10. そんなすごい悪い人みたいな言い方

 これは、チェムさんが真っ青になって震えた日の事です。

 まだ春の真ん中らへんで、ちょっと肌寒い夜でした。

 

 契約書に名前を書いた日と同じ、チェムさんの仕事部屋。この時はお茶を出してもらえて、ケトさんは本棚の一番上で伏せていました。


 あたしに魔法を教えたのは誰なのかと聞かれましたから、エンリッキおじさんの事を話しました。話が進むにつれ、チェムさんの顔から表情も血の気も引いていきました。

 話し終わって、あたしはチェムさんが震える手でお茶を飲むのを見ていました。あたしもお茶を飲みましたが、ぬるくなってて苦くてあんまり、って思いました。

 チェムさんはカップを置いて言いました。


「その男」


 目が光ります。

「エンリッキ、と言ったわね。姓はわかる? 見た目は?」

 偉い人を野良猫に例えるのは失礼かもなんですが、カラスを狙うマートル裏の猫とよく似た目の光でした。

 あたしはお腹が、きゅっと縮んだ気がしました。

「わ……かり、ません。いつも、エンリッキおじさんって呼んでました。見た目は、そんなに。普通の感じです。背も、普通の大人って感じで、茶色い頭で、緑色の瞳がとてもきれいで、あとは……笑うと、ほっぺたがペコってへこみます」

「そう。えくぼがあるのね。どちら側?」

「えっと……」笑った顔を思い浮かべたら、顔が熱くなってきて、指があわあわしました。

「こっちです」

「左頬。ありがとう。使い魔が何だったかは見たかしら?」

「いいえ。おじさんはいつも、おじさんだけで来てました。動物だとかと一緒のところは見ませんでした」

「わかりました。あとで調べさせるわ」

 普通にお話しているはずなんですが、なんだか不安になります。

「あの、おじさんを、どうするんですか?」

「どう……? 会って、じっくり話がしたいところね。ねぇエーラさん。『大人にならない薬』と、その男は言ったそうだけど」

 チェムさんは「ゲロ吐いた」みたいな感じで「その男は」って言います。

「――他に詳しい事は聞いている?」

「あの、一日一粒飲めば大人にならない、って。それだけです」

「そう」

 ってチェムさんは少し考え、本棚の上に声をかけました。

「ケト、少し外してちょうだい」

 でっかい毛玉がとほどけて、ケトさんになって飛び降ります。あたし二人分より高い所から飛び降りたのに、足音ひとつしません。そのまま部屋を出ていきました。伸びあがってドアを器用に開け、同じようにしてちゃんと閉めました。

 その様子を見送って、あたしたちはお話を続けました。


「エーラさん。『月の物』って何の事か、知っているかしら?」

 

「聞いたこと、あります。でも来たことありません」

「わかりました。――巡って来たら、寮母さんに相談するといいわ」

「はい」

「ただ、あなたの場合は、周りの人と比べて遅くなるか――」チェムさんが唇を噛みました「もしかしたら、来ないかもしれない。その男の薬のせいでね」

「はい。――あの、おじさんのお薬って、やっぱりそういうことなんでしょうか」

「断定はできないけれど、そうでしょうね。魔女になれるのは初潮が、つまり月の物がまだ巡ってきていない女の子だけというのが定説だから。薬が本物ならの『大人にならない』というのは、そういう意味だったのでしょう」


 あの。


「あんまり、エンリッキおじさんを、そんなふうに言ってほしくないです」

 チェムさんの細い目が丸く開きました。

「あたしが、読んだり書いたりできるの、おじさんが教えてくれたからです。契約書に名前を書けたのだって、そうです……」

 おじさんが来てる時だけは、あたしは物置に隠れなくてよかった。

「いつも遊んでくれて、あたしの話だって馬鹿にしないでちゃんと聞いてくれたのに。お客さんだけどお母さんの誕生日もあたしの誕生日も覚えててなのに」

 チェムさんは、おじさんのこと、なにも知らないくせに!

「そんなすごい悪い人みたいな言い方、しなくていいじゃないですか!」


 チェムさんが、ひゅっと息をのみました。その息をゆっくり吐きだしながら言います。


「エーラさん。大人にならない薬が本当に効くのならなおさら、そんなものを子供に渡してはならないのよ。あなたぐらいの年齢で男の子も女の子も、大人に向かってどんどん体がかわっていくのよ。それは、その成長は、子供のもので、奪ってはならないものだわ」

「たのんだの、あたしです! あたしがたのんだから、だからくれたんですよ! 魔女になるために! オトナになるのをがまんするって約束しました!」

「だめです。それは、だめなのよエーラさん」

「チェムさんに何がわかるんですか!?」

「エンリッキが危険な魔法の使い方をしていることがわかります。エーラさん、私たちは怒鳴り合いをするために会っているんですか?」


 違うんですけど、違うって言うのいやでした。チェムさんの目をにらむばかりでした。


「エーラさん、聞きなさい。薬だけではありません。お酒の魔法もそうです。魔法で人の心を操るのは禁忌です。私たちが社会の中で生きていくために、私たち自身で厳しく規制しています。これ、教えてもらえましたか? エンリッキという人間は、大人は、そういう魔法をあなたに教えました。そして、あなたはそれをウェラン・エスタシオという一人の人間に使用してしまった。なんていうかわいらしいものではありません。エンリッキは、あなたに、悪い事をさせた大人なのよ。いい人なんかでは決してないわ」


 ウェラン・エスタシオ。画家のおじさん。あたしは画家のおじさんにこう謝ったのでした。


 ――おじさんも、娘さんも、危ない目に遭わせてごめんなさい。良くないことをさせてごめんなさい――

 

 なんで。なんで。なんで。

 怒るのとも、悲しいのとも違う気持ちでした。

 なんで。なんで。なんで。なんで。

 悔しかったです。何に悔しいのかわかりません。でも悔しかったです。

 おじさんはいいひとです。いいひとです。いいひとなんです。いいひとのはずなんです。

「あたしがやったんです。あたしがやったんですよ。あたしが、やったんですよぅ」


 ぼろぼろ涙がでてきて、チェムさんの前で泣くのも悔しかったです。なんで、あたしは、泣くばっかりで。

 チェムさんはコート掛けにかけてあった上着をとって、あたしにかぶせました。

 上着のつくった小さな暗闇の中で、あたしはずっと下を向いて、げんこつの上に涙が落っこちていくのを見てました。

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