不真面目な彼の恋人

碧原柊

不真面目な彼の恋人

「ねえねえ、桐生くんって熟女と付き合ってるらしいよ」

 チューニングしている俺の隣でそう言ったのは、ホルンを抱えている二年の鈴木だった。熟女、という健全な高校生活にはおよそ似つかわしくない言葉に内心ぎょっとしながらも、俺は表情を崩さず441ヘルツに合わせたチューナーに向かってトランペットを構えB♭の音を吹いた。デジタルメーターの針が許容範囲から大きく外れた位置を指す。顔では平静を装っていても音は正直だ。もう一度気を取り直してチューニングする。今度はふらふらと上や下に揺れながらも、音程はなんとか許容範囲のなかに収まった。

「桐生先輩って、二年のですよね。あの目立ってる」

 一年の相田という男子が興味津々といった顔で鈴木に尋ねる。相田は俺と同じトランペットパートで、ハイトーンを得意としている。俺では首を絞められた鶏のような音になってしまう高音域も、相田は伸びやかに吹きこなすことができるところが羨ましい。

「うん、そうそう。友達がずいぶん年上の人と腕組んで歩いてるの見たって」

「そういうのってたいてい姉貴とかじゃないんですか? すごい若い母親とか」

「うーん、でもあの桐生くんならすごい年上と付き合ってても納得しちゃう」

「でもそれってほら、インコーとかになりますよね? 青少年ナントカ条例みたいなやつ」

 相田が、鈴木が「やばぁい」と言って笑った。ほかの二人は会話に参加せず黙々と楽譜をさらっている。

 グラウンドからは野球部が「センター!」「レフト!」と守備練習をしている声が響いてくるし、一つ上の階にある第一音楽室から聞こえてくるのは合唱部の歌声だ。どの部活も夏で三年生が引退し、二年生を中心に据えた活動に移り変わった。俺たち吹奏楽部も、十二月の頭にあるアンサンブルコンテスト地区大会に向けた練習の真っ最中である。この教室に集まっているのは俺を含めた二年生三人、一年生二人で組んでいる金管五重奏の面々だ。編成はトランペット二人にホルン、トロンボーン、チューバ。他にも金管八重奏、クラリネット八重奏、サックス八重奏などにわかれて、それぞれ練習することになっている。近くの教室にいるのか、クラリネット八重奏が曲を合わせているのが聞こえてきた。

 どこにでもある高校生活のワンシーンというその光景のなかで「桐生」「熟女」というふたつの言葉が空中にぽっかり浮いているような気がして、俺は妙な居心地の悪さを感じてしまう。それを隠すようにメトロノームをテンポ130にセットして机の上に置くと、メトロノームが車のワイパーにも似た動きを繰り返し始める。居眠りのあとみたいにぼんやりしている放課後の教室をカチ、コチ、カチ、コチ、という規則的な音が切り裂いていく。楽譜に指定してあるテンポよりもいくぶん遅いが、このくらいにしなければ今の自分たちの出来では空中分解してしまう。 それをわかっているのかいないのか、カチコチカチコチと小気味よい音を刻むメトロノームを無視して鈴木は話を続けた。

「そういや西野って桐生くんと同じクラスだったよね。そういう話聞かない?」

 もはやこいつにはメトロノームの音なんて聞こえてないのかもしれない。呆れながらも俺は「知らないけど」とだけ答えてトランペットを構えた。

「ほら、そろそろやろうぜ。地区大会までもう一ヶ月もないんだぞ」

「はいはい。西野ってほんと真面目なんだから。楽しくやろうよ」

 小馬鹿にしたような「真面目なんだから」という言葉になんだか無性に腹が立った。いつもそうだ。俺はただやるべきことをきちんとやりたいだけなのに、いつも「真面目だ」と言われる。しかも、いまの鈴木みたいに軽い嘲笑を加えて。俺はそのたびに真面目であることのいったいなにが悪いと思う。褒められるならわかるが、笑われるのは納得がいかない。そして桐生――クラスメイトである桐生拓実は、俺のような真面目人間の真逆に位置するような男だ。自由で、奔放で、何事も恐れない。だから俺は、桐生拓実のことが嫌いだ。

