いぬぐまくん

常陸乃ひかる

いぬぐま

『――今朝、市内の用水路で女児が倒れているのが発見されました。女児は意識不明で病院に搬送されましたが、命に別状はありませんでした。発見時はパジャマ姿で、犬のぬいぐるみを抱いていました。警察によると現場は人通りが少なく、用水路にはさくがなく、事故と事件の両面から捜査を進めています』


 女がある。

 名をアンドウと言い、数ヶ月前にスマートシティへ越してきた二十――んっっ、っ歳のお姉さんである。身長は一五〇センチに届かないが、である。

 ともあれ彼女は自宅にこもり、たまにライターの仕事をしている以外は、黒いボブを揺らしながら外をふらつく自由人だ。本日は、仕事の合間に流した地域ニュースを聞き、わずかに気重きおもな昼を過ごしていた。

「ふぁぁ……ニュース止めて」

 アンドウは眠い目をこすりながらスマートスピーカーへ言い放つと、ルームウェアを脱ぎ捨てた。これはカフェインが不足している合図でもある。

 そうしてベッドの上でくたくたになっていたブラウス、ロングスカートを合わせ、申し訳程度のカーディガンを引っかけると、玄関のドアを開けた。

 彼女が住むマンションの近くには、図書空間を兼ねた『喫茶EC』というカフェがある。住宅街でひっそりと営業しており、近隣住民のみならず、本好きや物書きが集まる交流の場だ。


 本日も『OPEN』が掛かった民家の引戸をり、スニーカーからスリッパへ履き替え、慣れた様子で広縁ひろえんの奥に向かう。突当たりの扉を開けると、本棚に囲まれたカフェ空間が広がっている。

 先客は三人。奥の席では女性客が談笑しており、ひとつ離して真ん中の席では、若い男がラップトップをカタカタと鳴らしていた。

「いらっしゃいませ。あぁ、こんにちはアンドウさん」

「どうも。えーとエニグマを、冷たいので」

 マスターと軽い挨拶を交わし、窓辺の席に座ったアンドウは、おススメと謳われている、『エニグマティック・ブレンド』を注文し、カーディガンを脱いだ。

「少々お待ちください」

 ちなみに、エニグマティックがなにかは教えてくれない。


 紙の匂い。

 読みたい本はなかったが、スマートフォンをいじるだけの現代人にはなりたくなくて、アンドウはすっと立ち上がり、平置ひらおきされた新書に目を落とした。そこには、魚を咥えた犬のぬいぐるみがポツンと立っていた。黒い体と、白い頭部――はて、先週は居なかったはずだが。

 漢字の『八』のような目をしたぬいぐるみから視線を逸らし、色彩に富んだ背表紙を目で追ってゆく。そんな中、


【かんたん・犯罪心理学】


 穏やかではない題名が心に焼きつくのは、先ほどのニュースに意識が引っ張られているからだろう。『かんたん』とは大層な題名である。

「――犯罪にご興味が?」

 どうやら、視界も思考も狭くなっていたようだ。すぐ横には、オーダーした品をお盆に乗せたマスターが、冗談めいて目尻にシワを作っていた。マスクの下の表情を感じ取ったアンドウは、

