六花とけて、君よ来い

増田朋美

六花とけて、君よ来い

かなり暖かくなり、過ごしやすい季節になってきた。そうなると、だいたい強風が吹いて、暖かい空気を運んできてくれるものであるが、同時に辛い気持ちになる人もいる。大概の人は、前へ進めて嬉しいという気持ちになる人が多いけれど、中にはそう感じない人もいることを、忘れないことも必要だと思われる。

その日、製鉄所では、水穂さんにご飯を食べさせるということを、相変わらず繰り返していた。どんな季節であっても、ご飯を食べさせるということは、必要なことはあるのだけど、それが、時折嫌なことになったり、辛いことになったりすることもある。ちなみに製鉄所というのは、鉄を作る場所ではなく、居場所のない人たちが、勉強したり仕事したりする場所を貸している福祉施設である。中には、水穂さんのように、間借りをする人もいるが、最近の事情もあって、間借りをしているのは、水穂さんだけである。

「もう、いい加減に食べてくれ!食べさせている僕の身にもなってよ!」

と、思わず杉ちゃんが言ってしまうほど、水穂さんはこの時期に御飯を食べなくなるのだ。本人に理由を聞いてみると、食べる気がしないという答えしか出てこない。例えばそれ以外に、体が怠いとか、熱があるとか、そういうことがあったらすぐいってほしいのに、水穂さんと言う人は、何も言わないから困ってしまうのだった。

「どうしたら、ご飯を食べてくれるようになるかなあ。あーあ、誰かアドバイスでもしてくれるやつがいないかな。」

杉ちゃんは思わず頭をかじってしまうのであった。何故か、情報が沢山溢れている世の中であるのに、こうして誰かアドバイスをくれるやつがほしいと思ってしまうのは、一体なぜなんだろうか。

しばらくすると、誰かが咳き込んでいる音が聞こえてきた。それをやっているのは、水穂さんで間違いなかった。ああ、もう、ほれほれと言いながら、杉ちゃんは水穂さんの背中を撫でてやった。水穂さんが咳き込むのは、口元から赤い液体が漏れてくるまで止まらないのだった。背中を撫でて吐き出しやすくしてあげることはできるけれど、本人が止めようと思っても止められないのだった。

「こんにちは。」

玄関の引き戸を開けてやってきたのは、柳沢裕美先生だった。茶色の御召の着物に、同じく茶色の被布コートを着て、頭には、縁無し帽子を被っている。草履を脱いで四畳半にやってくると、水穂さんが、苦しそうな顔をして内容物を出したのが、ほぼ同時だった。

「ちょうどよかった。お薬出しますから、ちょっと待ってて。」

柳沢先生は、持っていた薬箱を開けて、小さな紙の袋に入っていた粉薬を取り出した。漢方薬というのは粉薬が多かった。杉ちゃんが台所の場所を顎で示すと、柳沢先生は、そこへいって、カップに水を入れ、その中に薬を入れて、溶かした。それを持って戻ってきて、さあどうぞと言って水穂さんに飲ませると、やっと咳き込むのは止まってくれた。

「どうもありがとうございます。良いところに来てくれてありがとう。助かったよ。」

と、杉ちゃんが言うと、

「いえいえ、大したことじゃありません。今は、もっといい治療手段は色々ありますけどね。こういう代替医が役に立つのは、本当は、行けないことでもあるのかな。」

と、縁無し帽子を取って、柳沢先生は言った。それを取ってしまうと、みんな笑いだしてしまう。杉ちゃんなんかは思わず、河太郎みたいと言ってしまうのだ。それくらい面白い顔のハゲ頭の先生だった。

水穂さんが、薬が効いてくれて、気持ちよさそうに眠り始めると、また玄関の引き戸がガラッと開いた。

「こんにちは。水穂さんいますか?」

今度は女性の声である。

「はい、今大変なところだったから、もうちょっとまってくれ。」

と、杉ちゃんが言うと、

「大変なところって何?また発作を起こしたの?」

という返事が返ってきた。杉ちゃんが次の答えを考えている間に、その人はもう四畳半にやってきていた。

「水穂さんこんにちは。また大変だったみたいね。丁度いいわ。また新しい薬が開発されて、あなたに試してもらおうと思ってそれで来たのよ。」

そういう言い方をするのは、小杉道子で間違いなかった。道子は、四畳半に入ってきて、何がおきたのか、すぐわかった。畳の張替え代がたまらないと杉ちゃんが言っているが、それだけでは無いような気がした。

