3


券売機で百円分の応援馬券を買って、俺はその場を後にした。


少し歩けば、すぐに目的地に出られた。


レース会場は、砂埃に混じってキラキラの太陽が輝いている。

そこを馬が歩いているのが見えた。


ダート2000


2000は距離

ダートを和訳すると土になる。


でも日本で使われてるのは砂。

ダートは砂の上を走るレースだ。


ダートだと馬の速さは芝よりも遅い。

理由は知らん。

でも偶に芝で走る並に速い馬が出るんだって


……それくらいしか知らない


俺は伸びをして、レースが始まるのを待った。


よく見てみると、セイゼイガンバルの姿も見えた。

茶色い毛の馬だ。栗毛と呼ぶらしい。


セイゼイガンバルは、ノッソノッソと砂の上を歩いている。


今はウォーミングアップ中なんじゃないのか?


走ったりしないのかな……


他の馬も見てみると、結構歩いている馬も多いようだ。


走った。

あ、セイゼイガンバルも走った。


あと、どれくらいで始まるんだ?


そう思いながらチョコをつまみ食いする。

……暇だと嫌なことを考えてしまう。


職場のことを思い出した。


上司は俺にネチネチとやかく言うくせに、期待はしていない。


でも、ネチネチ言われるのは当然なんだ。


俺、マジで仕事できないし、気が弱いし。舐められてるし。


……俺だって、もっとマシになりたかった。


誰かが俺を期待してくれれば、俺は答えようとしただろう。

勉強だって親が勉強家で、イライラしてキレたりしないで教えてくれれば、学歴だって……


そう考えていると、周りが騒がしいことに気がついた。


ハッとして見渡す。


馬がゲートの周りに集まっていた。


その中にはセイゼイガンバルの姿もある。

栗毛あと一頭いるから、もしかしたら違うかも。


レースが、始まるんだ。


……俺、まだちょっと理解出来てないんだけど、もう始まるんだよな?


