第3話

「いやぁ、まさか本当にとっちゃうとは思ってなかったなぁ」

「先生、それ言っちゃいけないやつ」

 先生の言葉に、ゼミ生達が笑う。

 私が描いた海が見える食卓の絵が、コンテストで審査員賞をとった。ゼミで先生が報告すると、他のゼミ生達はみんなとても驚き、一緒になって喜んでくれた。正直言うと、私自身、まだあまり受賞の実感が湧いていなかった。けれどゼミ生達から直接「おめでとう」を言われるうちに、照れくささとともに喜びがじわじわとこみ上げてきた。

「じゃあ、次は大賞ね」

 先生が冗談めかして言う。

 大賞、優秀賞に選ばれなかったものの中から、審査員が特に気になったものに与える賞という位置づけなので、ランクで言えば入賞作の中で一番下ということなる。でも入賞自体が初めての私には、それでも十分嬉しかった。

 ゼミ生のひとりが私に尋ねる。

「これからは透明水彩メインでいくの?」

「うーん、そこなんだよね」

 そこはまだ決めかねていた。確かに、最近描いている絵はすべて透明水彩だけど、それは透明水彩が合うと思うからだ。そろそろ、アクリル絵の具を使う絵も描きたいと思っていたところだ。

 それに気づいているのかいないのか、先生が横から口をはさんできた。

「今回ひと皮むけたのは、何を使うかより、何を描くかが変わったことが大きいと思うよ。水彩にこだわらず、色々なやり方を試してごらん」

 背中を押されたような気がして、返事をする声につい力が入った。

 先生の言う通り、今は絵を描く時間よりも、何を描くか考える時間の方が楽しくなっていた。以前は、絵を描きたいから、必死に描く題材を探してくるような感じだった。今は、題材を探す時間も楽しいと感じられるようになった。

 絵を描くのが、さらに好きになった。

 もしかしたら、これが一番の収穫かもしれない。



 よく冷える夜だった。

 あの家の台所の窓に、二週間ぶりに明かりが灯っていた。ずっと留守だったので、久しぶりに見た明かりについ顔がほころんでしまう。私が入賞できたのは、この家のおかげのおかげと言ってもいい。少し歩く速度を落として、心の中で受賞の報告をする。

 けれど、変な感じがした。

 静かすぎる。

 何かを切ったり、炒めたり、水を使ったりする音が一切聞こえてこない。それどころか、台所に人の気配すらない。

 不思議に思って、私はいつもより塀に近づいて中を覗きこんでみた。

 ふと、蚊取り線香のにおいがした気がした。

 十一月に? 台所で? と眉をひそめたところで、ようやくそうではないと気がついた。

 胸のざわめきを抑えながら、家の反対側へ回る。今までは窓とそこから見える台所の一部だけがすべてだったので、玄関を見るのは初めてだ。

 横に引くタイプの扉に黒く縁取りされた紙がはりつけてあった。その縁取りの内側には、夜の闇よりもさらに濃い黒でこう書かれていた。

忌中きちゅう

 足元の地面が抜けて、どこまでも落ちていくような感じがした。

 しばらくそこに立ち尽くしていたら、玄関に明かりがついた。引き戸のすりガラスの向こうで動く人影が見えて、私は逃げるようにその場をあとにする。

 その家が見えなくなるところまで走った。

 胸が苦しい。大した距離じゃないのに呼吸がひどく乱れて、吐き出す息が白く曇った。

 自分でも、なぜ逃げたのかわからなかった。どういう関係か聞かれても答えることができないからかもしれない。

 そもそも私は、あの家に住んでいる人の顔も、名前も、性別すら知らない。

 私が勝手に、毎日顔を合わせていたような感覚になっていただけだ。

 泣けるほどのつながりはない。

 それなのに、何かが抜け落ちたみたいな喪失感があった。ぽっかり穴が空いて、冷たい風がそこをスースー通り抜けていく。

 足が重たい。家までの道が、いつもよりも長く感じられる。

 夜も濃くなったような気がした。街灯の明かりが心もとない。黒の絵の具にちょっと他の色を足したって、黒は黒のままだ。

 とぼとぼと歩いていると、バッグの中でスマートフォンが震えた。

 気分をごまかしたくて、相手も確認せずに出た。

《あ、やぁーっと出た》

 母だ。

《元気でやってるの?》

 いつもなら、元気だと半ば決めつけたような言い方にイライラしてしまうところだったけど、今日はなんだかマイペースな母の声がとても懐かしく感じる。

《さっき一瞬だけど雪が降ったの。十一月に雪よ? びっくりしちゃった。そっちも降った?》

「雪? 本当に?」

 道理で今夜は冷えるわけだ。私は上を見上げる。低くて暗い色の雲が空を覆っていた。風がしっとりしているから、雨は降るかもしれない。でも雪はどうだろう。

 と答えようとしたら、突然母は《あっ、ちょっと待って》と早口に言って受話器を置いてしまう。耳元でゴンと鳴ると、電話の向こうでパタパタとスリッパの足音が遠のいていく。無音がしばらく続く。やがてのんびりした足音が戻ってきた。

《おう》

 無愛想な低音に、心臓が飛び跳ねた。

 父だ。

 途端に思考がフリーズする。なんで急に父を出したんだ。母は何を考えているのか。私がずっと父を避けていると知っているはずなのに。

《絵、見た》

 意外なひと言に、無意識に身構えていた。受賞のことは、母にLINEで伝えてあった。受賞作は、コンクールの公式ホームページに掲載されている。母と一緒に見たのかもしれない。

《よかった》

 耳を疑った。

 ほめた? 父が、私の絵を?

 あまりの驚きで、言葉が出てこない。

 気まずい沈黙が流れる。

《まあ、なんだ……頑張れ》

 父がぶっきら棒に言い、受話器を置く音がした。

 受話器の向こうで《それだけ?》《うるさい》という両親のやりとりが聞こえて、つい笑ってしまう。

《本当は喜んでるくせに。まったく素直じゃないんだから》

 再び電話に出た母が、呆れたように笑う。

《あんな絵を描くなんて知らなかったよ。昔はウチからもあんな景色が見えたなーって、なんかしんみりしちゃった》

 母の言葉に、はっとした。

 そうだ、実家の食卓の横にある窓から、昔は海が見えたのだ。私が小学校に上がる頃にマンションが建って見えなくなってしまったので、すっかり忘れていた。

 その頃から両親の仕事は忙しかったけど、日曜日の朝食だけは、家族全員そろって食卓を囲んでいた。私の席は、窓から一番遠いところ。おばあちゃんが作った朝ご飯と、それを囲む家族の向こうに、あの窓が見えた。朝は日差しが海に反射してきれいだった。

 なんだか無性に、あの海が見たくなった。

《お正月くらいこっち顔出したら? お父さんがあんまりうるさく言うようなら早めに帰っちゃってもいいし》

 おせちは買ってくる派の母だけど、煮豆だけは自分で作る。宝石みたいにつやつやした黒豆の輝きと、歯を使わなくても潰せるけど煮崩れしない絶妙なほくほく具合は、おばあちゃん直伝だ。

 そういえばひとり暮らしを始めてから、煮豆も、おせちも、おもちも、一度も食べていないことを思い出す。

 急にお腹が空いてきた。早く帰って夕飯にしよう。

「ねえ、お母さん」

 母の《なあに》という穏やかな声が返ってくる。

「おばあちゃんって、味噌汁のダシ、どうとってた?」



 《了》

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水彩色の食卓 朝矢たかみ @asaya-takami

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