40歳まで童貞だったらぬいぐるみにされるらしい

神楽耶 夏輝

第1話

 俺は焦っていた。

 巷でまことしやかに囁かれているこんな都市伝説のせいで……。


「40歳まで童貞だったら、ぬいぐるみにされるらしい」

 

 去年はまだ余裕があった。あと一年ある。この一年でどうにかセックスすればいいんだろう、と。

 思えば、俺の人生はいつもこんな感じだった。

 夏休みの宿題は最終日ギリギリに追い込みをかける。

 テストは一夜漬け。

 時間割は当日の朝に調べて準備をする。

 これまでの人生、それでなんとかなっていた。


 だが、今回は違った。

 明日、いや、今夜日付が変われば、俺は、うっかり40歳になってしまう。

 しかも、童貞のまま……。

 

 身長は168センチと中途半端。その上、日頃の不摂生で体格は小太り。童顔がコンプレックスで伸ばしていた口ひげも、今や女からは生理的に無理~と言われるレベル。

 3年前にリストラされて、現在は引き込もり。

 そんな俺に、当然恋人どころか、一晩を共にしてくれる女さえ、現れるはずもない。

 神様も仏様も女神様もいないのだと、まざまざと現実を見せつけられている。

 このままだとぬいぐるみになってしまう。そんなの絶対に嫌だ!!


 今日という日は刻々と過ぎる。

 現在、時刻22時30分。

 ここで諦めるか? 諦めたらそこで試合終了じゃないのか。

 しかし、今からではダイエットも、筋トレも、スキンケアも、就職も間に合わない。

 風俗にいく金もない。

 先ず、俺はひげを剃った。

 そして、いつもの一夜漬けで、天才ナンパ師の動画を漁り、いざ繁華街へと繰り出した。


 日頃、近所のスーパーやコンビニに買い出しに行く以外、殆ど外出もしなかった俺は、数分歩いただけで息が上がる。

 これは早いところ勝負をかけないと、セックスする体力を温存できない。

 動画でナンパ師がやっていた通り、向こう側から歩いて来る女に声をかけるとしよう。


「はぁはぁはぁ、す、す、すすすすすびばせ……」

 そういえばここ最近、声すら出していなかった。人と話す事などなかったからだ。

「きゃっ!」

 まるで道端に犬のふんでも見つけたかのような反応で、女は横っ飛びして軌道から大きくズレた。

 正常な反応だ。と思いつつも、ジリっと胸の底にナイフの刃を当てられたかのような痛みをおぼえる。


 次だ、次!

 自分を鼓舞しながら、先へ進む。


「すっ、はぁ、はぁ、すいま……」

 気の強そうな女だった。俺に一瞥をくれた後、無反応で足早に去って行った。

 すいません、の一言さえ、まともに伝えられない。


 次に至っては、近付いただけで、距離を取り、避けられる。


 時刻は23時。


 後1時間で、どうやって女をナンパしてセックスまで持っていく?

 考えてみたら、ホテル代も女に酒を奢る金さえもない。

 いや、待てよ。

 ナンパ師の動画を思い出せ!


 あの方法なら――。


 俺は、コンビニに入った。

 まっすぐと、店内奥の冷蔵庫に向かい、発泡酒を2本カゴに入れた。

 

 会計を済ませて、急いで外に出る。


 ちょうど、千鳥足で黒いミニ丈ワンピースを着た、尻の軽そうな女がよたよたと歩いてきて、俺の前を通り過ぎた。

 その背中に声をかける。


「あ、あの!!」


「ふ?」


 女は、立ち止まり、振り返った。


 年は20代半ば。派手な化粧から察するに、夜の商売かもしれない。


「あの、俺、明日誕生日なんですよ」

「へぇ、それで?」

 俺は、ビニール袋から缶ビールを取り出した。


「よかったら、一緒に乾杯してくれませんか。あそこで」

 通りに面した小さな公園を指さした。


 女はいぶかし気に俺を上から下まで眺めている。


「あ、怪しいもんじゃないです。一人で寂しくて」

 この手の女は同情に弱い。と、ナンパ師は言っていた。

 女の手が、缶ビールに伸びる。

「いいわよー。私もまだ帰りたくなかったから」


 よっしゃー! 俺は心の中で雄たけびを上げて、力強く拳を引いた。

 女は俺が指さした公園に自ら歩き出し、ぷしゅっと缶ビールを開けた。

 大げさな仕草で振り返って、缶を掲げる。

 俺も自分の缶ビールを持ち上げた。

「乾杯」「かんぱーい。ハッピーバースデー」

「ありがとう。明日だけどな」

 その言葉には無反応で、俺の顔を見つめたままグビグビと喉を鳴らす。

 