 いち、に、さん、し、とカウントを取って五人で合わせ始める。曲は『コッツウォルズの風景』。言うまでもなくバラバラだった。各々が自由に吹いていて五人の音がちっとも嚙み合っていない。これでは地区大会を突破することなんてとうてい無理だろう。楽しければまとまりがなくても、へたくそなままでもいいのだろうか。俺にはよくわからないと思いながら楽譜に記されている音符を必死に追いかけた。

 

 結局その日の練習はいまいち手ごたえがないまま終わりの時間を迎えた。ほかの編成は着実に上達している気がして焦ってしまう。練習が終わったあとも、桐生だとか熟女だとか真面目だとか楽しくやろうだとか、鈴木が言い放った言葉がぐるぐると頭のなかで回り続けていてモヤモヤする。そのまま家に帰る気にはなれなくて、俺は家とは逆方向に向かって自転車を漕ぎ出した。

 木枯らしが銀杏の葉を舞い上げるなか、俺は駅までがむしゃらに自転車を漕ぎ、駐輪場に停めて駅の近くにある楽器店に入った。教本を物色していると、「西野?」と後ろから声をかけられた。

 誰だよ、と思いながら振り返ってみてぎょっとする。そこにいたのは、今日まさに話題に出た桐生だった。「き、桐生」とぎこちない笑みを浮かべながら半歩後ずさる。生まれたままの真っ黒な髪ときっちり制服を着こなしている俺とは違って、桐生は茶色く染めた髪と学ランの下に着たパーカーがよく似合っている。うちの高校は、入学時こそいろいろとうるさく言われるものの、あまりに目に余るような態度でなければある程度黙認してくれる。さすがに金髪や赤や青に染めるのは生徒指導の対象となるが、許されるレベルで軽く染めているという生徒ならそれなりにいるのではないだろうか。桐生もそのひとりだ。

 それにしても桐生がどうして楽器屋なんかにいるんだという疑問が頭に浮かぶ。俺がその疑問を口に出すよりも前に、桐生が口を開いた。

「やっぱり西野だ。部活帰り?」

「う、うん」

 普段教室で話すことなどほとんどないのに、思いのほかフレンドリーに話しかけられたので動揺して目が泳ぐ。羽虫のようにふらふら彷徨った視線が止まった先は木管楽器で使うリードの箱だった。クラリネットだろうかサックスだろうか、桐生の手はその手のリードの箱を握っている。「なんでリード?」とまたひとつ俺の頭の上にクエスチョンマークがひとつ増えた。

「あっ、そうだ。西野ってさ、吹奏楽部でトランペット吹いてたよな?」

「……そうだけど。それがどうかした?」

「なあ、今日って時間ある? ちょっと俺に付き合ってくんね?」

 桐生がニコニコ笑いながらそう言った。どうしてこいつが俺のパートを知っているんだとか、いったい俺になんの用だとか、どうしてリード持ってるんだとか、そういう感情があからさまに顔に出て眉間に皺を寄せてしまった。

「あ、なんだよそのいやそうな顔」

「……いや、別にそんなことは」

「ほんとかよー。まあ評判悪いもんな、俺」

 はは、と桐生が自虐めいた笑いをこぼす。その笑い方が妙に気に障って、俺はつい「いいよ。付き合えばいいんだろ」という言葉が口を衝いて出た。

「え、いいの」

「お前が言ったんだろ。で、どこ行くんだよ」

「俺んち。こっからすぐだからさ」

「は!?」と思わず素っ頓狂な声を上げてしまう。「まあまあ悪いようにはしないから」と詐欺師さながらの台詞を発しながら桐生はレジに向かった。桐生がリードの会計を済ませているあいだに俺は駐輪場に自転車を取りに行き、母親に「友達の家に行くから少し遅くなる」と電話をした。「あんまり遅くならないのよ、恭介」と心配そうな声で言う母親にはいはいと投げやりに答えて通話を切る。切ってから「俺と桐生は友達なんだろうか」と首を傾げたが、今日から友達になりましょうと言うのもおかしいので深く考えることをやめた。

 楽器屋の前に戻り、自転車を押しながら桐生のうしろをついていく。聞きたいことがたくさんあったのにも関わらずなにから切り出せばいいのか迷って、結局桐生が「寒くなったよな」とか「数学ぜんぜんわからん」とか話すのに合わせててきとうに相槌を打つことしかできなかった。桐生が歩くたびに、リードが入っている楽器屋の黒い袋がカサカサと乾いた音を立てる。