「っ……どの時代、どの地域でも事件は起きるものさ。ゆえに人は犯罪に怯えつつ、心のどこかでは惹かれているのかもね」

 苦し紛れの一笑を浮かべたあと、窓辺の席に戻った。

 テーブルに、グラスと木製カトラリーケースが置かれると、「いただきます」と起床からなにも口にしていない体へ、冷たいカフェインを流しこむ。

 ほどなくガムシロップやコーヒークリームの下にストローが埋もれているのを発見し、申し訳程度にグラスへ挿しておいた。


 カフェインを摂取しているというのに、眠気の波状攻撃は消えなかった。原因は単純で、昨夜寝るのが遅かったから。黒目がちの両眼が半開きになっている最中、

「あ、でもお、かわいそうっ……で、ですよね……?」

 眠気を遮ってきたのは、真横からの力ない男声だった。

「よ、用水路で発見された女の子……。ひ、ひどい……ですよね、乱暴するなんて。オレは……子供が好きだから、か、かわいそう、と思うんですよね……」

 赤いメガネをかけた珍妙な指向性スピーカーは、明らかにアンドウのほうへ出力している。無視――はしにくいので、

「え? あ、確かに……そうかもね。ふふっ」

 顔を向けたあと、レアキャラと遭遇してしまった今日という昼に、軽く目を瞑った。様々なモヤモヤをかき回しながら、

「しかし、なぜ乱暴されたと? しかも開口一番でその話題とは」

 開眼したアンドウは二速、三速、と徐々に調子を戻していった。自分には無関係のニュースだとしても、言及せずにはいられなかったのだ。

「え? ち、あ……ち、違いますよね……! お、お昼のニュースで言ってたんですよ! 本当……ですよね、マスターぁ!」

「ははっ、大丈夫。疑っていませんよヤミさん」

 ふたりのやり取りを見ながら、アンドウは伏し目がちにストローを咥え、右手のスマートフォンを操作した。確かにニュースサイトのトップには、

【用水路で見つかった女児、体に複数のアザ】

 として、この町が大きく取り上げられている。

「これは失礼。うちのスマートスピーカーのニュースが更新されていなかったみたいだ。あぁ、私はアンドウです」

「あ、あの……オレ、ヤミって言うんですよね。あのでは、執筆にもどりますねえ」

 ヤミと名乗った男は、ぺこぺこと頭を上下させながら、ワイヤレスイヤホンで耳をふさぐと、ふたたび自己陶酔の深層へと潜ってしまった。


「執筆?」

「あぁ、彼は作家さんですよ。尾張乃おわりのヤミさん。ネットでは割と名が知れています。でも最近スランプみたいで、うちに来店してはこうして作業を」

 アンドウの疑念に対し、欲しい答えがすぐに返ってきた。「ふうん」と相槌を打ち、赤メガネの彼をわずかに観察する。見た目は若く、二十代前半だろうか。

 尾張乃ヤミ、スペース、小説。エンター。


 【尾張乃ヤミ@執筆中ですよね】

  はじめまして、尾張乃ヤミですよ。

  35歳はオジサンですよね。

  それでも、がんばってるんですよねえー。


「ぷっ……」

 アンドウは検索に引っかかったSNSのプロフィールを閲覧し、咄嗟にうつむいた。

 大学生としか思えない童顔と、あの口癖が文言に現れているのを交互に想像すると、もう笑いをこらえられなかったのだ。にやける顔を隠しながら端末をテーブルにそっと置き、話しかけてほしそうなマスターに目を向けた。

「しかし痛ましい事件だね」

「アンドウさんも見た目が若いですから気をつけて」

「さすがに女児には見えないだろう? ふふっ」

「一四〇センチ代の小学生はたくさん居ますよ」

「まるで擁護されていないな。ま、いざって時のために護身用はしているさ」

 町には防犯カメラが各所に設置されているのだから、事件はすぐに解決するだろう。それまで住民ができるのは自衛だけである。


 グラスの氷が、わずかに体勢を変えた。よいしょカラン

「それはそうとマスター。なんだい、その……白黒犬は」

「あ、気づきました? それはうちのマスコット、『いぬぐま』ですよ」

 マスターにツッコミを入れるのも、そろそろ疲れてきた。果たして犬なのか、熊なのか、それともエニグマにかけているのか。熊の体に、犬の頭、鮭を咥えているフォルムは、まるで木彫りのアレである。