ジッと見つめていると、扉が開いた。


すぐさま馬が飛び出した。

黒や茶の馬がバラバラに飛び出し、駆ける。


馬の集団はみっちりと詰まったまま進んでいき、コーナーに入って、ようやく馬群の形を成した。


黄色の帽子を被ったジョッキー(騎手のこと)が乗った黒色の馬が一番前に躍り出る。


その後ろを芦毛──白っぽい毛の馬

そして栗毛のセイゼイガンバル。


そして、セイゼイガンバルをピッタリ追うように、カラス色の馬二頭が追っていた。


最後尾に、同じ栗毛がいる。

その栗毛は結構、距離を取られているようだった。


大きなコーナーをぐるりと曲がる。


馬一頭一頭が大きく足を開き、四本の足がバラバラに、けれど前へ進む。


すごい勢いだと思った。

この中に放り込まれたら、すぐ死ぬな。


コースは長い。遠くから見ていてもそう思える程。


きっと、馬が見ている景色は、俺が思うよりも長いのだろう。

うんとうんと、長いだろうな。


俺が走るよりもハイスピードで過ぎていく景色と、体に当たる風。


息が上がりながら走る。

……それって、どんな気持ちなんだろう。


二度目のコーナーを曲がる。

曲がったレール、スレスレを行く馬の傾斜が、あまりにも力強い。


まだ黒色の馬が先頭だった。


だけども、芦毛が並びかけようとしている。

カラス色の馬が広がり、まさしく馬群を追い抜こうとしていた。


けれど──そんな勢いある馬達よりも


俺はセイゼイガンバルの姿から、目を離せなかった。


セイゼイガンバルは三番手だ。

黒色の馬の後ろの後ろ、芦毛の背後で走っている。


俺には、馬の気持ちが分からない。


当然だ。

だって、俺は人間なのだから。


特殊な能力でも無い限り、俺は一生馬の考えなど分からないだろう。


だけども、けれど。


俺はこの時、セイゼイガンバルの気持ちが分かった。


追い抜こうと、している。


自分の前にいる芦毛よりも、先頭だけが気になった。

ただただ、全部が邪魔で。


ずっとずっと狙っている先頭の、その先を、この馬は見ようとしている。


何故だが、そう思えた。


抜けない。

俺はそう思う。


たった頭一つ分の差。

二番手の芦毛との距離すら、俺は何よりも遠いように思えた。


セイゼイガンバルは、どう考えてるんだろう。


最後の直線に入る。


ここで、黒色の馬を芦毛が追い越した。


俺の近くで歓声が聞こえる。


芦毛が勝つのか。

黒色の馬か。


競り合いの末が今すぐそこにある。

ゴールが、あと少しだ。


芦毛が粘る。

黒色の馬は、少しづつ、沈んでいく。


その中を、閃光がかけていった。


ゆっくりと、セイゼイガンバルが走る。

芦毛との距離が縮まっていく。


それは、とてもゆっくりで、あっという間だった。


そこでオレは気がついた。


馬の足は遠くから見るとのんびりで、でもその実、あまりにも速いのだ。


セイゼイガンバルが頭一つ抜け出した。


「ゴール……」


セイゼイガンバルが、ゴールに入った。


その次を芦毛の馬、そして、いつの間にか最後尾から追い上げた栗毛。


俺は感嘆の声を漏らすこともない。


ただ、さっきのレースに取り残されたように、息を詰めていた。


目の奥が熱くなって、俺はパクパク動かして、目を覆った。

手に持った応援馬券を握りしめる。


俺、舐めてたかも


せいぜい馬。

何を頑張るんだって思ってたのかもしれない。


だけど、レースを見終わった俺に残ったのは、熱いくらいの感動だった。


自分の苦しさが燃えて、活力になっていくような感覚さえ覚える。


「おっ、兄ちゃんどう──」


おじさんの声が聞こえて、俺は反射的に振り返った。


ギョッとした顔のおじさんは、手を振りあげたまま固まった。


いつもの俺なら恥ずかしいと思う。

でも、今の俺は何とも思わなかった。


ボタボタ零れ落ちる涙に気づいていないように、俺は言った。


「なんか、レ゛ー゛ス゛って凄゛い゛んす゛ね……!」

「お、おう、そうか……」


おじさんは引いていた。

顔を引き攣らせるとはこの事で、俺はそれをよく見た。


急に恥ずかしくなる。


俺、何泣いてんだ。


いや、あれ見てなんも思わないやつ居ないだろ!


「兄ちゃん、そんなに馬が好きか」


分からない。

俺は馬のこと知らないし、レースだって今日初めて見た。


だけど、馬が走ることが、こんなに熱く輝いて見えるなら


俺はたぶん、馬が好きなんだと思う。


「俺、セイゼイガンバルって馬が、好き……なんだと、思います。」

「そりゃ良い!好きな馬がいるなんて、幸せもんさ。」


おじさんは噛み締めるように頷いて、そう言う。

まるで、本当に嬉しいかのようだった。


「俺ァ若い頃は馬と関わってたんだ。が……競馬はシビアな世界だ。だから、耐えられなくって辞めちまってね。だけど、今でもここに来る。競馬を、見ちまうんだ。」

「あっはい」


急に自分語りをされて、俺はちょっと正気に戻った。


昔ってことは、今は関わってないんだ。

一体何をする人だったんだろう。


「兄ちゃん、セイゼイガンバル、だったか。ありゃ良い馬だ。名馬になるぜ」


名馬になる。

それが俺には確定事項のように思えた。


名馬の基準は分からない。


より強いレースに勝ったとか、時代を変えるようなことをするとかなのだろう。


優駿と言う言葉がある。

優は優れた。駿は速いという意味。


そして優駿は、名馬という意味だ。


セイゼイガンバルは、優駿になるのだろうか。


「また会えたら話そうぜ。」

「あっはい!もちろんです!なんも分からないので!」

「もう教えねーよ!」


そう言って去っていったおじさんの背を見送った。


俺はまたレース場を見る。

馬はもう引っ込んでいた。


勇気を、貰った気がする。


俺自体は何も変わっていないのに、俺の心は「変わった」と言っていた。


少しだけ、頑張れる気がする。


家に帰って、俺はぐっすりと眠った。

競馬場は遠かったし、久しぶりに泣いて疲れたんだな……





翌朝起きて、仕事に行く。


いつもながら上司に人格否定されても、俺は元気よく返事できた。


精神はゴリゴリ削られるけど……


家に帰る途中、スマホでセイゼイガンバルの話題を読んだ。


「……へー、ダートから芝に転向するんだ」

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