿太郎が解放されたのを確認した髭の警官は、巡査に向き直ると苦々しく言った。


「オヤトイ様は先の政府が雇い入れていた外国人のことだ。明治の世に比べて数は少なくなったが、それでも何かあれば外交問題になりかねん」

 苛立たしげな声は寿太郎に釈明をしているようにも聞こえる。


 しかしそれを聞いて尚、若い巡査は態度を改めるどころか、むしろ興味深げに寿太郎を下から覗き込んだ。

「こいつが役人なんですか? 胡散臭いペテン師か何かにしか見えないですがね」


 挑発的に言う警官に寿太郎が口を尖らせた。

「人を見た目で判断するなよ。確か……カイガアラタメとかなんとか、そういう奴だ。多分」


 寿太郎は助けてくれた青年に目配せをしたが、ふいと顔を逸らされた。身なりは良いし博識そうだが、どうにも捉えどころがない男だった。


「失礼しました。昨今は暴動なども多く、先の戦争から景気も不安定でありますからな。過剰な対応になってしまったのは申し訳ない」


 髭の警官は何度も頷きながら、胸ポケットから小さな帳面と鉛筆を取り出して言った。


「ですが我々も公務でしてな。手ぶらでは困るのです……どうぞご理解頂きたい。つきましてはお二人にはもう少しお話を伺ってもよろしいですかな」


「お二人? 私も、なのですか」

 驚いた青年が問い返す。髭の警官は制帽を脱いで頭を下げ、巡査も慌ててそれに続いた。


 話を聞かれるのは寿太郎なのに、警官たちは青年の方に向かって頭を下げている。対応の落差に寿太郎は呆れたが髭の警官は青年に向かって話を続けた。


「この人ではどうにも話が通じにくい。先生にご協力下さると本官も助かります。なあに簡単な調書だけですんで、そこのベンチで十分ですよ」


 言外に逃げないようにと釘を刺した警官に、青年はあからさまに顔を顰めた。肩を窄めた寿太郎が小さくスミマセンと言うと、青年は大きなため息を吐いた。

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