第十章 天泣

第十章 天泣てんきゅう


       一


「まぁ、政夫さん殺害を持ち掛けたのがあんたじゃないなら、その件では逮捕出来ないな」

「当然だ」

 剛が虚勢きょせいを張る。


「と言う訳で……田中剛、田中尚子殺害の容疑で逮捕する」

 紘彬の合図で如月が逮捕状を読み上げ始める。

「尚子の事件はもう時効……!」

「殺人事件の時効は無くなったんだよ。無くなってなかったとしても二十五年だから、どっちにしろまだ時効じゃない」

「二十五年? 十五年じゃ……」

「ホントに情報が古いな。それは二〇〇四年までだ」

 二〇〇四年の法改正で時効が二十五年に延び、更にほんの数日前、時効廃止が成立して即日施行され殺人事件の時効は無くなった。

「もしかして、二〇一四年に時効になったお祝いでもしてたか? なら糠喜ぬかよろこびだったな」


「ホントにお前が尚子や政夫を殺したのか? 由美さんや真美まで……」

 陽平が信じられないと言う表情で訊ねた。

「政夫だけ殺しても真美が残ってたら、政夫が相続する遺産は真美に行くだろ!」

代襲相続だいしゅうそうぞくの事は知ってるんだな」

「桜井さん!」

 意外そうに言った紘彬を如月がたしなめた。

 剛がむっとした表情を浮かべる。


 遺産相続は配偶者が半分、残り半分が子供の分で兄弟がいればそれを分ける事になる。

 陽平の場合なら昌子が半分受け取り、残り半分を剛、政夫、尚子が相続する事になっていた。

 つまり二分の一を三人で分けるので六分の一だった。


 尚子は子供がいなかったから、亡くなった時点で陽平の遺産を受け取れる子供は剛と政夫の二人(四分の一)になった。


 政夫は尚子と違って子供(真美)がいる。

 政夫が死んでも真美が生きていれば政夫の相続権は代襲相続として、そのまま子供(真美)が受け継ぐから剛の相続分は四分の一のままだ。

 真美に子供がいる場合、真美を殺しても真美の子供が再代襲という形で陽平の遺産の相続権が移る。

 相続権は胎児であっても発生するし真美は子供を産める歳だ。

 いつ子供が出来てもおかしくない。

 真美が子供を産んだとしたら政夫と真美を殺しても、真美の子供が陽平の遺産を再代襲する。

 政夫だけ殺しても、政夫の下の世代がいる限り剛の相続分は四分の一のままである。

 剛が子供の相続分を独り占めするには政夫だけではなく下の世代も殺す必要があったのだ。


「ま、遺産目当てで他の相続人を殺すと相続権は剥奪はくだつされるから政夫さんを殺す前にお前の相続権は無くなってたんだけどな」


 尚子が殺された頃、既にシスABは発見されていた。

 AB型の遺体がAB型とO型の夫婦の子供のはずがないなどとという先入観を持たずにDNAによる親子鑑定をしていれば、遺体が尚子だという事が分かったし、そうなれば滑車から遺体の血縁者の血痕が検出された時点で、二人の兄に疑いの目を向けていたはずだ。

 事件直後ならもっと沢山の物的証拠を見付けることが出来ただろう。

 尚子の事件で剛が逮捕されていれば政夫一家――真美が殺される事もなかったはずだ。


「尚子さんは遺産目当てじゃなかったって言っても無駄だぞ。今、自分で認めたからな。ここにいる全員が聞いてたから言い逃れは出来ない」

 紘彬はそう言ってからテーブルの上に置いてある小さな箱を指した。

「あれはオンライン会議用のカメラとマイクだ。音声を拾うと自動的に撮影を始めるんだ」

 だからわざわざ会議室に呼び出したのである。

「今のやりとりは全部隣の部屋で他の刑事達も見てたし記録もしてる。そうじゃなくても小林次郎のデータもあるしな。今頃、田中政夫一家の強盗殺人教唆きょうさで逮捕状取りに行ってるはずだぞ。てことで、まどかちゃん、上田、頼む」

