わたしのためにあった本屋

鈴谷凌

継承

 学校帰りの11月。いつものように、とある商店街の古本屋で暇を潰していたときのことだ。


「これ、またこやつは立ち読みしよって」


 目を向けていた活字の羅列に、茶色いはたきがぱたぱたと覆いかぶさる。

 わたしに向けられたいつもの攻撃。煩わしく、溜息一つ。


「店長、見えないです」


「見えなくしてやってるのじゃから、当然じゃろう」


 儚げな白髪に、皺の深い顔は、その老い先の短さを感じさせる。

 けれど、しわがれていながらもよく通る声や、やけに鋭い双眸からは「まだまだ現役」といった感を想起させ。


 手にしていた本を戻して、向き直る。わたし以外の客を知らない古本屋、その店主であるおじいさんだ。

 こうして並び立つと、背はわたしよりも低い。中学校では下から数えたほうが早いわたしも、ここでは少し優越感を覚える。


 ちょっとした高揚感のまま数歩行き、また陳列された本に手を伸ばそうとしたけど。


「莫迦、それはないじゃろう! 儂の考えが分かっておらんのか!?」


 先んじて手をはたかれ、失敗。動きも俊敏、やはり侮ってはいけない相手だ。


「まったく。制服も着崩さず、化粧も奇抜な髪形をするでもない。ほんに真面目な子だと思っておったのに。とんでもない悪ガキじゃったわい」


「……学校の話はやめてください」


 嘘にまみれた虚構を求め、足繁くここに通っているというのに。そんな言葉に現実に戻してくれるな。

 しかしいくら睨んでみても、おじいさんの気勢は削がれない。着けている眼鏡のせいかも。


「いんや、これは罰じゃ。いつもいつも好き放題しておるお前さんを懲らしめてやる」


「別にいいじゃないですか。わたしの他にお客さんなんていませんし、この店も道楽でやっているんでしょ?」


「よくないわ。それに一冊も本を買わないお前さんに、何冊ここの本が読破されたことか。うちを図書館だとでも思っておるのか?」


 何冊だったか。数え切れない。

 おじいさんの趣味がいいのか、ここにはわたしの琴線に触れる書籍が実に多かった。ファンタジー、SF、ミステリー。どれもわたしを酔わせてくれるもの。


 罰というのは癪だが、少しは礼を返すのは悪くない。


「中学校に通い始めてもうすぐ三年ですけど、わたしはついぞ、クラスメートに馴染めませんでした。なんというか、ノリ? みたいなのが合わなくて」


 それで、気付けばここに通って一年。よくある逃避だ。物語としては意外性に欠け、人に聞かせるにはあまりに退屈なことだ。

 目も合わせず、店を物色しながら、わたしは代価を支払う。


「ほう……なるほど。つまりは、あれじゃな! なんというか、陰キャ? みたいなことじゃな」


 この、ジジイが。

 弾かれるようにその方を向けば、老いぼれのしたり顔。


「なんじゃ? 否定したくなったか? それとも誤解を解くつもりか? まあなんにせよ立ち話もあれじゃから、するならレジの方に来るといい。椅子もあるからな」


 分かっていた。おじいさんがわざと煽っていることくらい。大方、わたしを可哀想だと思って手を差し伸べたつもりなのだろうと。

 その上で、だ。全てを察してなお、わたしはその誘いに乗った。世話焼きには世話を焼かせてやろうというわけだ。



 つまらない話を、一つ一つ並べるように語った。

 入学当初、ただ好きだという理由で勉強と読書に耽っていたら、教室では話し相手すらいなくなっていたこと。虐めとかでは断じてないが、とにかく周囲の輪から外れていたことを。


 教師から見たわたしは、学業の面においては非常に真面目な生徒で、余計な口出しを挟むことはなかったこと。

 親も、成績表の数字を見せさえすれば、何も問題はないと見做した。


 無味乾燥だと思った。満ちていなければならないものが欠けている感覚があった。このままでは、未来がないようにも思えて。

 どうにかして、埋めようとしたけど、方法すら分からない。


 自分が馬鹿らしくなって、勉強に励むのをやめてみた。授業も、時々サボった。そうすれば、間違っているわたしを誰かが掬い上げてくれるのではないかと、身勝手な願いを抱きもした。


