「父」

「銀父⁉」

 捥げた腕は、と音を立てて地面に落ち、割れてしまった。

「ああ、」

 銀父は何てことなさそうに言った。「本物金の楊を殺してしまったから、ぼくも終わりなんだ。寧。ごめんね」

「何?」

 寧は聞き返した。「なんで?どうして?」

 父に触れようとした指先が、ぶるぶる震えている。寧は恐れていた。

 銀父を失うことを恐れていた。

「ぼくは楊だけど、だからね。本物じゃあない。きみも気づいていただろう。僕が楊だけど、楊じゃないこと」

「なんで?」

 寧はそれしか言えなかった。それしか、言えなかった。また銀父の腕が落ちて、割れた。

 銀父はそれには答えずに、「ああ、もう君に触れなくなっちゃった」と呟いた。

「一度でいいから、君のことを抱きしめてあげたかったんだけどなぁ」

「……なんで、銀父」

 寧が歩み寄ると、銀父の両足が砕けた。寧はそれ以上銀父が砕けないように、その胴を抱いた。寧にはそれしかできなかった。抱きしめることしかできなかった。

 あれだけ気持ち悪かった「父」が、今となっては惜しかった。


「君はずうっと、苦しそうで、泣いていたから、ちょっとでも慰めてあげたかったんだ。ぼくは、視ていた。ずっと君を見ていた……」

「どこから」

「ぼくは、楊だから。……楊の、一部だから」

 息が詰まる。寧は何も考えずに、何も思案せずに、感情のまましゃべった。

「そんなの、遅いでしょ。あたしもう、十九よ。父親の抱っこなんかもういらない。そういうのは、もっと早くに済ませるべきよ、そうじゃないの? 嫁入りだって遅いのに、は、父親の抱っこですって? 何を言ってるの、

「はは、そうかあ。……そうかあ」

「父さんのそういうところ、ちょっと気持ち悪かった。ていうか、すごく気持ち悪かった。ちょっとの間だったけど」

 寧は瞼に力を込めた。泣くものか、と思った。けれど、泣くものかと思った瞬間にはもうすでに涙腺が緩んでいた。頬の上を滑り落ちるしずくを振り払うみたいに、寧は何度も首を振った。

「でも、早すぎるでしょ。……早すぎるよ、父さん。ねえ、父さん、あたしは、……あたしは、もっと、あなたのことを知るべきだった」

「そうだねえ。……僕が来るのが遅すぎたのかな」

「そうよ。その通りよ」

 寧はしゃくりあげた。「もう三年早く来てくれればよかったのに。もっと早く」

 銀父はゆるやかに目を細めた。そしてかたく瞼を閉じた。

「ごめんね」

「許さない」

「厳しいなあ、寧……」

 銀父はそれなり、動かなくなった。寧の腕の中で、大量の砂がざらざら零れて落ちた。

「許さない……」

 寧はつぶやいた。

 すっかり葉になってしまった桜が、湖のほとりで風に吹かれていた。

 銀の父が殴り殺した金の父の死体は消えていない。……本当の、ほんとうに、本物の楊だったのだろう。じゃあ、この腕の中にいる「銀の父」は何だったんだろう――。


「女神さまが下さった父さん」

 手のひらの上から滑り落ちる銀色の粉は、風に吹かれて大地へ帰っていく。

「さよなら。……よ」

 言葉にしたら、また涙が一筋滑り落ちた。大嫌いだった。そう胸を張って言える。


「だいきらいよ」





 寧は落ちている血まみれの鉄の斧を拾った。そして、街にめがけて一目散に走った。息が切れても、足の裏が切れても、走った。そして――


「私は父を殺しました」

 血の付いた斧を突き出し、眠たげな警吏に向かって言い放つ。

「私は、私の父を殺しました。この斧で殴って殺しました」


「死体は、湖のほとりにあります。来てくださればすぐにわかります」


「私は、私の父を」


 鉄の斧を伝った血が寧の手を赤黒く染めていた。寧は両手を広げて、警吏に見せた。瞼の裏に、二人の父親の姿が散って消えた。


「……この手で」



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

銀の父 紫陽_凛 @syw_rin

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

同じコレクションの次の小説