 紘彬がカメラに向かって声を掛けるとドアが開いて団藤と上田が入ってきて剛に手錠を掛けると部屋から連れ出した。

 その様子を陽平と昌子が呆然と見送った。


「財産目当てに弟妹きょうだいを殺すなんて……」

 信じられないと言う表情で陽平が呟いた。

「以前、お宅にうかがったとき先代の社長から会社を陽平さんが引き継いだって仰ってましたよね」

「え、ええ」

 紘彬の言葉に不意を突かれた表情で陽平が振り向き頷いた。


「峰ヶ崎株式会社は最初はお菓子の会社でしたよね」

「うちの会社まで調べたんですか?」

 陽平が不愉快そうな表情を浮かべた。

「祖父が言ってたんです。曾祖母が峰ヶ崎のお菓子が好きで、祖父を上野動物園に連れていった帰りは必ず峰ヶ崎菓子店に立ち寄っていたと」

 紘彬の言葉に陽平の表情がやわらいだ。

「菓子が入っていた缶は小物入れとしてだ使ってますよ。祖父はその缶を見る度に曾祖母と一緒に食べたのを思い出すと言ってました」

「それは申し訳ない」

 陽平が笑いながら謝った。


「会社の経営が厳しくなった時に金属加工を始めたんですよ。それがちょうど高度成長期の始め頃で運良く波に乗れたものでそのまま金属加工に変えたんですよ」

「高度成長期って終戦直後ですよね? 陽平さんはそんなお歳には見えませんが」

「いえ、高度成長の最初の神武景気でも終戦から十年近くってますよ」

 陽平が苦笑いした。

「そうですか。祖父母が小さかった頃なので高度成長期の話はほとんど聞いた事なくて……」

「もう歴史の話になってしまってるんですね」

 陽平が遠くを見るような表情を浮かべた。

「金属加工を始めたのは峰ヶ崎さんですか? それとも田中さん?」

「峰ヶ崎です。東京オリンピック開催が決定した翌年に所得倍増計画が発表されたんですよ」

 東海道新幹線開業や首都高速開通決定、地下鉄工事などで金属加工の需要が増えていた。

 オリンピック開催が決定したから特需も見込まれる。

 それで最初は菓子作りと兼業で金属加工も始めた。

「当初は一部門だけだったんですが、その一部門の収益が予想以上に大きかったんです」

 そこで金属加工業に主軸を移すと会社は一気に飛躍して大会社になった。


「峰ヶ崎は愛妻家でしてね。常々奥さんが海外旅行に行きたがっているから連れて行ってあげたいと言っていて。でも菓子ではそんなに儲からないので……」

「缶の蓋の絵がエッフェル塔なんですけど、もしかしてパリですか?」

「そうなんです! 峰ヶ崎は出張でパリに行く事になった時、奥さんの分の飛行機のチケットも予約したんです。ようやく奥さんをパリに連れていけると喜んでました」

「……それは誰から聞いた?」

 紘彬が訊ねた。


       二


「その事を知っていたのは峰ヶ崎氏とチケットの手配をした山本慎也氏だけだ」

「それは、もちろん峰ヶ崎から……」

「飛行機のチケットは旅行会社で社長をしていた山本氏に無理に頼み込んでようやく取れたんだ」


 昭和四十二年(一九六七年)六月九日の夕方、なんとかチケットを押さえた山本は帰宅途中に峰ヶ崎の会社に立ち寄ってそれを伝えた。

 社員は全員帰った後で峰ヶ崎は一人で残業していた。

 峰ヶ崎が仕事中だったから山本はすぐに帰った。

 山本が帰ったのが十九時半。

 峰ヶ崎はその一時間後、会社近くの人気ひとけのない路上で遺体となって発見された。

 死亡推定時刻は山本と別れた三十分後の二十時頃。

 死因は頭部外傷。

 側に止まっていた工事車両に血痕があった為、そこに頭を打ち付けたのだろうという事になった。

 事故か他殺か調べるために関係者全員から事情聴取をした。


「儂も警察に話を聞かれたから覚えてますよ。あれは事故だと……」

 陽平が戸惑ったように答えた。


 山本は死亡時刻の頃、家に着いている。

 死体発見場所から山本の自宅までは三十分近く掛かるから死亡時刻に家にいたなら殺すのは無理だ。

 家族や社員などを含め、関係者は全員アリバイがあった事から転んだ拍子に事故車両に頭をぶつけたのだろうと結論付けられた。


「あんた、その日は出張中だったって供述してるな。なんでチケットのことを知ってるんだ?」

「あ、葬式の時に奥さんから聞いたんでした」

「その話は奥さんは知らない。知りようがないだろ、峰ヶ崎氏が山本氏からチケットが取れたと聞いたのは死ぬ三十分前なんだから」

「山本さんが帰ってから電話……」

「してない。会社の電話に通話記録はなかった」

「けど、会社を出た後に公衆電話を……」

「峰ヶ崎氏が亡くなったのは都市部でようやく一般家庭に固定電話が普及し始めた頃、公衆電話も少なかった」

 屋外に設置された赤電話は十円玉を入れないと掛けられないという仕様上、電話機内部に金が貯まっていく。

 そのため盗難防止策として夜間は仕舞しまうところが多く、終日使える公衆電話は少なかった。


「少なかっただけで全く無かったわけでは……上野なんだし……」

「するはずないんだよ。その日、峰ヶ崎氏の自宅の電話は故障してて使えなかったから」

 陽平が息を飲んだ。

 出張中だったから電話が故障していることを知らなかったのだ。