「まあ結果は大して変わらず、ですけどね。普段の行いが良かったせいか、受験にだけ集中していれば、特に周りから咎められることもなさそうです」


 おじいさんは難しい顔をしていた。話に退屈したのか、くだらないことで悩んでいると失望したか。分からない。少し、怖くなった。


「……ふう」


 長い沈黙の後。吐息には優しさが、皺だらけの顔には温かさが混じっていた。


「小童のくせに、変に達観しおって……」


「おじいさん?」


「待っておれ」


 奥の方に行くおじいさん。座った姿勢からだと、その折れた腰と頼りない足取りがはっきりと見て取れる。

 戻ってきたその手には、幾つかの本。


「お前さんは将来、何をしたいと願う?」


 突拍子もない質問。いや、それよりもその本は、なんて質問はどうやら認めてもらえないらしい。

 代わりに使い古した言葉を口にする。そんなものはない、と。


「じゃから、この時期になっても、こんな寂れた本屋に好き好んで通っているという訳か」


 寂れたって、自分で言うんだ。益体のない思考が脳裏を掠める。

 けれどおじいさんに訊ねられた真意の方が、今のわたしにとってはよっぽど重要で。


「……そんなことまで、おじいさんに心配される謂れはありません」


 事実、受験勉強なるものはほとんどしていない。周りには、あくまでポーズだけを見せている。

 空いた時間で色々と思うことがあった。このままでいいのか。勉強さえしていればいいのか。これまでは満足していたけれど、ならばいま感じている不安は何だろう。教室内で浮いている自分に対し、どうしようもなく欠けていると思うのは何故だろう。


 正しさとは、間違いとは。価値とは何だろう。生きる価値だ。現状を変えようと努力するだけの価値だ。

 そんなことをうだうだと考えてばかりで、時間だけが意味もなく過ぎ去っているように感じて。


 残ったのは、虚構と非現実の物語のみだった。


「それで、答えは得られたのか?」


 言葉が突き刺さる。最悪だった。もう帰ってしまいたい。立ち上がろうとするわたしを、おじいさんは片手で制す。

 違う。もっと正確に言うと、手に携えた本で以て。


「ああ……そういえば、これは?」


「哲学について書かれた書籍じゃ。そしてこっちはその他学術書……あるいは教養小説じゃったり。どれも奥に仕舞っていたものじゃよ」


 おじいさんはようやく持ってきた本の説明をしたかと思いきや、いきなりそれを全て纏めてわたしに押し付けてきた。十は優に超える。


「お前さんにやろう」


「は、なんで」


「勉強が足りていないと思ったのでな」


「勉強が?」


 足りていない、欠けているとは思っていたが。おじいさんの言葉は冗談にしか聞こえなかった。

 よりによって、勉強とは。既にあの箱庭においては、頂上に上り詰めるまで励んだつもりだったのだが。


 そんなわたしの怪訝を見透かしたように、おじいさんが笑う。


「夢の世界に思いを馳せるのも悪くないが、少しは現実世界を広げるための勉強もせい。お前さんの本の好みを一年近く見ておったが……逃避したい気持ちが先行し過ぎて視野が狭くなっておるぞ」


 そんなことは、と口に出かけた言葉を飲み込んで。整理してみる。確かにいつも決まって読んでいたのは、ファンタジーなら王道で、SFなら宇宙を冒険する話。そこに見せてくれる高揚感にすっかり身を預けて、これといって物語を深く考察しようと思ったこともない。


 所詮は、逃避に過ぎなかった。


「儂はお前さんがどんな選択をしようが正直どうでもいいんじゃが。たまには違った本を、違った読み方で読んでみなさい。お前さんのようなモンが、全て決めつけてる風な態度をとるのは気に食わん」


