「鉄の斧」

 銀父インフーは翌朝早くから出かけていった。ニンが起きるずっとずっと前に起き出したらしい。引き出しの金は手つかずのまま残されており、台所には朝餉あさげに昨日の粥の残りを食べたあとがあった。寧は一人分の粥を掻きこむと、まだ夢でも見ているかのような心地で部屋を見渡した。「生活」がこんなにも楽なのは初めてのことだった。常に寧を苦しめていた「それ」は消え去り、残滓さえない。

 すべては、銀父を女神さまが下さった日からだ。

「あ。ところで銀父はどこへ行ったのかしら」

 はたと思い立ち、心配になったものの、寧も今日の勤めがある。仕事を放り出して探し回るわけにもいかないし、かといって誰かに頼む「つて」もない。寧は心残りのまま、仕事先へ向かった。


 しかし。今日のリンお嬢様はとにかく不機嫌で、使用人に怒鳴り散らし、師父に反抗した。あまつさえ寧を捕まえて殴った。痛い、と零れた声にさえ、彼女は喚いた。

「うるさい!」

 名家の娘として、早くから嫁ぎ先が決まったらしい。しかしお嬢様はその相手が気に食わないと怒って、泣いて、喚いて、そして寧に八つ当たりをした。始まればひとたび衰えを知らない嵐のように、彼女は怒り狂う。

「こっちを見ないでよ」

 見ないでと言われても。……冷めた気持ちで、寧はそっとお嬢様から視線を外した。その隙に、お嬢様は寧の背中を思い切り蹴りつけた。無防備な寧は顔から転ぶ。

「その目が気にくわない!お母様に言いつけてやる!薄汚い行き遅れの洗濯婦などっ」

「お嬢様、お怒りをお鎮めくださいませ。どうか……」

「うるさい!うるさいうるさい!!お前もくびよ、くび!」

「お嬢様!」

 言い争う師父とお嬢様の声を聞きながら、地面に倒れ込んだ寧は、土と血の混じった唾を吐いた。



「寧、お帰り!……あれ?」

「……ただいま、銀父」

口元の痣を隠しながら、寧は手短に説明する。「大丈夫よ。いつものこと」

「いつもって……」

 銀父は寧の口元にふれようとして、躊躇った。寧はそんな彼を安心させるように、大きく明るい声を出した。

「ところで、銀父は朝からどこへ行っていたの?」

「ああ、仕事を探しに行っていたんだが……」

 銀父はごそごそと、ふるびた鉄の斧を出してきた。

「あしたから、湖沿いの木を切ってくるよ。あのあたりは桜の景勝地けいしょうちだから、前々から公園として切り開く計画があったそうなんだ。ただ、人手が足りないらしくてね。木こりはぼく一人だけだ」

 寧は目を見開いた。銀父が仕事を自ら求めて、そして見つけてきたこともそうだし、が人目に触れやすくなることも……

 寧の瞼の裏に焼き付く、楊の最期の姿。あの薄汚い亡骸が湖の水面に上がってきたら……。

 寧はごくりと唾を飲み込んだ。その拍子に、痣になっている口元が痛む。

「いたっ」

「ご飯、食べられるかい。今日は鳥と卵を買ってきたんだけど……」

「ありがとう。銀父。なにからなにまで」

「今までさんざんぼくが迷惑をかけてきたんだから、これくらいさせてくれ」

 銀父は慣れた手つきでしゃくをつかい、木の椀に鳥のスープをよそった。

中に肉と卵の入った、熱いスープだった。

「……おいしい」

「よかった」

 銀父はにっこり笑った。寧もつられて笑う。

「ああ、やっぱり寧は笑ってるほうがいいなぁ」

 銀父がなにとなしにそういった。寧はぎょっとして、口元を隠した。

「ああ、じゃない。そうじゃないよ……って言っても信じてもらえないかもしれないけど」

「じゃあ、どういう意味なの」

「ぼくは君の父親で、君は僕の娘だ。つまり、そういうことだよ」

「……」

「娘は笑ってるほうがいいって、父親なら思うもんだよ」


 銀父は見たことのないくらい優しい目つきをしていた。寧は、悪寒とこそばゆさの間のような、妙な感情にさいなまれていた。

銀父は好意を寄せてくれている。健全な好意だ。だけど――

「ごちそうさま」

寧はさっさと夕飯をすませ、襖の奥の自分だけの殻にこもった。


 胃の腑のあたりから、気持ち悪さがこみあげてくる。



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