窓辺に咲く花

トン之助

キミの物語にどうか僕を

 チョークが黒板に触れる小気味良いリズムが子守唄のように僕を夢の世界へ連れてゆく。


 教科書をめくる紙の音さえ今は遠く彼方に聞こえる。


 窓辺から流れる春風に乗って微かに香る甘い匂い――キミがすぐ近くにいると知らせてくれる。


 ――深窓の令嬢


 そんな言葉をクラスで耳にした時、真っ先にキミの姿が浮かんだ。


 窓側の一番後ろの特等席。

 三年間キミが座っていた席だ。


 初めて目にした時から太陽に反射する長い髪を美しいと思った。


 ただその言葉を伝える手段を僕は持ち合わせていない。


 キミはいつも窓辺で本を開き自分の世界に埋没する。思春期真っ盛りの男子達は少し大人びたその姿に自然と惹かれていた。


 ――キミが誰の想いにも応えないと知った。


 それでも僕はキミの世界の一部になりたかった。


 キミは図書委員に立候補した、後を追うように僕は男子達を優しい話し合いで制してその座に就いた。


 図書室でもキミは本を読んでいた。

 話す切っ掛けが欲しかったけど、そんな勇気は無く、せめて彼女の世界の邪魔はさせまいとキミの分の仕事も僕が担った。


 週末にキミは本屋に行く事を知った。


 手に取る本は様々で七冊を買って帰る。

 それを一週間かけて読み、また週末七冊手にする。


 僕はキミの世界を知りたくて後を追うように同じ物を買った。

 おおよそ教科書ですら碌に開かなった僕が本を大量に買ってきたので、両親は天変地異の前触れだと騒いでいたけど……


 キミのペースで読む事は出来なかった。

 一週間かけてようやく一冊。

 その間もキミは言葉の噴水でも浴びるように本の海に深く沈む。

 キミの口から発せられた言葉は、まだ聞いた事が無い。それでもキミから漂う甘い香りは僕の心を落ち着ける。


 何が転機だったのか、週末の本屋にキミと並んで居る事が増えた。


 今までは後ろからコソコソ付けてキミが手に取った本と同じ物を店員さんに頼んでいた。眼鏡を掛けた初老の店員さんは最初は不思議そうにしていたけれど、それが続くと段々と柔和な笑みになっていたように思う。

 個人的にはその笑みの理由が聞きたいけど彼女の世界に入るのが先だ。


 キミは無言で僕に本を積み上げる。

「んっ」と促された本は七冊。

 これを一週間で読めという事らしい。

 キョトンとした顔の僕に彼女は「ふふっ」と笑みを零す。


 少しずつキミの声が聞こえた。


 進路を決める時期になり学年全体が張り詰めたピアノ線のような空気の中でさえ、キミと僕の日常は変わらない。


「んっ」

 キミが持ってきた本は文系大学の問題集。

「えっ?」

 と僕が見返すと

「んっ!」

 と強く胸に押し当てられた。


 キミの髪は漆のようで瞳は黒曜石のようだと心の中で感じた。そのような表現が僕の中でできた事に何より驚いた。

 キミと出会ってなければ辿り着けない場所に立っているように感じる。



 深窓の令嬢が夜風に揺れる。


 卒業式を終えて誰も居なくなった教室に僕とキミは隣同士で座る。黒板には卒業おめでとうの飾りと鞄には丸い卒業の証。


 肩にキミの頬の温もりを感じる。

 僕はそっとキミの肩に手を回しお互いの温もりを確かめ合った。


「あの……これ」

「ん?」


 僕はこの日の為に頑張ってきたんだ。

 今まで何度も言葉にしようとしたけれど、何故かいつも上手くいかなくて、キミは言葉の海に航海に行ってばかりだったから、港で待つのはもう止めた。



「…………」



 僕が渡した一冊の表紙を見てキミは不思議な顔をする。


 真っ白な表紙には何も書かれておらず、厚みのないその本。


「開けてみて」


 僕に促されたキミは少しだけ震える手でその表紙を開く。



「――っ!」



 キミの姿を美しいと思った。

 その時はそれしか言葉が出なかった。


 キミの髪は漆のようだと感じた。

 僕の中で何かが変わった。


 キミの瞳は黒曜石みたいだ。

 僕はもうその虜だったんだ。


 その黒曜石の瞳から一粒、二粒と透明な宝石が零れ落ちる。


 キミが言葉の海を進むなら、僕はキミのオールになりたい。



「わたしで……いいの?」



 僕は本に挟んでいたキミの香りがする花と、本に書いてある言葉を口にする。



「キミの物語にどうか僕を――」



 桃の花はいつしか僕の大好きな花になっていた。


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