「は、はあ……」


 いちおう、わたしの悩みに対するおじいさんなりの解答ということなのだろうか。

 言い方は少し癪に障ったが、厚意は素直に嬉しく思った。誰かに窘められたことも、無理やり物を押し付けられたことも、わたしには一度もなかったから。


「あと、受験もしっかり出来るだけ力を入れるように。無理そうならその本たちを見て考えればいい。お前さんのようなものが、この時期こんなところに入り浸ってはよくない」


「……本当はこれ以上立ち読みされたくないんじゃ」


「うおっほん……!」


 不思議な気持ちだった。霧だらけの森で迷っていたところに、そっと光がもたらされたような感覚。

 どこへ続くかは分からないが、今はこの道を歩いてみようと思えた。


「でも貰ってばかりは悪いので、次来るときはバイトでもして自分のお金で本を買おうと思います」


「……いらん。真面目ぶるな、このサボり魔め」


 そちらこそ、一人きりでこんな誰も来ない本屋をやってるくせに。心で悪態を吐きながら、わたしは帰り道を行った。


 しかし、後になってわたしは、最後まで可愛げのないままだったことを反省し、受験が終わった後で改めてここを訪ねようと誓った。



 受験を終えた3月。わたしは再びあの古本屋に足を運んだ。


 おじいさんに話したい吉報が二つあった。

 一つは、第一志望の高校に合格したこと。それまで出遅れていた分、かなり瀬戸際に立たされていたように思うが、どうにか勉強する習慣を取り戻して励むことができた。


 もう一つは、おじいさんからもらった本のこと。どれも、面白かった。

 書かれていた考え、論理、あるいは数式に多くのことに可能性を感じた。誰かに与えられない勉強がこれほど楽しいものだとは思わなかった。

 物語の人物の成長に、自分を重ねる日が来ようとは今まで到底信じられなかった。物に宿る価値というのは最初から定まっているものではなく、それを生み出すのは自分次第なのだと気付けた。


 無理に他人に迎合する必要はなく、過度に他人の期待に惑わされる必要もない。

 おじいさんのお節介がきっかけで、自分の中に明確な芯が通ったのをはっきりと感じた。


 だからせめて、返礼を。あの態度を思うと少し気が進まなくなるけど、わたしの足は思いのほか軽やか。

 最寄駅から幾つか離れた先の商店街に着き、奥にある古本屋へと歩を進めて。


「え……」


 目的地、足が止まった。

 降りている鈍色のシャッターに、ちゃちな紙切れが張り付く。

 閉店の、お知らせ。そこまでしか、文字を読みとることができなかった。


「あのう……大丈夫かい」


 真っ白になった頭で振り向く。腰を曲げた姿が彼と重なるが、違う。相手は杖をついたおばあさん。心配そうにこちらを見下ろしている。


「あれ……」


 互いの背を考えれば、本来わたしが見下ろす格好になるはず。そこでようやく、わたしはその場に蹲ってしまっていたことを自覚する。

 ますます心配そうに眉を歪めるおばあさんに、わたしは懸命に言葉を取り繕う。


「えっと、ここ、閉店で、びっくりして……」


「ああ……そうだったのかい。あなたが、彼の言っていたお嬢さんだったのね」


 おじいさんとこの店を知っている素振りに驚く。そんなわたしを見かねて、おばあさんは話でもしようかと訊ねる。向こうを指し示しながら。その先には確か公園があったと記憶している。