 桐生は、入学したときからとかく目立つ男だった。

 入学式のその日から髪を茶髪に染めていて、それがもとで生徒指導の宇崎先生(通称ウザセンだ。もちろんウザいという意味もかかっている)にこっぴどく怒られ、翌日坊主にして登校してきた。その派手な立ち回りから、みな桐生が気になりつつも遠巻きに眺めることしかできない上に、「熟女と付き合っている」なんて噂まで流す始末だ。

 だが当の桐生はそんな周りの様子などまるで気にしていない様子で、ときどき学校に遅刻してきたり、昼休みになるとふらっと教室からいなくなったりする。そういった不真面目な桐生の行動を俺はちっとも理解できないが、かといって本人が気にしていないからといって陰でこそこそ噂話をして面白がるのもどうかと思っていた。だから、桐生が「評判悪い」と自分のことを評したのは少し意外だった。そこに投げやりな笑いが含まれていたことにも。

 

「着いたよ。ここ」 

 桐生に連れていかれた先は、楽器店から路地に入って五分ほど歩いた場所にある『デビィ』という店だった。見た感じ飲み屋のように見える。不意に昼間の会話を思い出し、まさか女の人に接客してもらうような店じゃないよなと青ざめる。

「……桐生。俺、こういうところは、ちょっと」

「あー、西野なんか変な想像してんだろ? そういうんじゃないって、ここは」

「ただいまー」と朗らかな声をあげながら桐生がバーの扉を開ける。おずおずと中に入ってみると、そこはやはり普通の飲み屋やバーではなかった。小さなステージにピアノとドラムセット、それにスタンドに立てかけたトロンボーンやウッドベースまで置いてある。入り口に立ったまま、きょとんとしながらそれらを見回していると、バーカウンターのなかから女性がひょっこり顔を出した。

「あ、おかえり拓実」

「友達連れてきたよ、母さん。同じクラスの西野。吹奏楽部でラッパ吹いてる」

 桐生がそう言うと、奴の母親がパッと顔を明るくした。

「あらあんた友達なんていたの! びっくりしたわ!」

「悪かったな!」

 まるで漫才のような掛け合いに、店のなかにいた数人の客がアハハ、と声をあげて笑った。

「ええと、西野くん? ありがとうね、うちの子と仲良くしてくれて」

「あ、いえ……えっと、初めまして。桐生くんと同じクラスの西野です」

 俺はそう言いながらぺこっと頭を下げた。いったいこの状況はどういうことだろう。まだうまく飲み込めない。桐生はさっとステージに上がって、片隅に置いてあるケースのなかからサックスを出して吹き始めた。その音色の艶やかさに、俺はごくりと息を呑む。普段部活で聴いている、例えるなら校則をきちんと守る優等生のような音色とはまるで違う。色気があって、夜が似合う、そういう魅惑的な音だ。楽器を吹いている姿をじっと見ていたら、桐生と目が合った。

「桐生……お前サックス吹けたのか」

「あれ? 言ってなかったっけ? でもクラシックじゃなくジャズ専門なんだけどなー」

 知らなかった、と言うと桐生がへへっと照れくさそうに笑った。あ、そうだと言って桐生は店の奥のほうに入っていき、すぐに楽器ケースを持ってまた戻ってきた。

「西野、今日楽器持ってないよな。良かったらこれ使って。母さんが昔使ってたやつ」

 そう言って桐生は俺に向かってトランペットのケースを差し出した。俺はすぐにその意図がわからず、しばらく考えてからようやっとひとつの結論に思い当たった。

「え!? 俺も吹くってこと!?」

「あ、ジャズとか興味ない? けっこうおもしろいよ」

「いやいやいや! 即興とか無理だって! 俺楽譜とおりに吹くことしかできないから!」

 ぶんぶんと首を振る。だってジャズってあれだろ、何小節かずつみんなでアドリブ回しながら演奏するやつ……そんなの俺にはどう考えたって無理だ。『A列車で行こう』とか『シング・シング・シング』とか、吹奏楽にアレンジされた曲を吹いたことはあるが、それだってみんな音源通りにソロバートを吹いていた。

