その本屋は【KAC2023】

凍龍(とうりゅう)

その本屋は……

 その本屋は、オフィス街と歓楽街の境目、人通りのない裏通りにあった。

 私は徹夜明けのはっきりしない頭をブンブンと振り、突然目の前にあらわれたようなそのたたずまいに首をひねる。


「こんな所に本屋なんてあったっけ?」


 だが、いくら考えても思い出せない。

 この裏通りは怪しげな飲み屋や風俗店がいくつも軒を連ねている。夕方から深夜にかけてはアルコールと香水の匂いが充満し、客を引く女性達の声がこだまする。が、夜明けも近いこの時間は人影も絶え、店先に山積みにされたゴミ袋から漂う残飯の匂いと、それを狙って集まるカラスの鳴き声が響くばかり。

 私だって普通の精神状態ならこんな不気味な通りに足を踏み入れることはしない。だが、長時間の残業で疲れ果て、一刻も早く部屋に戻りたい日には半分目をつぶりながら駆け抜けることがある。この通りは最寄り駅への近道にあたり、ここを抜けさえすれば睡眠時間が十数分よけいに確保できるからだ。


「でも……」


 こんな場末に二十四時間営業の本屋があったところで、一体誰が利用するというのだろう。不思議に思った私は、つい、吸い込まれるようにドアを押していた。


「いらっしゃいませ」


 カウンターに座っていたのはしわくちゃの老婆だった。

 まるで魔女のような真っ黒な服を着て、首に下げているネックレスもずいぶん時代物のようだ。


「あの、ここは本屋……ですよね?」


 店内を見回しながら私はたずねる。だが、普通の本屋にあるような新刊の積まれた平台はなく、雑誌の表紙が前を向けられているマガジンラックもない。まるで図書館のように、ただずらりと本棚が並んでいるばかりだった。


「ああ、ここはあんたみたいな疲れた人間向きの本屋なんだよ」


 老婆はしわがれた声で答えた。


「疲れた? どういう意味でしょう? それにここにはハードカバーの本しかないみたいですが?」

「ああ、ウチにあるのはすべて物語さ。ありとあらゆる舞台で主人公が活躍する、胸のすくようなストーリーばかり」

「でも……それがどうして私みたいな人間に向いていると?」

「フフフ。あんた、今の生活に満足してるかい?」

「え!?」

「ここにある本を読めば、あんたはその物語の主人公になれる。これらはそういう不思議な本なんだ」


 老婆の声は聞き取りにくい。だが、話の内容に私はいつしか引き込まれていた。


「それって、私が物語の中に入れるってことですか?」

「ああ、ここにある本は、全て読み手がヒーローやヒロインになれる。くそったれなこの世界を離れ、わくわくするような異世界への道を開く。言ってしまえば異世界への扉なんだよ」


 徹夜明けの頭で正常な判断能力を失っていたのかもしれない。私はその話を聞いて即座に声を上げた。


「買います! 異世界で大活躍できて、最後にはイケメンの王子と結ばれるような冒険譚、ないですか!?」


 老婆はカウンターから出てくると、曲がった腰を叩きながらある本棚の前で立ち止まった。そこから真っ白な表紙の分厚い本を抜き出して私に差し出す。


「これなんか、どうかね? 主人公は世界最高の大魔法使い。王家の依頼を受けて魔族を倒し、凱旋の末に王子と結ばれて——」

「はい! それで。おいくらですか?」


 老婆は指を三本立てた。


「三万円」

「は!? そ、ずいぶん高くないですか?」

「そりゃそうさ。あんたのために世界を一つ用意するようなもんだ。このくらいで済むのは奇跡みたいなもんだよ」


 私は悩んだ末に財布から一万円札を三枚取り出した。昼休みにATMで下ろしたばかりだった。


「いいのかえ?」

「ええ、それで物語のヒロインになれるのなら。どうせ使う暇もないお金ですから」


 老婆は頷くと、私の手から札を抜き取って、空いた手に本をのせた。見かけよりずっしりした手応えだった。


「開いてみても?」

「ああ」


 老婆はニヤリと笑いながら大きく頷いた。

 私は異世界での冒険への期待に胸をふくらませながら表紙に手を掛けた。ページの隙間からまばゆい光が溢れ、次の瞬間、私は意識を失った。




「さてさて、この本はナカナカ面白い話になりそうじゃ」


 老婆は床に落ちた本を拾い上げると、いつの間にか青く変わった表紙を撫で、元あった本棚の隙間にするりと戻した。


「あんたみたいな疲れた人間のおかげで、ウチの品揃えはますます充実するわい」


 老婆は口角を吊り上げると、カウンターに戻って手にした万札をレジにしまいこんでヒヒヒと不気味な笑い声を上げた。


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その本屋は【KAC2023】 凍龍(とうりゅう) @freezing-dragon

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