第24話 寒い場所


 1時間電車に揺られて最寄り駅に着くと、人目を避けるように裏路地を通って家に帰ります。大通りに面した大きな屋敷が僕が生まれた家。僕が幼いころは2人のお手伝いさんがいました。僕が家事全般を叩き込まれたころには2人とも出て行ってしまったわけですが。


 この広い屋敷の掃除はなかなか骨が折れますから、実を言えば1か月に1回も掃除の手が回っていないところもあります。まあ、気が付かれなければ怒られもしないですから。


 正面玄関からは入らずに裏の勝手口から帰宅すると、珍しく弟の清さんがこの時間に自室から出てきていました。直接会うのは3か月ぶりくらいでしょうか、見ない間にまた成長したようですね。



「ただいま戻りました」


「ねえ」



 挨拶をして足早に自室に向かおうとすると、後ろから呼び止められて振り返ります。



「はい」


「お腹空いたから夕飯早くしてよ。あと、作ってる間にお風呂入るから沸かして」


「分かりました」



 2つ年下の弟との関係はこんな感じです。あまり親しいわけではありませんし、むしろ使用人のような立ち位置で扱われるのも当たり前のこと。


 清さんが立ち去ったのを確認してから自室に戻ると、リュックを置いてすぐに部屋を出ます。お風呂場に向かって浴槽を洗うと、湯沸かしスイッチを押してすぐにキッチンに行きます。冷蔵庫を覗いて週末に買っておいた材料の中から適当に手早くできるものを考えます。今日は兄の純さんも遅くに帰ってくるとは言っていましたから3人分。両親は今日も帰って来ないでしょう。



「オムライスにしましょうか」



 卵の特売なんて今時ありませんし割高ではありましたけど、清さんは昔から卵が好きでした。昔の、まだ普通の兄弟に近かったころの清さんは僕のご飯を嬉しそうに食べてくれました。オムライスは清さんへのご褒美によくねだられて作っていたものです。



「この間の模試も全国1位だったようですし」



 純さんと清さんの頭の出来が良いのは2人の努力の賜物だということは分かっていますが、羨ましいとは思ってしまいます。もし僕にも2人と同じだけの時間を与えてもらえていたなら。他の未来もあったのではないかと、ありえないことを考えてしまいます。



「まあ、グレたおかげで聖夜くんにも出会えたわけですし。感謝ですかね」



 独り言をぼやきながらも手は止めません。止めてしまった後が怖いですから。


 ですが昔のことを思いだしかけて慌てて火を止めて菜箸を置きました。震える手を抱きしめるように抱えてしゃがみ込むと吐くことを意識して息をします。さすがにこの状態で料理をしたら危なすぎますから。


 こういうときばかりは誰かの温もりに触れたくなりますが、今はそんな相手もいません。前は関係のあった人に電話をしてその場しのぎの温もりをもらっていましたが、今はそんなことをする気にはなりません。


 聖夜くんのことを思い出しましょう。そうすれば、気持ちは温かくなります。そういえばあとで武蔵くんと電話をする約束をしていましたっけ。


 最近は本当に武蔵くんにも助けられていることを実感します。聖夜くんに向ける感情とはまた違う大切な愛おしさを武蔵くんにも感じている自覚はあります。弟と思っているわけではありませんし、なんなら支えられていると思います。最初は武蔵くんの助けになりたいと思って手を差し伸べようなんて、上から目線なことを考えていたのですが。


 震えの治まった手で菜箸を持ち直して火をつけます。今はとにかく、やるべきことをやりましょう。


 ケチャップライスを3人分作って、卵は2人分焼きました。あとの1人分のケチャップライスは温め直しやすいようにフライパンに残したままにして、2人分だけ盛り付けます。1人分だけテーブルに運んでもう1つはキッチンに置いたまま。スプーンも用意してセットを済ませたら紅茶を運びます。