 まるで綱渡りでもするかのように、両手を横に広げてふらふらと歩き、公園のベンチに座った。


 時刻は23時40分。


 間に合うかもしれない。しかし、もうこの段階で勝負をかけなければ間に合わない。

 背に腹は変えられぬ。俺は彼女の足元に膝まづいた。


「お願い、します。はぁはぁはぁはぁ、俺と、俺と……はぁはぁ、セックスしてください!!」


 目の前には女の黒いハイヒール。それが、わずかに後ろへズレて、遠のいた。

 女が前屈みになったのだ。


「おじさんさぁ、もしかして、アレ?」

「え?」

「明日、誕生日って言ってたけど、もしかして40歳になるの?」

「そ、そう、なんだよね」

「ふぅん。童貞なの?」


 童貞なの? とストレートに確認されて、頭のてっぺんまでが恥ずかしさで熱を持つ。


 地べたの砂をむしるように掴み、手中に収めた。

 肯定を込めて首肯する。


「あれって、嘘だよ」

「へ?」

「あれはただの都市伝説。ぬいぐるみにはならないから安心しなよ」

「ど、どうしてわかるの?」

「だって、私の友達の友達のお兄さんが42歳で童貞って言ってた。ぬいぐるみには、ならなかったらしいよ」


「本当?」


 女は長いまつげを上下させながら目を瞬かせた。


「本当、だと思う」


「なんだー、よかったー。じゃあ、ぬいぐるみにはならないのか。そうだよな。そんなおかしな話、普通ないよな。俺、なんであんなしょうもない都市伝説信じてたんだろ」


 急にばからしくなった俺は、そのまま天を仰ぎながらその場に大の字に寝転がった。


「そろそろ、12時だよ。日付変わるね。もう一回乾杯しよっか」

 女が優しくそう言った。

 よっこらしょと体を起こし、地べたに置いていた缶を取った。


「10秒前……」

 女が腕時計を見ながらカウントダウンを始める。

 こんな誕生日、生まれて初めてだ。


「9、8、7」

 何年ぶりかに、街に繰り出してよかったな。


「6、5、4」

「都市伝説を信じてみてよかった」


「3、2」

「だって、君に会えたから。君の名前を――」


「いちーーー!!!」

 聞いていいかい? と言おうとして、カウントダウンが終わった。


 カチャンと音がして、手から缶ビールが滑り落ちた。

 缶が地べたに落ちたのだ。

 俺の視界を、再び夜空が支配していた。

 ドクドクと音を立てて、俺の顔の横で、琥珀色の液体が流れている。

 乾いた土に沁み込んでいく。


 体は自由に動かない。


「おめでとう。童貞おじさん。なんていう幸運! 幸せの黄色いクマさんだー! さて、なんていう名前にしようかな」

 女が俺を軽々と拾い上げる。

 遅かった!

 俺はどうやら黄色いクマのぬいぐるみになったらしい。


「7個目ゲットー!」

 女は俺を天に向かって高い高いをした。

 女の満面の笑みが俺の視界を支配する。

 真っ赤な唇が横に広がって、白い歯がむき出しになった。


 そういえば、ぬいぐるみになった童貞をコレクションするのが、一部の女性の間でブームになっていると、ネットニュースで見た事があった。どうしてもっと早く、その事を思い出さなかったんだ?


「ブーちゃん。いや、違うな、ぶぅ。君の名前はぶぅだ! クマのぶぅちゃん、さぁ、新しいお家に帰りましょうねー」


 女は俺の体をぎゅっと胸に抱き、軽やかな足取りで公園を後にした。


 触った事もなかった女の胸元に、俺は今、顔をうずめている。


 それはとても、柔らかくて、あったかかった。


 了

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