「電話で教える気があったんなら会社から掛けるだろ」

 山本は峰ヶ崎の訃報ふほうを聞いてすぐに予約を取り消して奥さんには伝えなかった。

 その話を聞いた警察は奥さんも含め誰にも言わないようにと口止めした。

 チケットのことは〝真犯人しか知りえない事実〟として警察は伏せていたのである。


「出張中のあんたがどうやって聞いたんだ?」

「そ、それは……儂に電話を……」

「あんたに電話する理由は?」

「仕事の打合せで、そのとき話のついでに……。峰ヶ崎は父の戦友だったから儂も可愛がってもらっていて、それで教えてくれたんだ」

「あんた、出張先の宿には電話がなかったから翌日帰るまで事件の事は知らなかったって供述しただろ。携帯電話が無かった時代にどこに電話したんだ?」

 紘彬の追求に陽平の視線が泳いだ。


「……事故って判断されたのに、なんでそんな細かい記録が残って……」

「財布や時計はられてないから強盗でもなさそうだし、関係者全員にアリバイがあった。峰ヶ崎氏には殺されるような動機も見当たらなかった。それで事故とされたんだ」

 だが不審な点があった。

 坂や階段でもない平らな場所で転んでぶつかったにしては打撲の程度がひどすぎた。

 その検死結果を聞いた捜査官が近所の聞き込みをしたところ死亡推定時刻に言い争うような声を聞いたという証言があった。

 だから関係者全員のアリバイを細かく検証したのだ。

 当然、田中陽平の宿泊先も確認した。

 その晩泊まって翌朝チェックアウトをしたのも、そこに電話が無かったのも事実だった。


「けどチェックインしてからすぐに出掛けて、その後は次の日の朝食の時まであんたの姿を見た者はいなかった」

 峰ヶ崎が発見されたのは上野駅の近く。

 当時は泊まり掛けになるような遠方への列車は上野駅か東京駅に止まっていた。

「つまり出張先から上野に帰ってきて峰ヶ崎氏を殺害した後、列車に飛び乗れば朝食までに戻れた」

「しょ、証拠はあるのか」

「チケットの話だけだな」

 陽平は、その言葉をどう受け取ればいのか分からない様子で紘彬を見た。


「化学メーカーなら化学薬品を手に入れられるだろ。タリウムとか」

 不意に紘彬が話を変えた。

「一体なんの話を……」

「峰ヶ崎の葬儀の後、峰ヶ崎の戦友がタリウム中毒で死亡した」

「私がやったとでも言いたいのか」

「峰ヶ崎優司と鈴木啓太、沢井四郎、桜井紘信ひろのぶはあんたの父親、田中健次と同じ部隊にいた」

 田中健次という名字はありふれてるから確信が持てなかったのだが、峰ヶ崎を『死んだ父の戦友』と言ったのを聞いてようやく確証を得た。


 鈴木啓太という名前を聞いた瞬間、如月は紘彬の祖父が言っていた『一人は鈴木さんの父上だ』と言う言葉を思い出して声を上げそうになった。

 不祥事のとばっちりを受けた紘彬が警察官になれるように手を回してくれたのは、紘彬の曾祖父の戦友の息子。

 そしてその戦友の息子の息子(戦友の孫)で今の警視総監の名字は

 この前、警視総監に電話したのはこのことを聞くためだったのだ。


 陽平も桜井紘信と聞いてハッとした表情で紘彬を見た。


「確か、あんたの名前は……」

「桜井紘彬。田中健次の戦友、桜井紘信の曾孫だよ」

「じゃあ、峰ヶ崎の菓子が好きだった曾祖母っていうのは……」

「桜井紘信の妻。曾祖父が結婚した時、峰ヶ崎氏の奥さんがお祝いに菓子を贈ってくれて、それが切っ掛けで上野に行ったとき店に立ち寄るようになったんだ」

 陽平はこんな巡り合わせがあるのかという表情で紘彬を見た。


「なんで二十年もってからだったのかが分からないんだが教えてくれるか? あんたの息子と同じで〝あんたじゃない誰か〟の話としてでもいいぞ」

 紘彬の言葉に陽平は俯いて拳を握り締めた。

 それから顔を上げ、覚悟を決めた表情で紘彬を見た。


「儂の父は戦友達に殺された。家族を殺された恨みを晴らすために殺したんだから、その家族に仕返しされるのは仕方ない。だから〝誰か〟ではなく儂自身として話す」

 陽平は紘彬の目を正面から見詰みつめて言った。


「その四人は無事に帰ってきたのに父は引き揚げ船の中で死んだ。きっと何かで揉めて四人が父を殺したんだ。食い物の分配とか、何かそんな事だろう」

「知らせを受けた頃はまだ二歳くらいだったろ。勝手な思い込みで……」

「思い込みじゃない! 母がいつも言ってたんだ! 父は引き揚げ船の中で殺されたって」

 終戦まで生きていて引き揚げ船にも乗ったと聞いていたのに死亡通知が届いた。

 引き揚げ船の中は劣悪な状態だったから食い物の取り合いとか、そんなようなことで戦友達に殺されたんだ、と。

 母は事あるごとに戦友達に対する恨み言を言っていた。

 陽平はそれを聞いて育ってきた。


       三


「母は一人で儂を育てるのが精一杯で旅行なんて行ったことないまま早死にする羽目になったのに、峰ヶ崎は妻とパリ旅行だなんて……許せなかった」

「おい、出張中だったのは事実ホントだろ。宿泊先だけじゃなく取引先の裏も取ってあったぞ。お前が出張に出てから決まったパリの話は内緒で戻ってくる理由にはならないだろ」

