第3話 英国紳士の矜持
その男の走りは早すぎて実体が見えなかった。ただ、残像が残るのみ。そして素早い手の動きはかまいたちのようだった。彼が通った後の住宅のポストには全てチラシが収まっていた。彼の名は藤堂 研。しかし、その神業を見て皆は彼をこう呼んだ。
ポスティングマスター研 ‼
第三話 英国紳士の矜持
(1)
ポスティング中の研は、そのかん高い音色が近づいてくる事に気づいて、その動きを止めた。音色のする方をじっと見ていると、やがてバグパイプを吹きながらキルティングスカートを履いた金髪の若い男がやって来た。そして、数歩後から仕立ての良い高級そうな黒いスーツに身を包んだ渋い英国紳士が傘をステッキのように左腕に掛け悠々と歩いていた。スーツと同じ黒の山高帽を被りピシッと背筋が伸び、かくしゃくたる雰囲気が漂っている。彼は執事と思われる男から一枚一枚チラシを受け取るとスッと住宅のポストに差し入れながら歩いていた。
何事かと玄関から出てきたおばちゃんに
「ゴキゲンヨウ。マダム。」
と言いながら、その手にそっと口づけをして直接チラシを手渡した。
おばちゃんは乙女のように恥じらい、その目はウットリしている。
「チャールズ・リットン卿だ。」
いつの間にか研の側に来ていた先輩の岩田が呟いた。
「誰です?それ。」
「お前、リットン卿を知らないのか?スコットランドの名家で十四世紀の頃からポスティングをしている名門中の名門だ。かのエリザベス女王の邸宅にポスティングを許されている唯一の貴族だ。」
「へぇ~。でも何故この豊川町に?」
リットン卿は研たちに気づくと歩みを止めた。バグパイプの男は吹くのをやめ直立不動になった。
「アナタガ、ポスティグマスターケンデスネ?オウワサハ、スコットランドマデ、トドイテマス。」リットン卿が巧みな日本語で話しかけた。
「オー、ハジメマシテ。ドモドモ、ワターシ研デス。」外国人に話しかけられて舞い上がりながら研が答えた。
「一体、YOUは何しに日本へ?」
岩田が冷静に尋ねた。
「ワタクシハ、ケントショウブヲシニキマシタ。」
「勝負⁈」研が素っ頓狂な声で驚いた。
(2)
「ワタクシ、ポスティング、スピードハヤイネ。ドチラガハヤイカショウブシマショウ。」
「面白い。やりましょう。」岩田が言ったので研は迷惑そうに言った。
「先輩、勝手に決めないでくださいよ。」
「馬鹿。リットン卿に勝ったら世界的に有名になれるぞ。世界中の女からモテモテだぞ!」
「やります。直ぐやります。」
研が即答した。
勝負は協議の末、この豊川町全体を先に配り終えた方の勝ちとすることに決まった。
勝負の合図、岩田が空砲を撃った。
研は素早く走り、次々にポストにチラシを差し入れる。そしてチラリとリットン卿の様子を見て動揺した。
執事が後ろで蓄音機を持っている。流れる曲はアーヴィング・バーリンの「チーク・トゥ・チーク」。その曲に合わせてダンスを披露するリットン卿。さしずめフレッド・アステアの如き優雅さ。クルリとターンしてチラシをスっとポストに入れる一連の動きが淀みのない流れのようだった。研が一番驚いたのはリットン卿がポストを見ていないことだ。所作が美しく見えるのはその為だった。肌感覚で的確にポスティングする技術に研はしばし茫然と立ち尽くしウットリした。
「芸術だ。ポステングの芸術。・・・」
岩田も陶然として呟いた。
二人がその至芸に酔いしれているうちに
リットン卿がどんどん先に進んでしまっている。
「しまった!」岩田が我に帰り、研を揺り動かす。
「あ。マズイ。」研も慌ててポスティングを再開するがリットン卿はもうゴールに近づいていた。このまま研は負けてしまうのか⁈
すると突然、研がおもむろに鳩時計を出し「リットン卿―!」と叫んだ。
リットン卿が振り返ると鳩が出てきて三回鳴いた。
「ジェームズ!」リットン卿が執事の名を呼んだ。
「三時。午後のお茶の時間だ。用意をしなさい。」
「はい。旦那様。」
リットン卿はポスティングをやめ、執事がどこからか運んできた椅子に座り、テーブルの上に用意されたスコーンをつまみながら紅茶を飲み始めた。その間に研は先にゴールした。
「やったな。研!」岩田が興奮して言った。
研はあまり嬉しくなかった。そしてリットン卿に尋ねた。
「そんなにお茶の時間って大切なんですか?」
リットン卿は何気ない顔で、
「仕事よりはね。」とだけ言った。
「そうなの?・・・」岩田が呟いた。
研には難しくてよく判らなかった。
(エンディングテーマ)
ひとり、今日もひとり。
ポストにチラシを入れる日々。
開始と終了をリアルタイムで
報告しないと駄目。
ああ、ひとり、今日もひとり
あの角を曲がれば
家がなければいいのに。
ラララ、ルルル。
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