「ちょうど良いどころではないか。こんなにたくさん吐いて、すぐになんとかすることができたら、もうちょっと楽になれて済むのにな。」

道子はとても残念そうに言った。

「まあそうだけど、幸い薬を飲ませてもらって、止めることはできたから、それで良かった。そういうふうに考えなきゃな。」

杉ちゃんがぶっきらぼうにそう言うと、

「そうか。ここまでひどいんじゃ、肺が壊滅的にやられているんでしょうね。そうなると、あたしができることは、誰かに名乗り出てもらって、肺移植させてもらうしか無いかな。それが、一番手っ取り早いと思う。医療コーディネーターやってる知り合いも知ってるし、よろしければ、聞いてみましょうか?」

道子は医者らしく言った。

「そうだけど!お前さんの自慢話はもう聞き飽きたよ、ラスプーチン。」

杉ちゃんに言われて、道子はちょっといらっときた。

「あたしは自慢話なんてしてないわよ。ただ、できることを言ったまでよ。だって、良くなったら、またゴドフスキーを弾けるかもしれないじゃない。それを期待することはいけないことなの?それが自慢話になるのかしら?」

「まあ、それは一般の人だったらそうなるだろうね。だけど、水穂さんには、無理な話だよ。病院に入院することができたとしても、今年は間が悪いとか、変な患者がやってきたとか、そういうことを言われて、冷たい扱いをされるだけだよ。」

杉ちゃんは直ぐに反論した。

「じゃあ、私がそうしないように呼びかけるわ。他の医者にもそう言っておく。」

道子は、若い女性らしくそう言うと、

「いや、それだけでは解決しませんね。そうでなければ、同和問題が今まで議論されることもなかったでしょうからね。」

と、柳沢先生が言った。

「言い聞かせれば、解決できるかということは、まず無いよ。どうせ、医者とか、そういうものは、皆偉い偉いって褒められているから、水穂さんみたいな患者が来たら、バカにするに決まってる。挙句の果てには、放置されてあっちの世界へ言ってしまうことだって、ありえないわけじゃない。それは嫌だから、僕らは病院につれていけないんだよ。医療コーディネーターとか、そういう横文字の肩書持ってるやつだって、どうせろくなことはしないよ。まあ、それはしょうがないね。みんなそうなって偉くなっていくもんだからね。だから、水穂さんを、そういうところに、連れて行きたくありません。」

柳沢先生の言葉に杉ちゃんはでかい声で言った。

「それに、ラスプーチンもその年齢では、他の医者に言うことはできないでしょ。だったら無理なことはしないほうが良いよ。」

「でも、医者ですもの、あたしは、ちゃんと患者さんを見るためにいるんだから、」

道子がいいかけると、

「同和問題は、グリオーマを取ったら解決するかっていう問題じゃないよ。日本の歴史が関わってくることでもあるし、簡単に個人で立ち向かえるかってことも無いよな。」

と、杉ちゃんに言われてしまった。

「大事なのは、そういう人を、人種差別の渦に巻き込ませて向こうへ取られたということはなるべく避けたいんだ。だから、病院に連れていくことはしたくない。そういうのに理解ある医者なんて何処にいる?そんなやつ、果たしているかな?僕は、いないと思うよ。偉い人になればなるほど、自分のことばっかり考えて、患者を選ぶことだってできるようになるんじゃないんの。それに、適合する患者さんが早く出てほしいとか、そんなワガママをほざくことだってできるんだろうよ。同和問題は悪性腫瘍を取ることとは違うんだ。」

「でも杉ちゃん。水穂さんは、そういうのんきなことを言ってはいられないくらい、容態は深刻よ。もし、病院の人に、人種差別的な発言をさせたくないんだったら、なんとかしてあたしが止めるわよ。まあ確かに、ここにいられるよりは、いづらいかもしれないけど、一度でいいから、大病院につれてくるべきだと思うわ。」

道子は、杉ちゃんに言ったのであるが、杉ちゃんの代わりに柳沢先生が、

「いえ、無理ですよ。あなたはまだお若いから、同和問題と自分は無関係だと思えるから、そういうセリフが言えるんです。実際の現場に行ってみると、まだまだ日本には人種差別が残っていることはわかると思います。それに大事なことは、年上の人ほど、そういう感情を持っているということです。」

と言ってくれた。それを道子は、どうしたらいいのかわからないという顔をした。しばらく、四畳半に沈黙が流れる。聞こえてくるのは、水穂さんが、薬で静かに眠っている音だけである。