「そんな難しく考えることないって。自由に吹けばいいんだよ自由に。音外したってなにしたってここには笑う人なんてひとりもいないからさ」

 桐生がそう言うと、そこにいたみんながうんうんと物知り顔で頷いた。自由、という言葉にカチンと来てしまう。

「それはさ! 桐生みたいに自由にできる奴ならいいよ! 俺はどうせ馬鹿にされるほど真面目だし、自由にとか無理なんだよ!」

 気がついたときにはもう叫んでしまっていた。店のなかがシーンと静まり返る。やってしまった。桐生はなにも悪くないというのに、膨らませすぎた風船が破裂するみたいに、俺が勝手に爆発しただけだ。一気に恥ずかしくなって、その場から逃げ出したくなる。沈黙を破ったのは、桐生の母親だった。

「そうよね。いきなり自由に吹けなんて言われても困るわよね。最初はロングトーンでもなんでもいいの。西野くん、楽譜見ればそれがどの音階なのかはわかるわよね? そのなかにある音を一音ずつ吹いてみるのでもいいわ。でも無理にとは言わない。みんなが演奏しているのを聴いて、楽しいなってちょっとでも思ってくれたらそれだけで私たちも楽しいのよ」

 そう言って桐生の母親がニコっと笑った。笑った顔が桐生とよく似ている。ウッドベースを抱えている、俺の父親と同じくらいの年齢のおじさん、ドラムセットに座っている大学生くらいのお兄さん、そのお兄さんより少し年上の、トロンボーンを持ったお姉さん。そして桐生。みんなが同じような顔で笑っていた。一度叫んだことで、俺は憑き物が落ちたみたいになんだかすっきりした。そして、ここにいる人たちは俺が失敗してもぜったいに笑わないし、真面目だなんて馬鹿にしないだろうという確信があった。ボールが坂を転がり落ちるみたいに心臓の鼓動が速くなる。

「……俺、やってみます」

 俺の言葉に、桐生がとびきり嬉しそうな顔をした。トランペットのケースを開けて、楽器を取り出す。慣れない楽器は不安だがワクワクのほうが勝った。不安も少し。でもやってみたいと素直に思った。

「西野。『枯葉』わかる?」

 うん、と頷く。『枯葉』は中学校のころの定期演奏会で吹いたことがある。桐生がトランペット用の楽譜を譜面台に載せてくれた。楽譜は手書きで、あちこち茶色く変色している部分もあって年季を感じさせる。

「十六小節ずつアドリブ回すから。俺が合図出したら吹いて」

 うん、ともう一度頷く。ドラムのカウント。そこから先のことはよく覚えていない。無我夢中で吹いて、気づけば一曲終わっていた。終わったころには、どんな曲を通しで吹いたときよりも息が上がっていて、でも体はひどく高揚していた。ちっともうまく吹けなかったと思う。それでもすごく楽しかった。桐生だけではなく、みんなが寄り添って演奏していた。


「……うちの部のやつが、桐生は熟女と付き合ってる、って」

 カウンターに座って、桐生の母親が出してくれたオムライスを食べながら俺がそう言うと、桐生は飲んでいたジンジャーエールを思いきりぶっと吹き出した。隣に座っているキョウカさん――トロンボーンを吹いていたお姉さんだ――も「あははっ」と声をあげて笑っている。