 けれど。


「……すみません、ちょっと、動ける気分じゃなくて」


 ここから離れたくはなかった。何か嫌な予感がする。とにかく、ここを離れたくない。


「あいよ……っと」


 おばあさんはわたしの隣にハンカチを敷くと、器用にそこに座った。ああ、足が悪かろうに、無理をさせてしまったなと反省。

 というよりも、そこまで親身になってくれることに驚いた。


「あなたは……?」


「私は向こうの方で古着屋をやっている松井です。古本屋の久瀬さんとは知り合いでねぇ」


 わたしは手早く自己紹介を返して、急いで知りたいことを問う。焦っても結末は変わらないように思えたが、それでも。


「……どうしても、知りたいのかい? きったあなたにとっては辛い話になってしまう」


 それでも。嫌な予感を跳ね除けたい一心で頷いた。


「……亡くなったよ。ずっと癌を抱えていてね、三か月前から急に悪化しちゃって……延命はせず、そのまま」


 やはり、事実は変わらない。視界が暗くなる。再び森に霧が立ち込めたような感覚だった。


 どうして。三か月前なんて、わたしと最後に会って一か月しか経っていない。そんな短い時間でどうして逝ってしまうのか。名前すら互いに教えたことはなかったのに。「……い?」今日この場で、あの日の礼を返すつもりだったのに。そもそもいつから、いつからおじいさんはこの未来を予感していたのか。「……っと、……かい?」瀬戸際になってか、それともわたしと出会う前か。


「ちょっと、大丈夫かい?」


 まただ。心配そうな顔。滲んで見える。

 どうやら、またわたしは狭い世界に籠っていたらしい。


「ごめんなさいね。もう少し、他に言いようがあれば……」


 ふるふると、頑張って首を横に振る。それ以上は耐え切れなかった。



 どれくらい経ったか。落ちついて話ができるまでに回復したわたしは、おばあさんに質問を繰り返した。


 専らおじいさんのことだった。三年ほど前にここで古本屋を営み始めたこと。わたしが来る前までは誰も客の来ない店でひとり本を読んでいたこと。人付き合いにあまり関心がなかったこと。仲の良い親族も、ほとんどいないこと。


「葬式も、ないらしい……相続人もね。だからここの在庫をどうするかとか、遺品をどうするかとか、私ら商店街の連中も困っていたんだよ」


「そう、だったんですか。……それなのに」


 あんな風に、私に説教したのか。わたしが歩んだ以上の時間を、わたしが感じた以上の孤独で過ごしたのか。

 可笑しいやら、哀しいやら。変な笑いが込み上げた。

 その人生に、彼は果たして満足していたのか。


「おじいさんは、おばあさんに何か話していたんですか」


「そうだねえ……彼が倒れたときは流石にだけど、前に何回か顔を合わせていたときは、お嬢さんのことを話していたっけ」


 訥々と、おばあさんが語る。

 曰く、変な客がこの頃来るとか。曰く、本の趣味が偏り過ぎてるとか。曰く、時おり空っぽな目をするとか。

 そのほとんどは散々なものだったが。


「けれど、お嬢さんの悩みを聞いて、本を贈った時には、救われたような感覚がしたって」


「救われた……?」


「家族も孤独もいなかったけど、誰かに何かを残せたって。人生に後悔して、必死になって本を掻き集めた苦労も、無駄じゃなかったって」


 おじいさんの話も尽き、わたしたちは別れることにした。既に辺りが暗くなり始めていた。「今度はうちにも寄ってってね」というおばあさんの言葉に頷き、黄昏の帰路につく。


 おじいさんのことを考える。人づてに聞いただけで、その実態はもはやどう足掻いても知ることはできないが。

 きっと、寂しい人生だったと思う。

 そして、わたしが欠けていると自分を表し、焦り、不安に駆られていたように。無力感に苛まれていたかもしれない。価値を見失っていたかもしれない。


「……こんなこと、意味はないかもしれないけど」


 わたしはこの先、可能な限り努力し続けよう。夢も、希望も、今はまだあるとは言い難い現状だけれど。

 おじいさんがくれたものを、わたしが受け継いでいこう。

 その行動の価値は、これからのわたし次第で大きく変わるもの。ならば、おじいさんのかつての喪失は、わたしの糧となるためにあったのだと、この先で必ず示そう。


 きっと、素晴らしいものになるよ。沈みゆく夕陽に、はっきりと誓った。

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わたしのためにあった本屋 鈴谷凌 @RyoSuzutani2

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