「でも、異次元の発注ミスが起きて……二個頼んだら、二十個も送られてきちゃったんです」

「異次元つけりゃあ良いってもんじゃない」

「業者の不手際だったので、返品は不要、代金も二個分で良いと言われたのが幸いでした。子連れのお客さんには差し上げたんですが、まだ裏に十個以上も――」

「あ、嫌な予感……」

「そうだ! アンドウさんも一個いかがです?」

「言うと思ったよ! 不要品を増やさないでくれないかな」

「こんなに可愛い子たちを可燃ゴミにするんですか? ほら、僕たちを捨てないでって言ってますよ?」

 捨てるのはマスターの役目なのだが。

 なにより、垂れに垂れた両眼が可愛くないのだ。『・・』のように点をふたつ並べただけのほうが、よほど愛嬌がある。マスターのセンスがズレているのは言うまでもないが、もう少し――

「ちなみに、いぬぐまくんには隠し機能があるんですよ」

「隠す必要性とは? もう……わかったよ、ひとまず頂戴しておくよ」

 隠し機能を考案するより、この喫茶店をもっと繁盛させるアイディアを考えたほうが良い気がするが。


 ――陽が徐々に沈み始め、「さて」と一区切り。

 喉は潤い、体に活力が戻ったところで、アンドウは先客に挨拶し、マスターへ「ご馳走様」と勘定の合図を送った。

「またいらっしゃってくださいね」

 外気を吸いながら、いぬぐまを持った右手を振り、住宅地から離れる。ふと、薫風の香りに誘われ、このままブラブラするのも悪くないと思えた。

 ネックなのは、今日から同居が決まった右手の相棒だ。二十――ゴニョゴニョ歳の女が、ぬいぐるみを持って徘徊しているのも、立派な通報案件である。

 アンドウは諦めの境地で、河川に沿って歩いた。ほどなく、人気ひとけのない広場が見えてきたので一脚のベンチに座った。

「しかし君は可愛くないな。あ、隠し機能聞き忘れた」

 いぬぐまから目線を正面に移す。日光と河川とのコラボレーションは、競技場の観客席でストロボが焚かれ続けているのと同じくらい賑やかである。陽が落ちれば、この辺もかなり暗くなるのだろう。

「ふぁぁ……」

 アンドウは、重くなるまぶたに抗えなくなっていた。自分の意思とは裏腹に意識が遠のいてゆく。カフェインブースターも虚しく、いぬぐまを両手で握ったまま、舟をこぎ始め――


 どれほど寝ていたのだろうか? 目を開くと、町がだいぶ暗くなっていた。

「ん……?」

 すぐにそれは誤解だと悟った。

 圧迫感を覚えてその場を見上げると、太陽を遮る黒い影がアンドウの前にそびえていたのだ。ビルが建設されるほど、長く眠っていたのではない。アンドウを見下ろしていたのは、見た目が四十ほどの見知らぬ男だった。

 髪は薄く、ゲジゲジの眉毛、虚ろな両眼、潰れた鼻からはみ出た数本の鼻毛、厚い唇、吹き出物だらけの肌――な情報量が多すぎる。

 またインナーウェアはよれていて、スエットパンツの股間部分には妙なシミが大量に付着している。あと、当然ながら体型は肥満である。

 そいつが道を塞ぐようにニヤニヤし、執拗に腕を触っていたのだから、アンドウの本能が、ただ純粋に『逃げろ!』と訴えるのも至当だった。

「ふふっ」

 彼女にはまだ、笑みを浮かべる余裕があった。

「んんっぬふふ……」

 が、返答に対してはアラジックが発症しそうだった。

 咄嗟にアンドウは息を吸いながら両足を浮かせると、両手と尻に重心を置き、腹筋に力を入れ、息を止めた。ほどなく浮かせた両足を正面に突き出し、

「うぇ……!」

 見事、不意打ちの蹴りを男の腹部に突き刺した。

 が、ブヨブヨした脂肪によって、攻撃力が半減しているのは明瞭だった。男の手が離れた隙にベンチから下り、アンドウはその場から逃走した。怯む様子はあったが、男はアンドウを追いかけてくる。