「っんだよそれ! 熟女と付き合ってるとか!」

「だって、桐生がすごい年上の女の人と腕組んで歩いてたって」

「あら、それ私じゃない? この前ひまわり保育園で演奏したあとに歩いて帰ったじゃない」

「あー、あったあった。キョウカさんが『疲れた~引っ張って~』って俺のケースのベルトにしがみついて重かった」

「保育園?」と尋ねると、この店で集まっている面子で、ときどき保育園のイベントや病院で慰問演奏をしているのだということを教えてくれた。

「大体にして私結婚してるのよ、恭介くん。子供もいてもう中学生」

 キョウカさんの言葉に、俺は今日何度目かの大声をあげる。

「えっ! 全然見えないです。サトルさんと同じくらいかなって」

「それは俺が老けてるってことじゃないよね? 恭介くん」

「違います!」と慌てて首を横に振ると、みんながぷっと吹き出した。なんだかとても居心地の良い空間だ。

「でも拓実くん、ずいぶん年上の女と付き合ってるのは合ってるんじゃないかい?」

 ウッドベースを弾いていた高梨さんがそう言うと、みんながえっ、と驚いた表情になる。

「拓実! あんた彼女なんていたの!?」

「知らなかった! 私にも紹介しなさいよ!」

「いやいやいや! 俺彼女なんていないって!」

 と桐生は慌てている。

「いるだろ? ほら、さっきまでその手に抱えてた子」

 高梨さんはそう言ってステージの上を指さした。そこには、桐生がさっきまで吹いていたサックスが置いてある。

「あー、そういうこと」

 とみんなが納得したような表情になる。わかっていないのは俺だけだった。

「なに? どういうこと?」

「あー、あのサックス、俺の父親が使ってたやつなの。俺が子供のころに死んじゃったんだけど、父親がナナって名前つけてて。だから、年上の彼女」

 桐生はそう言ってズズズ、と残っていたジンジャーエールを啜った。なるほど、と納得する。父親が遺した楽器を受け継いでサックスを吹いている桐生がなんだかかっこいいと思った。どことなく達観しているように見えたのは、父親を亡くしているせいなのかもしれない。

「俺は真面目真面目ってそればっかり言われるから、桐生みたいな奴が羨ましいよ。周りがなにを言っても動じないっていうか、自由っていうか」

「俺って自由に見えるんだ?」

「だって入学式の日から茶髪なんて俺にはぜったいできないよ」

「あー、あれな。俺さ、地毛が茶髪なんだよ。うちの親父、俺が小さいころに死んじゃったんだけど、イタリア系のアメリカ人で。んで髪の色は親父に似ちゃったんだよな。でも地毛って言っても嘘つけの一点張りだし、むかついたしめんどくさくなって学校終わったその足で近所の床屋行って坊主にしてもらった」

 桐生はあっけらかんとそう言った。全然知らなかった、と呆気にとられてしまう。結局俺も、桐生という人間に勝手なフィルターをかけて見ていたのかもしれないと思い知らされた。オムライスとオレンジジュースをごちそうになり、そろそろ帰りますと頭を下げて店を出る。「また遊びに来てね」と言ってくれた桐生の母親の言葉に「はい」と返事をして。


 暗いから途中まで送ると言われて、いったんは断ったものの桐生が受け入れなかったので仕方なく途中まで一緒に歩いた。その道すがら、気になっていたことを尋ねる。

「あのさ、なんで俺に声かけてくれたの」

 誰でも良かったという言葉を予想していた。だが、桐生が発した言葉は俺の予想をいい意味で裏切ってくれた。

「だってお前、いっつも真面目に練習してるじゃん。朝も放課後もさ。真面目にやってる奴の音ってわかるよ。ジャズってこういう音楽だから適当に自由にやってると思うかもしんないけど、みんな基礎があって、スタンダードナンバーを頭に叩き込んで、そこからじゃあどう演奏しようってなるんだよ。きちんと練習した上に楽しさがあると思う。だから俺は真面目に練習してる奴のことは信用してる。それに」

「それに?」

「いっしょに吹いてみたいなと思ったから。俺、ジャズしかわかんないから吹奏楽じゃ浮いちゃうと思って部活入ってないけど、おまえとはいっしょに吹いてみたいと思ったんだ」

 そう言って桐生がまたへへっと笑った。それだけで、なんだか悩んでいたことすべてがどうでもいいような気持ちになった。真面目だと馬鹿にされてもいい。俺は俺が気持ちのいいようにやっていて、それを見ていてくれる奴がいた。それだけでじゅうぶんな気がした。

「おまえも吹奏楽部見学来てみろよ」

「ええー、みんなに引かれないかな。熟女と付き合ってるなんて噂されてるくらいだしな」

「ナナって名前のサックスが恋人だってみんなに教えてやるよ」

「おまえ! それぜったいやめろよ!」

 あはは、と声をあげて笑う。ジャズもいいけれど、俺は吹奏楽が好きだから桐生といっしょに吹くことができたらうれしいなと思った。いまはまだ、照れくさくて言えないけれど。

 駅を過ぎて少ししたあたりで、「じゃあまた明日」と言って桐生と別れた。自転車に乗って、夜の街を走り出す。秋の夜風は冷たいが、火照った体にちょうど良かった。

 楽しく演奏するためにしっかり練習しよう、明日の部活では五重奏のみんなにちゃんと言おう。そう思いながら、俺は自転車のペダルを思いきり踏み込んだ。

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