 そして自分の分のオムライスとスプーンだけ持ってリビングを出ました。お風呂場が静かなことを確認してから自室の机の上にお皿を置いて、清さんの部屋に向かいました。


 3回ノックすると、中から間延びした返事が聞こえました。



「はーい?」


「お夕飯ができました。リビングにご用意してありますので」


「あー、はいはい」


「それでは失礼いたします」



 返事が聞こえたらドアの前をすぐに退いて自室に篭もります。



「ふぅ」



 やっと一息吐けて、張っていた肩がようやく下ろせました。少し焦がしてしまった方のオムライスを前に手を合わせます。



「いただきます」



 美味しいのは当たり前。もう何年も1人で食べているから慣れたことではありますが、学校では誰かと食べますしさっきまでは聖夜くんと武蔵くんといましたし。どうしようもない寂しさに襲われてしまうのは致し方ないことだとは思います。



「僕も弱くなったものですね」



 2人と一緒にいる時間が増えれば増えるほど、1人の時間が寂しくて怖くて堪らなくなります。



「粋」


「はい」



 急に廊下から大きな声で名前を呼ばれて肩が跳ねました。スプーンを置いてなるべく急いでドアを開けると、清さんが少し高い位置から僕を見下ろしていました。



「どうしましたか」


「どういうつもり?」


「と、言いますと?」



 なんのことか分からなくて聞き返すと胸ぐらを掴まれて引き寄せられてしまいました。清さんの方が身長が高い分、踵が浮いてしまうのが辛いけれど、このくらいなら平気です。



「あ、あの?」


「どういうつもりでオムライスなんて作った? 俺の機嫌でも取ろうと思った?」



 いつからか笑わなくなった清さんは少しずつ僕と距離を置くようになって、高圧的な態度を取り始めました。両親や純さんの態度をマネしているだけだとは思いますが、昔の純粋な可愛らしい清さんが僕は大好きでした。唯一僕と対等に話をしてくれる優しい子だったのですが。



「そんなことはありません。ただ、いつも頑張っているので何かしてあげられないかと思っただけです」



 こういうときはあまり清さんの気持ちを逆撫でないように穏やかに接するのが1番いい方法だと思っています。清さんの怖い顔はあまり見たくないですから。



「なんか上から目線だな。まあいい。これからも俺に尽くせよ。出来損ないの粋にできることなんてそれぐらいだしな」


「申し訳ございませんでした」


「チッ」



 苦虫を潰したような顔をして舌打ちをした清さんは僕を雑に降ろして去って行きました。よろけて壁にぶつかった僕はすぐに自室に戻ってドアを閉めました。


 震えだした手を握りしめてベットの上に倒れ込んで小さく丸くなるしかできません。こんなこと、昔から慣れていることです。ですが。



「清さんとは、仲良くしていたかったです」



 机の上に飾ったたった1つの写真立ての中で笑う幼稚園に通っていたころの清さん。古びた写真は、清さんが通っていた幼稚園の園長先生がくれたものでした。


 体裁のために入れられた純さんの母校の私立小学校から家に帰る途中、仕事で帰りが遅い両親に代わって幼稚園に寄って清さんを迎えに行っていました。そのときによく会っていた園長先生が、両親に渡すようにと言った写真とは別にこの写真を渡してくれました。


 清さんとは幼稚園も小学校も中学校も同じでしたが、小学1年生のころにはもうこんな関係性になっていたと思います。13も年上の純さんのことを支えるようにと言われてきた世話係役の僕とは違って、特に期待はされていなかった分自由を与えられた清さん。物心ついたころには純さんを超えるための努力を怠らない向上心の強い子でした。


 優秀な兄と弟。2人の間に挟まれて比べられて。変わりたいのに変わることもできなくて。そんな生活が辛くて反抗したくて、グレてたくさんの人を傷つけてきました。



「最低ですね」



 そう呟きながら起き上がって、すっかり冷めてしまったオムライスに口をつけました。冷めても美味しいのですから、不思議なものです。



「2人に、会いたいです」



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