「いだいいよう! うっ……う、うごくなよお! あさ、ぼくはみたテレビが、ぬいぐるみがぁ、ちっつゃいおんなのこうつってて、そして、おひるねて、ぼくはいそいでテレビでみたけどお、いながったからあ! だからーぁ!」

 叫んでいる。

「ちっちゃおんなのこ! かわいいのに、なんでえ!」

 そのを理解するには、心理学を専攻したほうが良さそうだ。

 喫茶で目に留まった本を熟読しておけば良かっただろうか。

「馬鹿かよ! 私は大人だ!」

「バカはおまえ! ぼくはおとな! にじゅうな、なななさいだからおとなぁ!」

「あっ、私のほうが年上……」

 歳の話は置いておいて、問題はコモンセンスが通じない人間に襲われている状況だ。体格に差がありすぎて、力では絶対に敵わないし、困ったことに人気もない。防犯カメラはたくさんあるのに、肝心の人間が居ないのだ。

 けれど男は、どこまでも追ってくる。オートロックの賃貸とはいえ、特定されたら終わりだ。なにかぶつけて怯ませられれば、少しは引き離せそうだが――付近に石は転がっていない。

 アンドウは即座に所持品を確認した。

 背中のショルダーポーチは個人情報だらけなので却下。残るは右手の――

「よし、いぬぐま! キミに決めた!」

 アンドウは急ブレーキをかけ、オーバースローの構えから、マスターの贈物を追手へ投げつけた。全力疾走する巨体に回避スキルがあるわけがなく、見事にぬいぐるみは男の顔面に直撃した。

 同時に、防犯ブザー同様の大きな音が鳴り響いたではないか。

「あれは……隠し機能!」

 マスターが匂わせていた『隠し機能』は、防犯装置だったようだ。これで形勢は一気に逆転である。すぐに人が集まってくるだろう。

 と、少しでも希望を抱いたアンドウが甘かった。男は怯むどころか、その音に興奮し、より速度を上げて突っこんできたのだ。一度足を止めてしまったアンドウと加速する男とでは、差は縮まるばかりで、後ろから襟を引っ張られると、その場に押し倒された。

「ぐぇ……」

 背中を強打し、重い体に押しつぶされ、身動きが取れなくなった。どうにか打撃を加えてみるが、逆に殴り返される始末。

「かわいぃぐないぃ! オマエもぬいぐるみも! みんなぁ同じい!」

「やめろ! 離せ! や、やばっ……」

 ロングカートをめくられ、ごつごつした両手が、ふくらはぎ、ひかがみ、太ももへと上がってくる。この男に女性経験がないのは明白だが、厄介なのは本能的に性の知識を持っているということだ。異性の扱い方なんて知るわけがなく、胸を揉み、性器に指を入れるだけで悦ぶと思っているのだから、女の心身を壊す結果なんて目に見えている。

 アンドウは今まで修羅場をくぐってきたつもりだったが、自我の曖昧な人間に乱暴を受け、抵抗の意思がなくなるまでのプロセスを味わっていた。息を整えるだけでも必死で、次に起こすべきアクションさえ見失ってしまう。


「――なにしてんの! ちょっとアンタ!」

 そんな絶体絶命の状況。突如、遠くから聞こえたのは年増の女の声で、ヒールを鳴らして近寄ってきた。それに合わせて男の動きが止まり、アンドウの足首を鷲づかみにしている手から、力が抜けていった。

 助かったのだろうか?

