通り過ぎた本屋と本音

@yayuS

第1話

「友也は、本当にカラオケに行きたいんだね?」


 彼女――篠原しのはら おとは、印鑑を押印するかのような念入りさで、僕に聞いた。

 放課後。

 学校の下駄箱での会話だった。

 この日は、午後から雨と天気予報で言っていたのに、篠原さんは傘を持って来ていなかった。僕はそんな彼女が好きだった。先のことを考えない、今を生きる彼女。

 そんな彼女が、念を押すのは珍しい。疑問に思いつつも、僕は問いに答えた。


「そうだけど……駄目かな?」

「駄目じゃないよ。ただ、今、一番行きたい場所がカラオケって、なんか意外だなっと思ってさ」

「そうかな……?」


 今日、僕が一番行きたい場所に行こうと言い出した篠原さん。なんで、急にそんなことを言い出したのだろうか。

 いつもは、篠原さんが行きたい場所に、僕を連れて行ってくれるのに……。

 僕は持ってきていた黒い傘を差し出す。篠原さんは「ありがと」と、傘を開いて下駄箱を出た。


「えっと……、一緒に入らないの?」


 自分の鞄の中から、折り畳みの傘を取り出す僕に、篠原さんはもう一度、判を押すように問いかける。


「うん。一緒に入ったら狭くて、篠原さんが、雨で濡れちゃうかもしれないし……」


 こんな可愛い彼女を雨で濡らすなんて、絶対に嫌だ。


「そっか……。やっぱり、友也は優しいんだね」


 篠原さんは、雲が風に流れるように笑った。いつも、篠原さんは、溌溂として笑う。けど、僕と一緒にいる時だけ見せてくれる、この笑顔が僕は大好きだった。


 僕達が向かっているカラオケは、最寄り駅の商店街にあった。僕が小学生の頃は、平日の放課後でも大いに賑わっていたのだが、今ではシャッターを降ろしている店の方が多い。残っているのは、大手チェーンだけだ。

 そんな商店街に足を踏み入れた時、ふと、篠原さんの足が止まった。


「どうしたの? 何か忘れ物でもした?」

「そういう訳じゃないんだけど……、ただ、本当にカラオケに行きたいのかなって……?」

「え?」


 彼女の言葉に、僕はドキリと胸が弾んだ。傘が雨粒を弾く音がなければ、心臓の跳ねる音が、篠原さんに聞こえてしまうのでは無いかと思うほどに……。


「どうして、そんなことを聞くのさ。僕はカラオケに行きたいに決まってるよ」


 そう言いながら、僕は視線を隠すように傘を落とした。

 そうしなければ、視線で本当の思いを悟られてしまいそうで……。

 僕達が歩く商店街。カラオケまでの道半ばには、僕が本当に行きたい場所があった。

 それは本屋だ。

 何故、僕が本屋に行きたいか。それは、今日は好きな作家の新作が発売される日だからだ。しかも、5年ぶりのシリーズの新作。本当ならば今直ぐにでも本屋に駆け込み、物語の世界に飛び込みたい。

 だけど……。


「篠原さんだって、カラオケは好きでしょ?」

「……そう、なんだけどさ」

「だったら、早く行こうよ! あ、そうだ。そう言えば、昨日のテレビ見た? あの芸人の一発逆ヤバくなかった? 僕、一人で凄い笑っちゃって」


 僕は自分の気持ちに靄をかけるみたいに、昨日見たバラエティ番組について話始めた。僕はあまり、テレビを見ないタイプだったんだけど、篠原さんと付き合い始めてから、毎日見るようになった。

