「師父」

師父シーフー!」


 師父せんせいは奉公先のリー家の家庭教師で、ニンのような下賎げせんな職のものにも隔てなく接してくれる。真っ白な頭の老人──授業を前にした師父は煙草の煙をぷかぷかとふかして、駆け足で来た寧に目を細めた。


「おはよう。どうした、そんなに慌てて」

「師父、あのね、あの、湖の処女神さまに会った!」

 師父は細く閉じていた目を開いた。

「夢じゃあないの!」


 でも流石の寧も、「楊を殺そうとしたら」という経緯までは説明できない。人を殺そうとしたことを、この人にだけは知られたくなかったからだ。


「光がぱあっと降り注いで、そこに綺麗な女の人がいて、桜の花弁がざあっと降り注いで……ほんとよ」

「……夢か現かはこの際関係ないな。おまえが見たものが本当だろう」

「やっぱり!やっぱりそうよね!」


 女神が本当なら、銀の父も同様に本当なのだが、もはや寧は銀の父のことを思考の隅に追いやって砂までかけていた。ただ師父に「夢ではない」と言われたことが嬉しかった。

「私のような悪しきものにも、女神様は微笑んでくれるのだわ」

「寧。それはお前が自分の悪を、自分で押さえつけているからだよ。お前が良き人になろうと努めているからだよ」

「……ええ」

 寧は頷いた。殺意を込めたあののことを思い出していた。欲望のまま走ったのは、自分を守るために他ならない。本性だ。あれが寧の本性なのだ。


 師父はかつて、人間の在り方には二つの有力な説があると寧に説いた。

 一つは、「人間はもとより善なる存在であって、人間が悪に走るのはその善性が損なわれたからである」というもの。

 もう一つは「人間は欲望を持つ悪なる存在であるが、それを律することによって善になり得る」というものだ。

 寧の心に響いたのは後者だった。楊の姿を見ていても、そして李家のリン嬢を見ていても、「人間がもとより善」とは到底思われなかったからだった。彼らは決定的に堕落していて、わがままで、ひどく攻撃的だった。師父だけが、絶えず自らを律することのできる真なる人間である。寧はそう信じている。


「時間だね。私はお嬢様のところに行かなくては」

「私も持ち場に行かないと。ありがとうございます、師父」

 寧は深々と礼をした。そして、李家の中庭へと走った。



 中庭に着いた寧は、家の使用人に名乗って木の桶と石鹸、汚れた衣服を貰い受けた。屋敷の端までそれを抱えて走り、井戸から水を汲み上げて、桶に注ぎ入れる。

 寧の仕事は玲お嬢様の汚れた服を洗うことである。

 齢13になるお嬢様はすでに月のものがきている。お嬢様のいう通り、「洗濯婦は穢れた仕事」であるが、その穢れは自らの体内から流れ出るものだということを、あの若いお嬢様は知らないのだろう。彼女は寧を貶めたいだけだ──行き遅れだの、穢らわしい洗濯婦だのと。


──ひとは生まれながら悪である。自ら律することでしか善になることはできない。


 冷たい水に晒された指は冷えて真っ赤だが、一方で腕や肩の筋肉はほてって熱い。額に滲んだ汗を冷たい手で拭う。ようやく終わった、と思えば気を利かせた使用人が次の衣類を持ってくる。増えた山に、寧はため息をつく。

「はあ」

 今日の仕事が終わったら、と寧は思った。

 今日の仕事が終わったら、あの瓶と汚い布団を捨てて……。銀を換金して新しい布団を買って……それから何を食べようか。何を……。

 ……あの楊はまだ家にいるんだろうか。

 寧はかぶりをふった。考えなくていいことは考えないことにしている。仕事が疎かになるからだ。

「やるか……」

 増えた衣類に、寧は袖を捲り直した。水を捨て、清涼な井戸水を汲み上げ、再び桶に向き直った。






 

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