「そうだけど、やっぱりこのまま放って置くわけにいかないわ。病気の人を、このまま病院に連れて行かないで放置していたら、私が疑われるわ。大丈夫、肺移植の手術だって、あたしが、ちゃんとコーディネーターと連携を組んで提供者を探して上げることだってできるかもしれないじゃない。せっかく良くなる方法があるのに、それを使用しないのは、いけないことだと思う。」

道子は、その沈黙を破るように言った。

「まあ確かに倫理的に言えばそうなりますが、まだ日本でも世界のどこでも、それが通用しないことはいくらでもありますよ。」

柳沢先生に言われて、道子はまた頭に来た。なんだかこの爺さんに、同和問題のことを話されるのは、道子には余計なお世話をされているような気持ちになった。

「そういうわけだから、ラスプーチンはもう帰ってくれ。お前さんができることなんて、何も無いんだよ。どうせ、医者なんて偉いことしても、誰かのおかげでもあるなんて、これっぽっちもわかっていないんだ。きっと、お前さんのような人には、同和問題の事なんて、わかりはしないさ。」

杉ちゃんにそう言われて、道子は大きなため息をついた。そんな事、本当にありえるのだろうか。こんなに平和な日本で、人種差別があるなんて信じられないし、第一考えられない。道子は、水穂さんのことを理解できないというか、よくわからないのだった。いくら杉ちゃんにラスプーチンと呼ばれても、道子は、水穂さんを病院につれていくべきだと思うのだが、

「もう帰ってよ。お前さんにできることなんて何も無いんだよ。無理なものは無理だってば。どうせ、西洋医学にできることなんて腫瘍を取るくらいなもんさ。」

と、杉ちゃんに言われて三度、頭に来てしまった。

「もう!どうしてそんな事言うのよ!私がまだこの年だから、頼りにならないとでもいいたいの!それよりも、何も役に立たない爺さんのほうが役に立つわけ!あたしはただ、水穂さんに楽になってもらいたいから、それでなんとかしようとしているだけなのに!」

「おい静かにしてくれよ。お前さんが、怒鳴ったら、水穂さんが寝られない。」

杉ちゃんは、彼女にそういった。

「はあ、もういいわよ。あたし、帰るわ。せっかく、水穂さんに良くなってもらおうと思って提案しただけなのに、それが、同和問題で人種差別があるから、病院に連れてこられないですって!呆れてしまうわね。それでは、永遠に治りはしないわよ!」

道子はそう言って、製鉄所から出ていった。全く、杉ちゃんも柳沢とかいう老人もろくなことが無いと思った。そういう事言うんだったら、すぐに病院につれていくべきだと思うのだが。それでは水穂さんが救われない。それでは水穂さんが可哀想過ぎるような気がする。

道子は、道路を歩いていると、いきなり彼女のスマートフォンがなった。内容は病院からだった。

「はいもしもし。」

道子が、思わずそういうと、

「道子先生、すぐ来てください。さっきから何度も電話をかけているんですけど、なんで電話に出てくれないんですか。佐藤さんが大変なことに。」

電話の奥でそう言っている声がした。道子は電話を切るのを忘れて、急いで病院へ向かって走っていった。

道子が戻ってみると、上司の医者がなんでこんなに遅かったんだと叱った。道子は、すみませんすみませんと言いながら、上司の医者と一緒に、佐藤さんのいる病室へ行った。佐藤さんは、まだ若い男性だ。道子は、彼を絶対に死なせたくないと思った。上司の医者に言われて、道子は、点滴薬を準備して佐藤さんの体に刺したりしたが、佐藤さんの意識は戻らないままだった。上司の医者が、道子に親御さんを呼んでくるように言った。道子は、病院の公衆電話で、佐藤さんのご家族に電話した。佐藤さんの親御さんは、わかりましたといったが、どうもこんなときに動揺している様子が見えず、予めわかっているのではないかと思わせる印象なのが、不思議だった。

まもなく、佐藤さんのご家族が駆けつけてきた。このときは一応、戸惑っている顔をしている。それと同時に、佐藤さんの心拍数は全く反応しなくなった。上司の医者たちは、電気ショックをどうのとか言っていたが、佐藤さんのお母さんは、こういったのだった。