 篠原さんは、僕に取っては雲のような存在。

 こうして、付き合えているのが奇跡だった。しかも、告白してきてくれたのが、相手からなのだから、奇跡に奇跡が掛け合わさった気分だ。

 普通なら、僕みたいな如何にも「図書委員です。」といった風貌の地味眼鏡が付き合える相手ではない。

 だから、僕は彼女に『嫌われない』ために、彼女の好きなモノに合わせていく。

 今はそれでいい。

 僕はそう思いながら、一度だけ本屋を振り返った。





「よし、到着!!」


 僕達は目的地であるカラオケ店に到着した。駅前という立地から、放課後は学生が集まる人気スポット。

 部屋が埋まっていなければいいのだけど……。

 今、ここで急いでも変わるわけはないと思うのだけど、それでも僕は急ごうと早足になる。

 だけど、篠原さんは違った。

 その場から動かなかった。

 雲が風に千切れたかのように、僕と篠原さんの間に僅かな距離が産まれた。たった数メートル。でも、なんだが、遠くにいるような感覚に襲われた。

 僕は自分の不安を押しつぶして、笑顔を作った。


「篠原さん、どうしたの?」


 笑顔を作った僕に対して、篠原さんが作った表情は反対だった。

 瞼から涙が溢れていた。


「……ごめん、ごめんね」


 篠原さんは、差していた傘を降ろして謝る。涙と雨が混ざりアスファルトに落ちていく。

 落ちる雨がなければ、時が止まったと錯覚するくらい、僕の脳は固まっていた。

 気の利いた言葉を掛ければ、無かったことになるかも知れない。

 でも、僕は何も言えなかった。

 篠原さんが、もう一度、ゆっくりと口を開いて自分の意思を告げた。


「……私達、別れようか」


『別れよう』


 それは、僕が一番恐れていた言葉だった。


「どうして、急に……」


 千切れた雲をかき集めようと足掻く僕に、篠原さんは涙で顔を歪めて叫ぶ。


「ごめん。私は弱いから耐えられなかったの。好きなモノを諦めていく友也の姿が。好きだった友也が、私の所為で消えていくのが嫌だったんだ」

「好きなモノを諦める……?」

「そう。今日、友也が好きな本が発売されるんでしょ? なんで、一緒に買いに行こうって、言ってくれなかったの?」

「それは――」


 本屋に行ったって、篠原さんは詰まらないと思ったから。

 彼女を放って、読書に集中する彼氏になんてなりたくなかったから。

 でも、でも、それは僕の思いだった。

 彼女の思いは違っていた。


「私は、どんな場所でも、誰に揶揄われても、好きな本を読み続けている友也が好きだった」


 彼女は言う。

 教室の中心。

 そこが僕の席だった。場所が場所だからか、カーストトップの男女に囲われる。休み時間、決して席を立たない僕を邪魔扱いするが、それでも僕は本を読み続けていた。

 その姿に――篠原さんは惚れたのだと言う。

 けど、篠原さんと付き合うようになって変わった。

 休み時間、僕は本を読むことよりも、篠原さんと話すことの方が多くなっていた。だって、普通、彼氏彼女はそうするものではないのか――。

 時計が急かすようにもう一度音を立てた。さっきまで、僕の話題で笑ってくれていた彼女の顔が、泣き顔に変わっていく。


「でも、今の僕は、それが好きで楽しいから――」

「分かってる。それも分かってるの。でも、私が我慢できないの」


 彼女は、何か諦めたように笑った。

 その笑顔は、僕に向けて時折見せていたあの笑顔だった。

 ああ、そうか。

 僕は彼女の笑顔の意味を全く分かっていなかった。

 分かろうともしていなかった。


「だから、ごめん」


 彼女は傘を置いて去っていった。

 彼女の立っていた場所には、僕が渡した黒い傘だけが残された。


「なんだよ。これなら、本屋に行けば良かった」


 好きなモノを我慢して、好きな人に我慢させていた。自分のことばかり考えていた結果がコレだ。

 心臓だけが熱を失ったかのように冷える。身体全てを飲み込むような黒く冷たい感覚。

 涙、全てを飲み込んでくれるかのような風穴。

 でも、今は泣きたくなかった。

 僕に残った最後のプライド。

 多分、それが彼女が僕を好きだと言ってくれた理由だから。

 僕は踵を返して本屋に向かった。

 そう言えば、今日出る新作も――失恋の物語だった。

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