探し物はなんですか? 【KAC2023】

佐藤哲太

探し物はなんですか?

「それはまた、珍しいものをお探しで」

「……え?」


 寝耳に水とはこのことだ。

 僕は今まさに耳に入ってきた、まるで無色透明な、意識しなければ目の前で話されても聞き逃しそうな声を発した主へ、驚きの目を向けた。

 

 驚いたのなんて、いつぶりだろうか?

 それくらい、僕が感情を揺れ動かすことなんか、もうずっとなかったのだ。

 

 社会人というリールを外してから、もう大分経つ。外れたのでもなく、外されたのでもなく、自分で外したのは、2,3年前のことだろうか。

 それまでは敷かれたレールの上を、世の中の大多数と同じように歩いていた。義務教育を終えて、高校を出て、大学を出て、就職して。自分なりには中身が濃いと思い込んでいた思い出を積み重ねながら、そこまでは僕も普通、一般的、当たり前と世間が太鼓判を押すレールの上を歩いていた。

 でも、みんなで歩いているレールから外れようとする人を繋ぎ止める力は、そのレールには備わってなどいない。

 世界は真っ白いキャンバスのようなもので、何かを描かなければ、そこに彩りは訪れない。僕もかつては、自分の世界は色とりどりに彩られていると思っていたが、僕が美しいと思い込んでいた色は、絵の具に水を大量に混ぜた、近くで見ればわずかに色があるようにも見えるけど、遠目には無色と変わらない、そんな色だったのだ。

 だからあの頃ははっきりと感じていた色が、思い出が、もう今ではどこにも感じることが出来ない。

 

 リールを外したのに、大層な理由はない。

 ただちょっと疲れただけ、起きて、飯を食って、働いて、飯を食って、寝て、起きて……この繰り返しが何年も何年も続くと思った日、僕は疲れたと思ったのだ。

 楽しかった思い出も、寄るべにはならなかった。だってそれは、楽しかったと思っていただけで、本当は水のように薄い色で描かれたものだったのだから。

 そんな色で描かれたものなんだから、見ようとしても見えないのは、当たり前なんだ。


 だから僕は、簡単に自分のリールを外してしまった。

 社会の一員という、多くの人が自身のアイデンティティとしているであろう自分の居場所を、いとも容易く捨てたのだ。


 そこからの日々は、何もなかった。

 ほぼ手付かずだった自分の稼いだ金と、二十歳の時に死んだ両親の残した家と資産で、住むにも食うにも困らなかったのは、より一層僕の無を助長したんだと思う。

 

 だから、僕の感情は動き方を忘れていた。

 働かないでやることといえば、父が残した書斎の本を読み漁ることくらいだったのだが、置いてあったのは文学作品からビジネス書、歴史書、哲学書、伝記と、統一感もこだわりも見られない本がそこには眠っていたのだ。

 そのどれもが読み込んだ様子もない本たちで、書斎を持つ父親カッコいいとか、きっとそんなことを思って適当に流行りの本を買い漁っていたのだろうと、死後になって息子は知ったのである。


 そんなチョイスばかりだったので、たまに沸き起こるよく分からないフラストレーションをハッサンしようと何かを読んでも、結局は僕の心を動かすようなものは、何もなかった。


「幼い頃に読んだ気がする、心踊らせた冒険譚、ですよね」


 話を、戻そう。


 夕暮れの中、食料品を買いに行く途中、いつもの違う道を歩く中で見つけたのは、見るからに古ぼけた古書店だった。

 表には雑多に古めかしい雑誌が投げ売られるように置かれていて、おそらく年金生活の御老体が、趣味で営んでいるのだと思ったのだが、何か目ぼしい本でもないかとふらっと立ち寄ってみたところ、店内レジ奥で本を読みながら座っていたのは、おそらく僕よりも若い女だった。

 真っ直ぐな黒髪が、ゴールドのテンプルと縁の無いレンズの眼鏡にかかっているくらいが特徴の、失礼ながらいかにも没個性ですと周囲から評価されていそうな女性。

 今目にしていても、振り返ればもう顔を思い出せなくなりそうな、本当にそこにいるのかどうかすら確信が持てない、本屋の幽霊と言われても否定しきれない気がしてくる、そんな女性。

 そんな人が、今僕を見ている。


 いや、見ているんじゃない、話しかけてきているのだ。

 なんで話しかけてきているのか。

 そんなの当然だ。


 僕から彼女に質問したのだから。


 僕がした質問は、今彼女が言った言葉通り。

『幼い頃に読んだ気がする、心躍らせた冒険譚を探しているのですが』

 だ。

 

