古本屋、あるいは。

深見萩緒

古本屋、あるいは。


 個人経営の古本屋なんて、もうとっくに絶滅したものだと思っていた。

 東京の古本街ですら、昨今は店数が減る一方だと聞いている。それなのに、こんな地方都市の片隅に、その小さな古本屋は、ひっそりと建っていた。

 僕は思わず、店の前で足を止めてしまう。いや、どうせ横断歩道の信号が赤だから、止まらざるを得なかった。灰色の冬の街の中で、その古本屋はほかのどんな店よりも寒寒しく孤独に見えた。


 本当に、営業しているのだろうか。ガラス扉の表には「営業中」の札が掛かっている。けれど、もしかしたら、営業中の札を出しっぱなしにしたまま、廃業したのかもしれない。そう思わせるだけの廃墟感が、この店にはあった。

 営業中の札のほか、看板はない。ガラス扉は冬の貴重な日光を黒く反射しており、店内の様子は窺い知れない。極めつけに、店の名前を示す看板がないのだ。正確には、看板自体はあるのだが、そこにはただ「古本屋」とだけしか書かれていない。

 スーパーという名前のスーパー、八百屋という名前の八百屋、花屋という名前の花屋。そんなものは、子供向けのアニメの作画の中にしか存在しない。(おそらく)

 しかしここは、古本屋という名前の古本屋なのだった。


(いや待て、古本屋という名前の魚屋かもしれない)

 店の中が見えない以上、ここが本当に古本屋である確証はない。あるいは、古本屋という名前のただの民家かもしれない。店に入って「すみません」と声をかけると、建物の奥から太ったおばさんが出てきて、「うち、もうやってないんですよ」と面倒くさそうに言うのである。

 もうやっていないなら、さっさと看板を降ろしてしまえ。想像の中のおばさんに文句を言って、僕は結局、「古本屋」の扉に手をかけた。

 どうしてそんな気になったのか、よく分からない。昨日読み終わった小説が、あんまり面白くなかったからかもしれない。


 ガラス扉を引くと、金属のドアベルが可憐に鳴った。「いらっしゃいませ」はなかった。客というものを想定してはいるが、そこまでもてなすつもりはない、というスタンスのようだ。

 さて、ここは本当に古本屋だろうか。そんな考えを持っていられたのも、店内の空気を吸い込むまでの間だけだった。

「うわ、なんだ?」

 思わず声に出してしまう。マスク越しに香ってきたのは、海の匂いだった。磯臭くて、生臭い。まさか本当に、古本屋という名前の魚屋だったのか。

 信じられない思いで店内を見回すと、さらに信じられない光景が僕を襲った。

 目の前を、魚が泳いでいる。大きなコブダイが、鼻先をかすめてゆうゆうと泳いでいった。立派なエイもいる。アジの群れがきらきらと光りながら、店の中を旋回している。何だこれは。


「ああ、ちょっとちょっと! お客さん!」

 店の奥から、慌てた様子の店員が飛び出してきた。女性とも男性ともつかない人物で、真っ黒のタートルネックに真っ黒のズボン、そして胸元に白い糸で「古本屋」と大きく刺繍された、真っ黒のエプロンを身に着けている。

「もう。表には、古本屋としっかり書いてあったでしょう。さてはお客さん、余計なことを考えながら、入りましたね?」

 古本屋という名前の魚屋だったりして。と考えながら、入った。

「困りますよ、そういうことされちゃあ。ほら、いったん外に出て。もう一度、ちゃんと古本屋だって思いながら、入ってください」

 店員は僕の背中をぐいぐい押して、店から追い出そうとする。僕はわけもわからず、店の外に追い出される。

 ガラス扉を閉める前に、店員は少し考えたあとで「念のため訊いておきますけど、魚を買いに来たわけじゃないですよね?」と言った。僕がうなずくと、「じゃ、オッケー」と言って、店員は大きな音を立ててガラス扉を閉めた。


 信号は、青になっている。カッコウ、カッコウ、と電子音が鳴いている。僕は、もう本当に何がなんだか分からなくて、そのまま横断歩道を渡っていってしまった。



 信号待ちをしている間に見た、短い白昼夢だったのかもしれない。

 僕がそう思うに至ったのは、その日以降同じ道を通っても、どこにもあの古本屋は見当たらなかったからだ。道を一本間違えたのかもしれないと思って、近くを探し回ったのだけれど、結局、あのくたびれた「古本屋」の看板はどこにもなかった。


 物語では、よくあることだ。縁があったときにしか辿り着くことができない、不思議なお店。あれが夢でなかったとしたら、自分はそういう、不可思議な場所を訪れていたのだろうか。もし、あの店員の言う通りに「もう一度、ちゃんと古本屋だって思いながら入って」いたら、僕は不思議な古本屋を訪れることができていたのだろうか。

 そこには、どんな本があったのだろう。古今東西の貴重書だろうか。貴重書どころか、何らかの理由で地上から一冊もなくなってしまった本が、あの店にだけは残されていたとか。あるいは、魔法や秘術を記した秘密の本が売られていたとか。


 想像は膨らむばかりだ。古本屋の看板を探して、あちこち歩き回るのが趣味になった。運動量が増え、今年の健康診断は軒並み数値が改善しており、医者から「素晴らしいですね。運動でも始めたんですか?」と褒められた。

「運動というか、古本屋探しですかね。土日は歩き通しです」

「ほう、古本ですか。私も好きですよ。古本は縁ですからね、その時にしかない出会いというものが、読書にいっそうの深みを持たせますよね」

「ええ、本当に」


 週末になると、あの古本屋を探して街を歩く。旅行や出張に行ったときも、どこかカッコウの鳴く横断歩道のそばに、あの店がないかと、つい探しに出てしまう。

 疲れる話ではない。いくらか健康にもなったし、古本屋を探すついでに美味しい定食屋を開拓したりもして、なかなか充実した日々だ。相変わらず、あの店には辿り着けないけれど。

 そういえば、あの店員、僕が魚屋のことを考えながら入ったから魚屋になったんだと言わんばかりの口ぶりだったけれど、そもそも魚屋って、コブダイやエイやアジが店内を泳いでいたりするものだっけ。それって、魚屋というよりも、どちらかというと水族館じゃないか。あの店員、人を頭ごなしに怒っておいて、いい加減なもんだ。



 そんなことを考えながら歩いていると、いつもの横断歩道の向こう側に、見慣れないような懐かしいような、さびれた店が割り込んでいることに気が付いた。

 真っ黒のガラス扉に「営業中」の札。古びた看板には「魚屋」とだけ書かれている。

 カッコウ、カッコウ。信号が青になる。

 僕はあの店に、何を考えながら入るべきだろう。「魚屋と書いてあるけれど、魚屋という名前の古本屋かもしれない」などと考えながら入ったら、またあの店員に怒られるのだろうか。



<おわり>

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古本屋、あるいは。 深見萩緒 @miscanthus_nogi

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