4-2

 うやうやしく手紙を受け取るヘンリエッタの手は、ヴィクトリアのものより大きく指も長い。

 路上の片隅で、世の中の全てを恨んで淀んだ眼をしてヴィクトリアを見上げたあの頃よりも、ずっと大きくなった。

 大きく、頼もしく、誰よりも信頼に足る無二の従者となった。


 ヴィクトリアはこの従者の献身を信じている。

 ヘンリエッタになら、この手紙も、リデル家の行く末も、全てを託すことができる。


 手紙だけでは足りないことがあるかもしれないが、ヴィクトリア自ら赴くことはできない。

 帝国は遠い。万が一、ひと月で戻れなかったら、舞台に立つことすらできずに終わってしまう。

 ならば、ヴィクトリアに代りヴィクトリアの言葉を語ることができるのは、ヘンリエッタをおいて他にはいない。

 だから託す。ヴィクトリアとリデル家の命運を。


「任せてください。二度とあなたに不安など感じさせないよう努めます」


 ヘンリエッタが「ふ」と口の端を釣り上げて笑った。

 自信に満ちたその笑みに、心が奮い立つ。


 大丈夫、間違っていない。

 ひと月後、きっとヴィクトリアは望むものを手に入れるだろう。


「必ずや、あなたの望むものを持ち帰ります。何の問題もありません。自信を持ってください。あなたには、わたしが付いているのですから」


「ええ。でも、無理はしないで。必ず無事で帰って来てくださいね」


 ヘンリエッタの言い聞かせる言葉に自らも勇気づけられる。ヴィクトリアの顔にも自然と笑みが浮かんだ。


 満足そうな表情を浮かべ、手紙をエプロンの内側にしまったヘンリエッタがそこで不自然に動きを止めた。

 ヴィクトリアをちらりと見て、何かを言いかけ口を噤む。

 珍しく何かを言い淀んでいるようだ。


「どうかしましたか? 何か、気になることでも?」


 声を掛ければ、返答と共に返ってきたのはどこか恨めし気な視線。


「……そう、ですね。気になる、というより……実は少しばかり、傷心です」


「傷心……あなたが?」


 かつて全ての人間に見下され路上の孤児だったヘンリエッタは、今は世の中の全てを見下している。身分などとは関係ない別のところで。

 自分と世界を隔てる線を引き、冷静過ぎるほど冷静に世を俯瞰するヘンリエッタは、ヘンリエッタにとって路傍の石ころに等しい誰かの言葉にいちいち傷付いたりはしない。

 もし傷付ける誰かがいるとすれば、それは唯一主人であるヴィクトリアとヘンリエッタ自身だけだろう。


「そう、わたしが。ですから、主人に慰めてもらいたいと思ってます」


「なぐさめ」


 今一つ、その意味を図りかねる。


「あなたが……雑事とか言うからですよ」


 理解できないでいるヴィクトリアを視線で捉え、ヘンリエッタはくしゃりと自らの髪を悩ましげに掴んだ。


「くだらない雑事なんかじゃ、全然ないのに」


 その掴んでいた髪の毛が、ずるりとヘンリエッタの手の中に落ちた。


 現れたのは、やはり白っぽくてふわふわの、だが短髪の頭。

 髪で隠されていた頬や顎のラインが露になったその顔は、もう侍女には、女には見えない。

 生まれ持った性別の、男の顔をした従者が主人の顔を悩まし気に見下ろしている。


「なんで、オレじゃダメなんですか」


 誰でもいいならいっそヘンリエッタでも。ダンテの失言と、それに対するヴィクトリアの返答を思い出す。


 ヴィクトリアが見上げる先にある瞳は、ある種の熱を孕んでいる。

 主人であるヴィクトリアに、求めるものがある。欲している。今まで決して言葉にされることのなかったもの。

 決定的な言葉にはしない、でも、秘めきれていないものがある。


「オレを、選んで欲しいって言ったら……」


「ヘンリー……」


 開きかけたヴィクトリアの唇を、ヘンリエッタ、いや、ヘンリーの指先が触れて抑えた。


「やっぱ、いい。黙って。答えないで」


 今度こそ、ヘンリーははっきりと傷付いたのだと分かる表情で、ヴィクトリアの言葉を遮った。


 リデル家に養子として迎えたいと言った父の言葉を、頑として受け入れることをしなかった少年は、そのまま当たり前の顔をしてヴィクトリアの従者となって、いつのまにか侍女になった。


 父も母も苦笑して家族になることを諦めるのに納得がいかず、「弟になって欲しい」と懇願するヴィクトリアの言葉に傷付いた顔をした少年は、「あなたの弟には絶対になりたくない」と、珍しく声を荒げてヴィクトリアを傷付けた。

 互いを傷付け合う子どもたちを宥める両親とも、理由を説明してはくれなかったが、当時は理解できなかったその意味が、今は少し、わかりかけている。


 やはり、変わらないものなんて、ないのだ。

 いや、これは、変わらないものなのだろうか。


「……弟以外なら、なんでもいいって思ってた。でもそうじゃない。あなたの夫に誰かがなるのかもしれないと思ったら、頭がどうにかなりそうだ」


 男性にしては華奢な身体つき。それでも、鍛え上げた肉体が、その印象から受ける大多数の予想に反し力を発揮することを、ヴィクトリアはよく知っている。

 自分より何倍も体格の良い暴漢相手でも一切怯むことなく、俊敏に組み伏せ叩きのめすことができる。


 そんなヘンリーが侍女としてヴィクトリアの傍に付いているのは、ひとえにヴィクトリアの外聞を慮ってのことである。

 往々にして、自身と性別の異なる従者を持つ女主人は、その従者を褥に引き入れることがある。真実がどうあれ、そういう目で見られる。

 よく知りもしない他人の噂話など気にしない、構わないとヴィクトリアは言ったのに、ヘンリーは自らの性別がもたらす主人への醜聞は耐え難いと『ヘンリエッタ』と名前も姿も偽って、不便なばかりの擬装をして過ごしている。


「でも、今はいい。何でもする。役に立つから、だから、ずっとそばに置いてください。今はまだ、それでいいから」


 全て、たった一人の大切な主のため。ヘンリーが己の全てを捧げると誓ったヴィクトリアのために。


「今はまだ、それだけで我慢する。でも、忘れないで。あなたのためなら女にも男にもなるし、必要なら家名でも爵位でもどんな肩書でも用意します。あなたに心も身体も命も全部をあげられるのは、きっとオレだけです」


 ヴィクトリアはまだ、ヘンリーの想いに返す言葉を持っていない。それを、彼は十分理解している。

 ヘンリーの意外と武骨な指先が唇を離れ、肩に落ちた赤い髪をひと房、大切なものを扱うようにそっと持ち上げた。


「オレだけだよ。忘れないで」


 触れることすらない口付けを赤毛に落とし、ヘンリーは手を離した。


 今はまだ、答えを求める時ではない、そう自らに言い聞かせているのだとヘンリーはヴィクトリアに暗に知らしめる。

 まだ猶予をあげると、そう言われている。

 だから今はただ、献身的な従者が零した独白を盗み聞いただけだということにする。


 主人の心にほんの少しのさざ波を立てたことを見て取った従者は、それに満足したように僅かに口の端を上げた。

 自分勝手に慰められて、ヘンリーは今度こそ離れていく。


「必ず戻りますので、待っていてください。オレが戻るところは、あなただけだから」


 行先は帝国。ヴィクトリアの名代として。

 ヴィクトリアにできることは、祈ることだけ。祈って、信じて、待つだけ。

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