「あの、息子はもう元に戻ることはありませんよね。」

医者たちの手の動きが止まる。

「ええ、多分、意識不明の状態が続くほど、後遺症が残るのではないかと思います。」

と、道子は事実を言ったところ、

「そうなんですね。じゃあ、もうそのままにしてやってくれませんか?」

佐藤さんのお母さんは言った。一緒に来た医療コーディネーターと思われる女性も、彼女を不思議そうに眺めたが、

「ええ、無理なことは無理だと思います。もし命が助かって、息子が重度な障害を残したら、それはそれで、可哀想だというか、息子には、なにかを背負い続けて生きるようなことはしたくないと思いますし。」

とお母さんは言った。

「どうしてそういうことを言うんですか?だって最愛の息子さんでしょう?たとえ障害が残っても、生きていてほしいと思うことはありませんか?」

道子がそう言うと、

「はい、ですが、息子より長く生きることは、私にはできませんから。」

お母さんはきっぱりと言った。すると上司の医者が、

「わかりました。」

と言って、電気ショックの機械を外した。

「な、なんで!」

道子は言ったが、お母さんは十分に覚悟はできているらしく、

「先生方、ありがとうございました。これで息子も、安心して、人生を終えることができたと思います。最後まで息子を救おうとしてくれた皆さんに心より感謝しまして、私の言葉とさせていただきます。」

と丁寧に頭を下げるのであった。確か、佐藤さんは、薬を大量に飲んでこの病院にやってきたのではないかと道子は記憶していた。だけど、こういう延命措置を断るなんてあり得ない話だと思っていたのに、そんなことを言うなんて。まるで人でなしだと思う。

それ以降、道子はその日何があったか覚えていなかった。あとは、葬儀屋とか、枕経をあげてもらうとか、そういうことが過ぎていったが、道子は何も覚えていない。気がついたときは、もう帰っていいよと言われて、トボトボと道路を歩いていた。

翌日、佐藤さんのことは、葬儀関係者にまかせて、道子はまた病院に出勤した。いつもどおり更衣室へ行くと、看護師が、またなにか話している。

「あの昨日の佐藤さんね、あのお母さんの話だと、もう入院費とかが払えなくて、困っていたみたい。まあ、たしかにそうかも知れないわね。それで、息子さんが障害者になっちゃったら、生活していけないでしょうし、これで良かったのよ。」

「そうねえ。そうなってしまったら、どうしようもないか。まあ、世の中にはどうしようも無いことって本当にあるのよね。」

二人の看護師は、そう言っていた。道子は、そうなのかなと思った。どんな人でも、医療を受ける権利というか、健康になる権利があるとおもったけれど、そうでも無いのか。

そのまま看護師たちは、いつもの持ち場へ行ってしまった。こういう医療現場で働いていると、誰かが亡くなっても平気な顔でいられるようになってしまうものであるが、道子はなぜか佐藤さんの昨日の態度には納得できないものがあった。そのまま、診察開始時間が来て、診察を始めた道子だったけど、何処か上の空で、患者を診察していた。

とりあえず、午前の診察が終わって、道子は病院の食堂へ入った。また看護師が昨日の佐藤さんのことを話していた。なんでも、貧しい環境で転校先の制服を着ることができないで、前の学校の制服を着ていたという。それで、いじめにあっていて、そこから不登校になり、精神安定剤を飲み過ぎるまで飲んだということだった。看護師たちはこれで良かったと繰り返していたが、確かに、道子自信も、佐藤さんの境遇までも変えることはできないんだなと思った。ある意味、お母さんが、延命措置をやめてくれといったのは、佐藤さんへの愛情だったのかもしれなかった。

「でも、あの少年と水穂さんは違うわ。だって、水穂さんは、利用者や、杉ちゃんたちにも大事にされているんだもの。」

思わず、道子はそう呟いてしまう。

「それでも、水穂さんもこの世から旅立ってもいいと思う?」

答えは、何度自分に問いかけてもノーであった。

それだけはどうしても伝えなければ行けないのではないかと道子は思ってしまう。

道子は、今日も診察を終えると、製鉄所のある方へあるき出した。水穂さんにはやたらに逝ってほしくないと伝えるためだ。もし、誰かに邪魔されたりしたとしても、水穂さんは愛されている存在で、同和関係者であったとしても、愛されている存在であることは疑いない。この間の佐藤さんのような、存在では無いのだと伝える必要がある。

その頃、製鉄所では、また水穂さんが咳き込んでいた。今度は、柳沢先生が出してくれた薬があったから、ひどいものには至らなかった。杉ちゃんが、

「ラスプーチン今日来るかな?」

と、一言言った。

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六花とけて、君よ来い 増田朋美 @masubuchi4996

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