「戻ってきたのは仕事のためだ。取引先から出された条件を承諾する権限は私には無かったが、次の日までに決めないと契約はしないと言われたんだ」


 宿には電話が無かったから判断を仰ぐのには戻ってくるしかなかった。

 厳しい条件を出してきたのは断る為の口実だと分かったが、契約を取り付けられれば会社にとって大きな利益になる。

 紘彬が言ったように、都市部でようやく公衆電話が普及し始めた頃だから他の地域はもっと少なかった。

 それで大急ぎで帰ってきて会社に向かっていると帰宅途中の峰ヶ崎と出会でくわした。

 その場で取引の話をすると、峰ヶ崎は浮かれていて無理な条件をあっさり承諾するという。


 そして勝手にパリの話をし始めたのを聞き、亡くなった母を思い出してカッとなった。

 思わず、なぜ自分の父を殺したんだと詰め寄ると、峰ヶ崎はそんな事はしていないと白を切った。

 それで更に頭に血が上って口論になり、つい突き飛ばしてしまったら工事車両に頭をぶつけて倒れ、動かなくなった。

 慌てて周囲を見回したが他の人間の姿は見当たらない。

 目撃者がいないなら出張先にいたことにすればバレないかもしれない。

 暗くて目撃者の姿が見えないだけかもしれないが、それなら人違いで通せるだろう。


 当時は東京の都市部でも街灯が少なくて夜道は暗かった。

 暗がりで自分と似ている人間と勘違いしたんだ、自分は遠くの出張先にいたんだから自分ではない、と主張出来るはずだ。

 そう思って急いで列車に飛び乗り宿に戻った。

 東京へ戻ってくると刑事が話を聞きに来たが出張に行っていたと答えるとそれ以上追及されず、しばらくしてから事故として処理された。


 疑われないように葬儀の手配をする峰ヶ崎の妻に親身をなって手伝い、峰ヶ崎をしたっていたかのように振る舞った。

 その葬儀に他の戦友達――鈴木啓太と沢井四郎、桜井紘信が弔問ちょうもんに来て記帳していったので住所が分かった。


 父を殺した理由を聞き出したかったが峰ヶ崎のようにとぼけられたらお終いだ。

 腕力に自信はないし、言葉巧ことばたくみに話を引き出すなどという芸当も出来ない。

 そんな事が出来るくらいなら口論になったりしていない。

 恨んでいる事を知られたら警戒されて殺す事も出来なくなるだろう。


 葬式に来た戦友達が甘い物は苦手だというと峰ヶ崎の妻が甘くない菓子を出していた。

 戦友達はそれを食べてうまいと言っていた。

 そこで理由を知るのは諦めて復讐をすることにした。


 峰ヶ崎の妻に菓子会社なのだから香典の礼も菓子にしようと提案した。

 葬儀には甘い物が苦手な人がいたから甘みのない物との詰め合わせにして来てくれた人達全員が食べてくれるようにしよう、とも。


 そして戦友達への香典の礼として贈る菓子の甘くない方だけに会社で手に入れたタリウムを混入した上で葬儀のときに出した甘くない菓子も入れておいたから峰ヶ崎の思い出として是非食べて欲しいという手紙を添えた。


 当時はまだ菓子製造の方がメインだったから食品会社のイメージが強くて金属加工業をしていると知っている者は少なかったし、タリウムは無味無臭の上に症状が他の病気と紛らわしいからバレれないだろうと思った。

