5.赤い薔薇の女王さま

5-1

 嵐の前のような静けさの中、ひと月は瞬く間に過ぎ去っていった。

 少し物足りない紅茶を飲みながら、ヴィクトリアはじっと忠実な従者の帰りを待ち続けた。


 ここ最近連日しとしとと降り続ける雨が王都を濡らし、立ち込める暗い雲が気分をも塞ぐ。

 王太子と約束したひと月が経った今日、ヴィクトリアは王都の外れに在る墓地にやって来た。

 霧のように降る雨に傘は差さずにいるが、時間が経つにつれ少し冷えを感じる。その冷えと相まって、濡れた芝の鮮やかな緑の中で、等間隔に並ぶ灰色の墓石はあまりにも物悲しい。


 やり切れない物悲しさの中で思い出されるのは、父と二人で事業を起こした頃のこと。

 あの頃のヴィクトリアはまだ十代半ば。ナイト教授に気に入られ、教えを受け、居合わせた教授の知人にも多く紹介してもらったのは、子どもだったからというのもあったのだろう。


 カカオに出会ったのはそんな頃だ。

 美味しい珍しいものがあるのだとナイト教授にお茶の時間に出されたそれに感激し、あまりの美味しさにこれは何だと教授を質問攻めにしたことをよく覚えている。


 その後、ラトウィッジ海運の幹部に引き合わされたのも、あくまでヴィクトリアが子どもだったからこそ。その人にも胆が据わったお嬢さんだと気に入られたが、おそらく今のヴィクトリア相手ならあり得ないだろう。

 そんなに気に入ったのなら君が売ってみる? なんて、冗談半分のその言葉すら、子ども相手だったから。あるいは、父であるリデル伯爵がいたからこそのものだったはずだ。

 人望を集めるリデル伯爵がいたから、そのリデル伯爵の娘だったから。リデル伯爵が背後にいて、まだ子どもだったからこそ、だ。


 その言葉に食い付いたのはヴィクトリアで、そこに至るまでの後押しをしてくれたのは父だった。

 家族が揃った夕食の席で「商売をしたいのです」と言った時、娘を諫めるでもなく「とても大変なことだけど、ちゃんとがんばれるかい?」と確認して、「よし、じゃあぼくとヴィクトリアと二人でやってみよう」なんて嬉しそうに破顔した父は、やはりちょっと変わっていたと思う。


 当時十代の子どもが口にした無謀で無茶な言葉だ。

 それでも誰も馬鹿にしなかった。父も、教授も、みんながヴィクトリアを支えてくれた。それがどれだけ得難いことか、恵まれたことか、今のヴィクトリアはよく知っている。


 約一年をかけて入念に準備をし、それでもまだヴィクトリアは子どもだったため、社の代表にはリデル伯爵である父を据えた。

 多くの人の手を借りて事業を起こし、本当にラトウィッジ海運と契約を実現させたときはとても嬉しくて、父と手を叩いて喜び合った。


 油脂が多いカカオは扱い辛く、ラトウィッジ海運の特殊技術を使用して粉末状にしたカカオはその扱いやすさと物珍しさからどんどん売れていった。

 親類の御婦人方に配るなどした広告代わりの試供品が功を奏し、お菓子に混ぜるなどの汎用性の高さも手伝って。

 最近では、王家までもが粉末カカオに興味を示すほど。


 小さいとはいえ会社を経営するのは想像以上に大変で、トラブルもそれなりに多く、従業員や取引先にも気を配り、その後信用できる人を雇い入れ少しは負担も減ったけど、たくさん苦労した。

 ラトウィッジ海運の面々も最初の対応とは打って変わり、決して子ども相手の対応はしなかった。

 時に辛辣に一人の対等な取引相手としてヴィクトリアを扱い、ヴィクトリアもその誠意に応えられるよう努めた。

 苦労と同じぐらい、楽しくて充足していたように思う。


 たくさんのものを与えられた。

 父がいたからこそ、ヴィクトリアは多くのものを手にしてきた。もう、あの日々は戻らない。


 小さな墓石の上に真っ赤な薔薇の花束を供え、ヴィクトリアは石に彫られた父の名前を指先でなぞった。


「風邪ひく」


 背後から、そんな言葉と共に影が差し、降り注いでいた雨が止んだ。

 振り向いた先にいたのは、傘をヴィクトリアに傾けた平服姿のダンテだった。

 赤みを帯びたブラウンのフロックコートの肩を、霧のような細かい雨が濡らしていく。


 携えていた白い花束を墓石の上に置いたダンテは、先に置かれていた真っ赤な薔薇を見て苦笑した。


「君らしいな」


「私が父に贈る花です。これ以上に相応しいものはありません」


 赤い薔薇を墓前に供える者がそう多くはないことぐらいヴィクトリアも知っている。それでも、他に選択肢は無い。


 母譲りの鮮やかな赤毛に準えて、父からヴィクトリアに贈られる花はいつも真紅の薔薇だった。

 「ぼくの女王さま」、そう言ってヴィクトリアに薔薇を贈るひとはもういない。これから先は、ヴィクトリアが墓前へと赤い薔薇を捧げ続ける。


「……お父様は、いつも私らしくあれ、と」


「うん」


「子どもだからとも、女だからとも、一度も言いませんでした」


「そうか」


「ラトウィッジ海運との取引も、ヴァンホー商会のことも」


 音もなく、霧のような雨が降っている。

 まるで、ヴィクトリアの代わりに泣いているかのようだ。


「手伝ってはくれましたし、相談にも乗ってくれましたが、全部私の好きにさせてくれました」


 こんなことを聞かされても、ダンテだって困るだけだと分かっている。

 でも、言葉が次から次へと、口をついてくる。喋っていないと、代わりに涙が出てきそうだ。


「ナイト教授に会いに行きなさいって、行かないと後悔するよって。長く留守にするのは不安だったけど、ちゃんと待ってるから心配いらないって。戻って来たらたくさん話を聞いてくれるって……そう、言って……」


 そう言って、ヴィクトリアを帝国へと送り出した父はもういないのだ。

 その事実がヴィクトリアの心を、こんなにも打ちのめす。

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