いち. 伊藤 珠里 ~一方的に頼っていた友よりは、恋愛を選びます~

いち. 1

 

 中学三年の晩夏。


 受験校の最終決定を間近にした伊藤珠里じゅりは、弟の部屋を襲撃していた。


(ほんの参考よ、参考…——)


 などと胸の中で言い訳しながらも、しつこく、くいさがる。


「ちょっと…。聞いてるの?」


 弟の嵩晃たかあきが鬱陶しそうに眉をひそめ、無視を決め込もうとしたので、珠里じゅりは、その頭にあったヘッドセットを指先で軽く押さえて、ぐいっと後ろにずらした。


「何するっ!

 …邪魔だからあっち行け。シュウの進路なんか、おまえに関係ねーだろ」


 嵩晃たかあきがヘッドセットを装着しなおしながら、画面に視線をもどす。


 《音楽バカ》を自称する彼は、マウスを片手、創作した旋律の手なおしなのか、誰かの曲のアレンジなのか、よくわからないことをしている。


 彼が夢中になっている画面には、可動性のグラフや数値の羅列。

 彼女には解読不能な記号や数字に加え、同時進行の譜面らしきものが表示されている。


 それこそ、ばかみたいに没頭する弟が、暇していることは少ない。


 いちいち気を使っていると、コミュニケーションもとれなくなるので、姉の珠里じゅりの方にも遠慮がなかった。


「教えてくれたっていいじゃない。知らないなら聞いてよ」


「…こだわるよな…。おまえ、あいつに気でもあるの?」


「友達に頼まれたんだってば。学校祭ガクサイ以来、あの子、人気があるのよ?

 あんたの学年もそうなんじゃないの?

 元凶あんたでしょ」


 彼女が反論すると、嵩晃たかあきは、ついと聴取機器の右の方だけを耳の手前下にずらした。


「知ったって意味ねぇだろ。その時にならなきゃ、どこ行くか、わかねーんだしさ。

 それより、その聞いてくる友達って、ユキとかっていうヤツ?」


「って…なに? ユキって、ぱっと思いつくところで何人かいるけど…」


 瞬間的に、うろたえ、とまどったようにも見えた姉の反応に、崇晃たかあきが微妙に不可解な顔をしている。


「名前のやつとー、苗字のやつ。クラブの一年に一人…。

 あとはぁ、結城?

 あっ、湯木に妹いたかもっ」


「おまえのクラスの女にいるだろ」


嵩晃たかあきって、ひぃさんに会ったことあったっけ?」


「なに? その『ひーさん』ての」


「あだ名かな? よくわからないけど、そう呼ばれてる。

 たぶん名前の『姫』の字か…苗字の始めの音からだと思う。苗字が日野原だからね。

 ほかにも『ゆうさん』とか…。呼び名、色々あるよ」


「へぇ…」


嵩晃たかあき、興味あるの?

 惚れちゃった?

 ひぃさん、(かなり)かわいーし、キレイだし、いきでかっこいいもんねー。

 あんた、あーゆうのが好み? やっぱ、面食いだねー、

 男って、救いないわー」


「真面目に聞いてるのにからかうか。なんでも恋愛に搦めてんじゃねーよっ!

 これだから女は……

 (――救いないって、ひぃさんってやつは、ひどいやつなのか?)。

 容姿が微妙な女が、ひがんでるようにしか聞こえねぇーし」


「それって、セクシャルハラスメントって言わない?」


「はぁ? 自分らの言動、態度には鈍感なくせ、そうやって、なんでもかんでもこじつけて自分守ろうとするのはどうなんだよ。

 俺に言わせりゃ、女の方がよっぽど強かだ」


「むぅ。どっちが鈍感よ。自分のこと棚に上げて!

 世の中、女に甘いようで辛いもの。守りにまわって何が悪いのよ。

 男なんて、道はずれると何するかわからないじゃない」


「それこそ言いかがりだろ。人間ひとをどれもこれもいっしょにするな!

 真面目にうっとーしいから! 