 なんでこんなことを聞いたのか、自分でも分からない。

 古めかしい古書店にいるとは思えないこの女に、何かちょっと意地悪でもしたくなったのかもしれない。

 はたまた、今口にした探し物が、僕自身本当に探しているものなのかもしれない。


 自分の心の在り方を見失って久しい僕には、今自分が取った行動の理由すらも、よく分からなかった。


「ありますか?」

「そうですね、ないこともない、とは思うのですが」

「歯切れの悪い回答ですね」


 聞き返してきた彼女へ、僕も聞き返す。

 予想外の答えを返してきた彼女に、僕は何か期待をしてしまっていたのだろうか、その後続けられた平凡な言葉に、もしかしたら少し苛立ったのかもしれなかった。


「子どもの頃の感覚と大人の感覚は違うものですから、今読んでも同じように感じるとは限りませんよ」

「それはそれでいいじゃないですか。あの頃の気持ちと、今の気持ちと、どちらもあの本に対する感覚なのは同じなわけですし、その違いを楽しめばいいわけで」


 自分の心がまた定位置に戻っていくのを感じながら、僕は彼女と会話を続けた。

 僕よりもずっと背の高い本棚に囲まれた店内は、地震でも来たら生き埋めになること間違いなし。

 僕の言い分を受けて彼女が何と言うか、返事を待つ間に僕はそんなことを思っていた。


「そう、ですか」


 嗚呼、最初の返事は偶然だったのか。

 いつの間にか彼女は僕の言い分にひっくるめられ、言葉を減らしてしまっている。

 つまりそういうことなのだ。

 彼女も普通、常識、一般論。そういった類の思考をしているだけなのだ。

 最初の言葉も、二十代の半分を過ぎた男が、童心に帰りたいみたいなことを受けての発言だったのだろう。

 

「でも、本当にその本をお探しですか?」


 適当に言いくるめて、結局見つからないじゃないかと、時折排泄物のように生まれてくるフラストレーションのようなもやもやを、一時的に発散するための時間にしてやればいいやと、たかを括っていたのに。

 本当に探しているのか、そう尋ねてきた彼女の眼差しが、宿す瞳が、存在感を増した。


「どういう意味ですか?」


 そんな存在感に気圧されて、僕は強がって言葉を返す。

 だが——


「言葉通りです。それ以上も以下もありません」

「なんですかそれは」


 呆れた女だ。

 いや、聡明な女かもしれない。


 もし、もし本当に、彼女の言葉が、本当に言葉通りならば。


「だって——」


 嗚呼これは、後者かもしれない。

 彼女の瞳の強さが、それを感じさせる。


「あなたは本当にそんな本、読んだことあるのですか?」

 

 その言葉に、僕は言葉をすぐに返せなかった。

 周囲を囲む本たちが、僕を一斉に見上げ、見つめ、見下ろして、居心地が悪いったらありゃしない。


「なんでそう思うんですか?」


 それでも、僕は絞り出すようにそう聞き返した。

 そんな僕に、彼女は——


「あなたの中に、そういった物語がないものですから」

「これはこれは。超能力か何かですか?」

「いえ、そんな大層なものじゃありませんよ。ただあなたが見てきた物語は、きっと違うものだと、この本が教えてくれたんです」

「……この本?」


 そう言って彼女が差し出したのは、真っ白なハードカバーの、一冊の本だった。

 タイトルも作者も何もない、変なセンスの本だと思った。


「お読みになりますか?」


 変な本だと思うのに、細く白い腕が差し出しその本に、僕は手を伸ばしてしまう。

 その本から、目が離せない。


 そして、その表紙をめくる——








「……ん」


 目を覚ませば、見飽きたほどに見慣れた天井が、そこにあった。

 そこは昔からずっと変わらない、自分の部屋。

 ああ、昔こうやって天井を見上げながら、失恋した夜に一人こっそり泣いたっけ。

 懐かしい。

 あの頃好きだったあの子、今は何してるのかな?

 その後、仲間たちが慰めてくれたんだよな。みんないい奴らだったよな。元気かな。


 ……あれ?


 どうして僕は、思い出している、いや、思い出せているのだろう?


 ふと身体を起こして、机の上に目をやると、そこに——


「こんな本、置いてたっけ……?」


 子どもが塗りたくったように、色とりどりに彩られたハードカバーの表紙は、あまりセンスがいいとは思えなかったけど、不思議と汚いとは思わなかった。

 そしてずっしりと重たいその本を手に取って、パラパラとめくり——


「あ……」


 思い出す。

 これまでの人生で経験してきた、あれやこれや。

 泣いて笑って怒って悲しんで。

 喧嘩して謝らなかった子どもの頃。

 両親に手を引かれて歩いた街並み。

 負けて引退して、騒ぎ明かした高校時代。

 合格の二文字に人生が報われた気がした大学受験。


 それはこの本の表紙を彩る色たちのように、みんなみんな濃くはっきりとした色で着色されていて、水で薄めたような色なんかでは、決してない。


 どうしてそう思い込んでいたんだろう。

 なんで勝手に、一人で。


 外したリールはもう付けられないって、逸れたレールには戻れないって、どうして決めつけていたんだろう。


 無になったんだと思い込んでいた期間の自分が、情けなくなる。

 でもこれも、僕なんだ。


 一度本を机に置いて、一瞬の瞬きをしている間に、あの本屋で渡されたはずの本は消えていた。

 渡してくれた女性の顔も、もう思い出せない。


 でも、僕の胸に、脳に、蘇ってきたものは、残っている。


 まだ何でも、やり直せる。


 胸の中を彩る色たちが、僕の気持ちを奮い立たせた。






 あの本屋が何だったのかは分からない。

 あの女性がなんで僕の心を見抜いたのかも、僕には分からない。

 けれど、僕が本当に読みたかったものは、思い出したかったことは、あの本屋がくれた。


 これから僕は自分の足で歩く。自分の過去を背負って、自分の思い出を胸に刻んで、歩いて行ける。


 きっとあの本屋は今もどこかで、営業しているのかもしれない。

 訪れた人の物語が綴られた本を、本棚に置いて。

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