「親と子の檻」

 ニンは迷いに迷って、ある晩、師父の家を訪れた。いおりは小さく、ひっそりと静かで、山のような本とたくさんの植物のほか、動くものは師父しかいなかった。

師父せんせい。こんな夜にすみません。お話を、聞いてもらいたくて……」

 寧が頭を下げると、師父は樹木に水を遣りながら、「御掛おかけ」と椅子を促した。

「父親とのことかね」

見透かすように師父が言うので、寧は目をまるくした。「なぜ」

「見ていればわかる。曇天のような迷い。晴れたと思ったらまた曇る。お前の心は凪ぐことなく揺れ続けておる。リンお嬢様もまた然りだ。……どうした、寧」

「師父はなんでも、お見通しなのですね」

 寧はこれまでのことを語った。湖に父親を突き落として殺そうとしたこと。……そうしたら、湖の処女神が現れて、金か銀か、どちらかを選べと言われたこと。そして銀を選んだこと……。その優しく善き父親を、銀父インフーと呼んでいること、など。

「ほう……」

 師父は腕を組んでそれを聞いていた。

「師父は、私ととのことをご存じでしょう。だから、銀父と楊は別の人だと考えようとしているのですが……どうしても、嫌なのです。いいえ、銀父のことは嫌ではないのですけど、……彼のことが、何か、尋常でなく、のです。これじゃあ、よくしてくれる銀父に申し訳がない……」

「ふむ……」

 師父は顎髭を撫でながら、つぶやいた。

「親と子ののりをこえた後では仕方があるまいよ……」

「規……」

 いくら無知な寧でも、その意味を分からぬほどではなかった。

「よいか寧。良くも悪くも、それは父である。そして同時に男である」

「はい」

「そしてお前も、娘である。同時に女であるのだよ」

「……はい」

「それが、『親子の檻』だ。父子であることと、男女であるということは、両立するのだ。そして、……慕いながら、憎むことも両立することがある。男たる父を憎み、父たる男を愛すこともあろう。かつて私も母を……、……。」

「……え?」

「つまり、何も、不自然なことではない」

 師父は寧を見詰めた。「不自然なことではない。だから、お前は悪くない、寧」



 寧は呆然と家へ戻った。銀父は珍しく、まだ帰っていないようだった。明かりをともし、敷布の上に腰かけて、ぼうっと空を眺める。

 何も不自然なことではない。師父の言葉が、まだ頭の中でぐるぐると渦を巻いていた。

「……ごめんなさい」

 意味もなく空疎なつぶやきが漏れる。悪くないのに、悪くないと言われたのに。あの銀父の裏表ないやさしさを拒絶しようとする寧自身が、未だ罪悪感を持っているしるしだった。

「ごめんなさい」


 敷布の上に横になる。頭がくらくらして、良くない。手を滑らして敷布の粗い目地をたどっていくと、かすかに濡れているのが分かった。

「……あれ」

 手だけで、床の上を探る。水のあとは足のかたちになって、奥へと続いていき、

「……あれ?」

 寧は金の斧と銀の斧を飾った場所を見上げた。

「あれ?」


 ない。金も銀もない。そこには何もなかった。

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