「アオイちゃん! そんな女に触っちゃダメでしょ!」

「ま、あ、ままあま……ママぁ!」

 違う。おそらく状況は悪化している。それも信じられないほどに。

「アオイちゃんになにしてくれたの! このクソ女!」

 防犯ブザーを凌ぐほどの不協和音。ほどなく、女の手によってぬいぐるみは川に投げ捨てられ、いぬぐまアラートは完全に沈黙してしまった。 

 もはや鳥肌しか感じられない。それでもアンドウは、両手をついて起き上がろうとした。が、そのイカれた母親は、誤った憎しみによって、アンドウの脇腹を蹴りつけてきたのだ。

 ふたたび地面に寝転がってしまい、シャープな鈍痛が、自分が発した肉声さえ忘れさせようとする。


 しかし、なんて仲睦ましい親子だろう。病気の息子を野放しにし、被害者であるアンドウに罪をなすりつけようとするなんて、反吐が出るほどの親子愛だ。

「まだ……」

 辛うじて体は動く。

 スマートフォンさえ取り出せれば、まだ助かる道はあると信じていた。アンドウは体をわずかに浮かせ、背中のポーチを前面へ持ってくるとファスナーを開けた。 

「わたくしの! アオイちゃんに! このメスブタが!」

 暴言のたびに力んでゆく語尾。その語尾がなくなるよりも先に、アンドウの体に突き立てられる鋭利なヒール。バックグラウンドでは、「ママ、ママ」と粗悪品のオモチャが延々とリピートしている。

 ここには地獄があった。そんな深淵の果てに――スマートフォンが転がった。半開きになっていたショルダーポーチから滑り落ちたのだ。

「あぁ! アンタのスマホね! ちょっとロック解除しなさい!」

 震える手を伸ばそうとしたが、その母親は不躾にもアンドウの端末を手に取り、無理やり指紋認証させてこようとするのだ。大方、個人情報を盗むつもりだろう。が、アンドウはほくそ笑んでいた。力ない満面の笑顔だった。

「ふふっ……わ、私のロック解除は……ちょっとキツイよ?」

 アンドウは力を振り絞り、スマートフォンを女の体に押し当てると、カバーの側面についているスイッチを入れた。その瞬間、断末魔の悲鳴を上げて、母親が地面に転がった。幾度と起き上がろうと試みるが、それは叶わず、ただ小刻みに痙攣けいれんしている。


「ふふっ、痺れるほど気に入ってくれたみたいだね……私のスタンガン」

 スマホカバー型のスタンガン。それこそが、アンドウが何年も携帯している護身用である。これまで右手で数えるほどしか使ってこなかったが、今回もしっかり役に立ってくれた。

 一方、事態を理解できず、倒れた母親にしがみついて、泣き喚いている男が見るに堪えなくて、その背中にも同じように高電圧を与えてやると、フタをするように覆いかぶさった。

