猫店長の優しい本屋

碧絃(aoi)

猫店長の優しい本屋

 いつもと同じ帰り道。


 川沿いにある桜並木を歩いていると、小さな店が目に入った。


 ———こんな所に店なんかあったっけ。


 不思議に思って見つめていると、ちりりん、と音を鳴らしながら入り口の扉が開いた。


 そして中から顔をのぞかせたのは、鮮やかなリーフグリーンの瞳と、ライトグレーの美しい毛並み。


 「え……、ネ、猫!?」


 自分の声に驚いて、思わず口元を押さえた。


 すると、僕と変わらない背丈で人間のように立っている猫は、


「いらっしゃいませ」と優しく微笑んだ。


「僕……ですか?」


「えぇ、あなたがこの店を求めていたから、扉が開いたんですよ。さぁ、どうぞ」


 猫は手のひらを上に向け、ゆっくり店内へと動かした。


 その仕草はまるで紳士のようだ。


 僕は促されるまま店内に足を踏み入れた。


 目に飛び込んできたのは、秋を思わせる黄と朱を基調としたノスタルジックな色合いと、天井までびっしりと埋め尽くされた本だ。


「あの、ここって……」


「本屋ですよ、本と紅茶の店。私はこの店の店長をしております。焦らずじっくりと、自分が本当に読みたいと思う本を探してくださいね」


 猫の店長はそう言ってカウンターの中に入って行った。


 僕は並んだ本を眺めながら、


 ———本の背表紙すら見るのは久しぶりだな、と思った。


 仕事が忙しくて本を読むような余裕はなかったのだ。


 そして壁際を歩きながら探していると、1冊の本に目が留まった。


 僕がその本を手に取ると、


「お客様、こちらへどうぞ」


 と、猫の店長にカウンター席へ案内された。


「紅茶を飲みながら、買うか買わないかゆっくり決めてくださいね」


 目の前にはいつの間にか紅茶が置かれていた。


「いい匂いがする」


「アールグレイという紅茶です。お疲れのようでしたので、少しだけ蜂蜜が入れてあります」


 猫の店長は微笑んだ。


 僕は紅茶を一口飲んで本を開く。


 辛い日常生活にいつの間にか笑顔を忘れてしまった主人公が、少しずつ笑顔を取り戻す物語。読んでいると、僕の頬を温かいものが伝っていった———。


 結局本を半分くらいまで読む間、僕は店に居座ってしまったが、猫の店長は何も言わずに優しく微笑んでくれていた。


 ———1時間後、僕がやっとその本を買い店を出ると、店長も外まで出てきて見送ってくれた。


「またいつでもお越しくださいね」


「はい、なんだか少し元気になった気がします。ありがとうございました」


 僕はお礼を言って、店を後にした。


 帰り道、桜の花が咲いている事に初めて気が付いた。


 もしかしたら、ずっと下を向いていたのかも知れない。


 桜の花も、なんだかいつもより綺麗だな、と思った。



 そして数日後、あの店があった場所に立つと、そこには若葉色のイチョウの大木が立っているだけで、店はなかった。


 ———やっぱりあれは夢だったのか。そうだよな、しゃべる猫が店長をしている店なんて、ある訳がないよな……。


 ため息をつきながらきびすを返した瞬間、ちりりん、とベルの鳴る音が聞こえた。


 僕が振り返ると、開いた扉からアールグレイが香る。


「いらっしゃいませ」


 明日はきっと笑顔で会社に行ける、そんな予感がした。

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猫店長の優しい本屋 碧絃(aoi) @aoi-neco

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