 実際、今の今まで誰も気付かなかった。


「なんだ」

 紘彬の表情に気付いた陽平が訊ねた。

「山本慎也を殺さなかった理由は?」

「え?」

「山本慎也も戦友の一人だぞ。パリ行きのチケットを無理して手に入れたのも戦場で峰ヶ崎氏に助けられた恩があったからだ」

 その言葉を聞いて陽平が目を見開いた。

 どうやら知らなかったらしい。


「山本氏に疑いの目を向けさせるためにえて殺さなかったんじゃなかったんだな」

 紘彬が独り言のように呟いた。

「田中健次と同じ部隊で日本に生還したのは六人だ」

「六人? 山本と、もう一人は……」

「田中健次」

「なっ……!?」

「田中健次は生きて日本の地を踏んでる」

「なら、死んだのは家に戻ってくる途中……」

「戦後、数年経ってから俺の曾祖父――桜井紘信が健次氏と西日本で会ってる」

「嘘だ! 父は帰ってこなかった!」

「恋人がいたんだ。出征前から。ただ、ずっと反対されていたから出征が決まったとき親が強制した相手――お前の母親と結婚したんだ」


 若かったにも関わらず、その頃まで徴兵されていなかったのは身体が弱くて健康診断ではじかれていたからだ。

 しかし兵士が足りなくなってきて以前なら採用しなかった者まで徴兵されるようになった。

 既に日本本土への空襲が始まっていた。

 元々兵役にけるような身体ではなかったのに加えて本土まで爆撃されているくらいだから海外の戦地はもっと激しい攻撃にさらされているだろう。

 とても生きて帰ってこられるとは思えない。

 それなら親が決めた相手と結婚して満足させてやることが最後の親孝行だ。


 逆に恋人の方は子供がいたら健次が復員出来なかったとき一人で苦労して育てなければならなくなるから残していくわけにはいかない。

 結婚相手は、親が跡継ぎを作ってからいけと言ったのだから両親が面倒を見てくれるはずだ。

 そう考えて親が決めた相手と結婚した。


 なんとか生きて終戦を迎え、引き揚げ船には乗れたものの、船中で重い病気にかかって船が港に着くとすぐに病院に運ばれた。

 日本へは帰ってこられたが助かりそうにない。

 それなら最後に一目恋人に会いたいと思って連絡を取ると彼女は苦労してやってきてくれた。

 終戦直後で列車に乗って遠くまで行くのは大変だった頃だ。

 それでも万難ばんなんはいして会いに来てくれて付きっ切りで看病までしてくれた。


 そのお陰か奇跡的に退院出来るまでに回復した。

 その時、恋人から健次の死亡通知が届いていたと聞かされた。

 だから彼女は本当に健次なのかどうか確かめるために遠路はるばるやってきたのだと。

 良くある名前だから同姓同名の別人の死亡通知を手違いで健次の遺族に送ってしまったらしい。

 戦時中や終戦直後は混乱していてこの手の間違いは珍しくなかった。


 退院出来たとはいえ、ぎりぎりまで徴兵されなかったくらい身体が弱い上に大病をわずらった自分が長生き出来るとは思えない。

 入院中、献身的に介護してくれた彼女に対する想いは出征前よりも深まっていて別れがたいというのもあった。

 残り僅かの人生なら恋人と一緒に過ごしたい。


 思わぬ命拾いで欲が出た。

 死亡通知が家族の元に届いていて自分は死んだと思われている。

 戦友達とも船から降りた後は会ってないし、連絡も取ってないから死亡通知が来ていると聞いたとしても病院で死んだと思うだろう。

 恋人以外に自分が生きている事は誰も知らない。


 これは一生に一度の機会チャンスだ。