「親子仲良く寝てなよ。このマザー〇ァッカーが」

 あと十歳も若かったら余計に二、三発食らわせ、ふたりの悲鳴をオカズに愉悦の底へと浸っていたところだが、状況が状況である。まずは人が居るところまで――

 アンドウはうつむき、おぼつかない足取りで安全な場所を目指した。復活したアイツらが、いつ襲ってくるかわかったものではない。


「――あ……あ、アンドウさん! だ、だ……大丈夫ですかねえ?」

 今度は何事か? 身構えるよりも早く、アンドウは駆け寄ってきた男に支えられていた。静かに顔を上げると、赤フレームをかけた男が眉をしかめていた。

「あぁ、君は……」

 その存在は、さきほど喫茶店で別れた尾張乃ヤミだった。リュックを背負った彼は、右手に例のぬいぐるみを持っていた。この男も断りきれなかったようだ。

「え、エニグマを出て散歩してたら、大きなブザーが聞こえたんですよね。そ、それで、見にきたらアンドウさんが、あそこのふたりを倒してたんですよねえ」

「フィニッシュブローだけ見てたのか。もっと早く来てほしかった……」

 小さな愚痴と、大きな感謝。アンドウは安堵を隠しながら一一〇番をタップし、人通りを目指しながら全容を話した。同時にそれはヤミへの説明にもなった。

「ご、ごめんなさ……でもオレ、弱いですから、役に立たないんですよねえ」

 通話を終えると、まずヤミが謝罪してきた。変な奴だが、律儀な男である。

「良いさ、別に責めてないから。しかし、なんで私を狙うんだよ……いてて」

「あ、あ……アンドウさん、後ろ姿は小学生ですよねえ。で、でも……か、体を張ってくれたお陰で、子供たちが守られたんですよねえ! ヒーローですよね!」

「うるさいよ! ツッコミも疲れてきたよ……」

 一喝に対してびくりと肩をすくめたヤミは、リュックを前面で抱えると、そっと膝をついて、背中を差し出してきた。

「まさか、おんぶ? 私は大人だっての。ひとりで歩ける――」

「顔を伏せてれば恥ずかしくないんですよねえ」

「……まったく。っ、ありがと」

 執筆ばかりしていて運動不足だろうに、ヤミは息を切らしながらも、喫茶ECまで運んでくれた。ひとまずセーフルームに到着である。


「――念のため救急車を呼びました。ちゃんと診てもらってください」

 事情を知ったマスターの手際は早かった。

「別に良いってのに。しかし犯人が、女児とぬいぐるみに興奮する紳士とは」

 アンドウはそれを厚意と捉え、強く拒否はしなかった。

「あなたを襲った犯人は、おそらく突発的なものかと思います。その母親の動機は不明ですが、二十年も甘やかしていたのなら……激情でしょう」

 マスターは、あごに手を当てて考える素振りをした。

「え、私を襲った犯人? 今朝やっていた女児の事件とは別件なのかい?」

 アンドウが含みのある言葉に疑問を呈すると、

「はいぃ……さっきニュースで、用水路で発見された女児の両親が逮捕されたって。なんでも、供述に不審な点が多かったので警察が問い詰めたら、父親が簡単に自白したそうですよねえ」

 ヤミがすらすらと事件の真相を語ってくれた。

「昨晩。なかなか寝ないという理由で、自宅から離れた場所に我が子を放置したそうです。女の子はなんとか家に帰ろうとしたんですが、暗闇ですからね……道に迷い、用水路に落ちてしまったみたいで」

「母親は、『アレは躾のつもりでやった』と、今でも否認してるみたいですねえ」

「つまり、その子は恐怖を紛らわせるために一晩中ぬいぐるみを抱いていたのか。酷すぎるな……。じゃあ体のアザってまさか――」

「おそらく日常的だったんでしょうねえ。胸が痛いですよね……」

 同時に複数の溜息が生まれた。ふたつの事件の犯人が捕まるというのに、後味が悪すぎる。マスターは神妙な面持ちで奥へと消えてしまった。


「で、でもやっぱり! ネットワーク化された町では、すぐに犯人が逮捕されるんですよね! 悪いことはできませんから、安心して暮らせますよねえ!」

「こちとら事後なんだが……」

「あぁあ、ごめんなさい! 違うんですよねえ……その……今度、町を歩く時はオレに声をかけてくれれば、安心なんですよね! きっと、お役に立てますよねえ?」

「じゃあ、おんぶ以外で頼むよ?」

 どれだけ便利な町になったとしても、犯罪は絶対になくならない。社会がある以上、人間の心は闇に染まり続けるという、身を呈した社会勉強だった。

 ほどなくマスターが戻ってくると、

「アンドウさん、コレは流されてしまった子の代わりです。大事にしてください」

 満面の笑顔で、例のぬいぐるみを差し出してきた。

「病室の窓からいぬぐまコイツ投げ捨てておくよ」

 受取りざま、アンドウは相変わらずの悪態をついた。

「そ、それ……不法投棄で捕まりますよね? とっぽいですね」

「尾張乃くん? 喉奥まで、いぬぐまくん突っこんであげようか? ふふっ」

「ひぇ……。口の中でブザーが鳴っちゃいますよねえ……」

 ヤミの怯えた声に被さるように、救急車のサイレンが聞こえてきた。

「さて。慰謝料請求について調べておくか」


                                  了

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