 姉貴おまえとまでジェンダー論争したくねぇってのっ」


「なによそれ」


「ふんっ。女にもおかしいのはいる! それより、シュウの話だろ。

 あいつは、俺とおなじ…普天高ふてんこうかもな。

 冗談か知らねーけど、気になる奴がそこ志望だとかって、このまえ、言ってた」


「え…」


「答えたぞ。もう出てけ! おまえ、まじめに邪魔だから」


「どうして普天ふてん? あの子、たしか、頭、良くなかった? 評判だけ? (それとも)成績おちたの?」


普天ふてん(を)なめるなよ? 蓋あけてみれば、ピンもキリもいて、専攻選択でT大K大狙える特進コースだってあるんだ!

 あそこ選ぶ理由は、成績の良し悪しだけじゃない…」


 攻勢に転じた嵩晃たかあきが、ふっと思いなおしたように口を閉じたので、珠里じゅりは、なんとなく沈黙した。


 こころなしか、視界にある弟の頬がふくらんでいる。


「おまえ、もしかして普天ふてん、受ける気か?」


(うっ!)


 鋭くも不機嫌そうな切り返しに、珠里じゅりはひるんだ。


 一重なのに大きくて、凜とした弟の目が、真面目に彼女を見すえている。


 それは、いまの際まで彼女にはなかった選択肢で…。

 目の前にいるが、公然と目指している学校でもある。


 後ろめたい部分を秘め置くとしても、白状することに、かなりのプレッシャーをおぼえた珠里じゅりである。


 しかし。


 いま、自分がとりたい行動を考えると、その選択を否定することまではできなかった。

 結論として、迷いつつもうなずいた。


 通学をかぶらせるくらいのレベルでとらえていたが、彼女としては、手が届くのであれば、挑戦したいのだ。


 弟に頼りきることもなく、その対象と関わるきっかけ…環境が築けるなら、欲張ってもそうしたかった。


「友達が受けるから…いちおー考えてみているの」


 とりあえず、すっとぼけておく。


「よほどの理由がなければ、それなりの点数いるぜ?

 いまからじゃ無茶じゃね? おまえが普天ふてんなんて、初めて聞いたし。

 私立行かれるよりかは、金かからねーけど、そもそも入れねーだろ」


「うー…。あそこ、制服かっこ良くて、公立にしては変わってて、自由で進歩的で末広がりだっていうから捨て難いんだよぅ。

 ボーダーラインの幅、広いみたいだから、がんばれば、ぎりぎりすべり込めそうだし?

 ダメ元で受けてみようかな、なんて…。

 思ったりもして…(しなくもなくて…)。

 でもみんな、どうしてランク下げるんだろーね?」


「確実そうで、金かからないところ狙ってんだろ。

 金持ちでも、身の程しらずのブランド目的でもなければ、フツーはそうする」


「だって…。普天ふてんは、倍率、低くないよー? 公立にしては(学費)高くつくって聞くけど…」


(はっ、「聞くけど」程度じゃ、普天ふてんのこと、たいして調べてねーな)


 嵩晃たかあきが侮蔑の視線を姉に向ける。


「それでおまえは、だいじょうぶなのかよ。

 なにがなんでもって気概ないなら止めとけ。無駄だ。受験料、もったいない」


「勉強するし、併願保険かけるもん!」


 ひっこみがつかなくて、珠里じゅりがくいさがると、肩で息をした彼女の弟は、目を座らせて投げやりに告げた。


「なら、テキトーにがんばればー?

 姉貴おまえとおなじなんて、ぞっとしないけどな、まぐれで入れるかもしれねーし…。

 撃沈しても腐るなよ? まわりが迷惑だ」


他人事ひとごとだと思って…。

 あんただって、そろそろ、油断できないでしょ。すぐにも、わが身なんだからね!」


 不愉快な心情そのままに視界にある頭を威嚇してから、身をひるがえした珠里じゅりは、そそくさと足を進め、弟の部屋の扉をばふんと後ろ手に閉めた。


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