 度重なる大空襲で役所で保管されていた戸籍などもかなり焼失していた。

 混乱に乗じて死亡届の出ていない者にりすます事は可能だろう。

 知り合いが一人もいないところでならバレないはずだ。

 そう考えて恋人と二人で姿を消した。


       四


「母は父に儂が生まれた事を手紙で知らせたと言っていた。その手紙は……」

「届いてた。曾祖父は戦場でその話を聞いたそうだ」

「なのに帰ってこなかったのか? 子供が――儂がいると知っていたのに……」

 親が勝手に決めて短期間だけ同居していた女性が手紙で生まれたと知らせてきた会ったこともない子供だ。

 自分の子だという実感はなかったのだろう。


 ひょんな事から出会でくわしてしまった紘彬の曾祖父(桜井紘信)には事情を話し黙っていて欲しいと頼んだ。

 それで曾祖父は誰にも言わず、日記にしか書いてなかったから他の戦友達ですら生きている事を知らなかった。


「嘘の片棒かついだせいで孫の顔どころか息子の結婚式にも出られなかったがな」

「では母と儂が苦労している時、父はどこかで幸せに暮らしていたのか?」

「そこまでは知らんな。たった一度、道端で出会しただけだから」

 生きていることが親や妻子にバレないようにするために新しい名前も連絡先も教えてくれなかったとかで日記にも書かれてない。

 居場所を探す手懸かりになるようなことは言いたくなかったのか、今の家族や暮らし振りについても話してくれなかったから曾祖父が知っていたのは生きていたと言うことだけだ。


「じゃあ、峰ヶ崎が儂を雇ったのも後ろめたさからではなく……」

「戦友の子供が困ってたから手を差し伸べたんだろ」

 紘彬の言葉に田中がうつろな笑い声を上げた。


「儂は恩人を手を掛けた上に会社まで乗っ取ったのか……。その結果、子供が兄弟を殺すことになった。因果応報とはこの事だな」

 陽平はそう言うと両手を紘彬の前に出した。


「殺人罪の時効は廃止になったって言ってたな。儂も逮捕……」

「さっき時効廃止は即日施行されたって言ったろ。なんでだと思う? 時効に掛かる事件を少しでも減らすためだ」

 施行前――時効廃止成立前日までに公訴時効が来ていた事件はそのまま時効になった。

 成立から施行まで時間がいたらその分だけ時効になってしまう事件が増える。

 その為の即日施行だったのだ。


「廃止前の殺人罪の公訴時効は二十五年だったし、二十五年に延長される前の二〇〇四年までは十五年。海外にいる間は時効が停止するが四十年以上外国にたんじゃない限り時効だ」

 田中尚子はまだ二十五年経ってなかったから田中剛は逮捕されたが、田中陽平が殺害した三人については八十年代前半に時効が成立している。


「……逮捕出来ないから父のことを教えたのか? 父に捨てられたと知って苦しませるために」

 田中陽平の声が震えていた。

「曾祖父が生きていれば知っていたはずだからだ」

「え?」

 紘彬が内ポケットから手紙を取り出した。


「健次氏は妻子とは別にあんたを受取人にした生命保険に入ってた。これは健次氏が亡くなった後、弁護士が曾祖父に送ってきた手紙だ」

「生命保険?」

「一応あんたには申し訳ないって思ってたらしいな。弁護士はあんたを見付けられなくて曾祖父に居場所を知らないか問い合わせの手紙を送ってきてた」

 田中健次は、紘彬の曾祖父(紘信)が先祖の代から東京に住んでいて道場主だったことを戦地で聞いて知っていたし、再会した時、引き上げ後に新宿に家を買って道場も再建したと言う話もしていた。

 健次は弁護士が陽平を見付けられなかった時の為にそれを教えてあったから紘信の住所は探し出せた。


「手紙が届いた時、曾祖父は既に死んでたから手紙は封を切られることがないまま最近まで仕舞しまってあったんだ」

 紘彬が手紙を差し出す。

「さっき、息子が大学に入った年に不渡りが出てずっと危ない状態が続いてたって言ってたな。息子が大学に入ったのは八十年代だろ」

 この手紙が来たのも八十年代だと言って陽平の前に置いた。

「その保険金を受け取っていれば危ない状態が続くこともなく、息子に援助してやることが出来たかもな」

 紘彬はそう言って立ち上がると、うなだれている陽平に背を向けて会議室を後にした。


 蒼治は自分の部屋で荷造りをしているところだった。

 ノックの音で蒼治が顔を上げると、ドアを開け放してあった戸口に紘彬が立っていた。


「紘兄、どうしたの?」

「真美ちゃん一家の殺害を依頼した犯人を逮捕した」

 蒼治が目を見開く。

 紘彬は蒼治とベッドに並んで座ると事件の顛末てんまつを話した。


 紘一と桃花は遠ざかっていくバスを見送っていた。

 あのバスに蒼治が乗っている。

 蒼治は外国に旅立っていった。

 二人は蒼治の見送りに来たのだ。

 友人達やチームメイトとの別れは数日前にませたらしい。


「紘ちゃん、蒼治君が彼女と旅行に行こうと思ってたの、知ってた?」

「うん」

「理由は聞いた?」

「え? 彼女と旅行に行きたいからじゃないの?」

「蒼治君、海外に行くって決めたからなんだって。外国に行ったらフラれちゃうかもしれないけど、それでもサッカー選手になりたいからせめて思い出作りにって」

「そうだったんだ」

 真美が生きていても別れる事になっていたかもしれないが、それでもせめて旅行に行って思い出を作れていれば、と思わずにはいられなかった。

「私も行くことにした」

「え、どこに?」

「外国の叔母さんのとこ。ずっと前から叔母さんに誘われてたの」

「そうなんだ」


 大久保は確実に手に入るわけでもない夢を追い掛けるのはつらいからと諦めた。

 父はそれも一つの道だと言っていた。

 けれど、やはり夢を追い掛けている姿はまぶしく見える。

 叔母がいるとは言っても他に知り合いのいない、言葉も通じない外国に移住するのは勇気がいるだろう。

 その勇気をふるい起こせるのはかなえたい夢があるからだ。


「あのね、私、ずっと紘ちゃんのこと好きだったの」

「えっ!?」

「高田馬場で助けてもらうよりもずーっと前から。だから行くか迷ってたの」

 桃花の告白になんと答えれば良いのか分からず戸惑っていると、

「でも行くことにした。私もヴァイオリニストになりたいから。だから今は答えなくていいよ」

 と言った。

「いつか私がヴァイオリニストになって戻ってきた時、紘ちゃんがフリーだったら答え聞かせて」

「その頃には俺のことなんか忘れてると思うけど」

 紘一が苦笑した。

「忘れてなければでいいよ、お互いに。私、紘ちゃんの方から告白してもらえるくらいすごいヴァイオリニストになって帰ってくる!」

「……やっぱり羨ましいな」

「何が?」

「夢があるって事。夢を目指してる人が羨ましいよ。桃花ちゃんに相応ふさわしくならないと告白したくても出来ないから、俺もやりたいこと見付けなきゃね」

「うん!」

 桃花が元気よく頷いたとき、頬に水滴が当たった。

 二人は同時に空を見上げた。

 青空からぽつぽつと雨粒が落ちてくる。


「晴れてるのに……」

天泣てんきゅうだね」

「天泣? お天気雨てんきあめとは違うの?」

「天気雨や狐の嫁入りと同じ意味だよ。晴れてる時に降る雨の事、空が泣いてるみたいだから天泣って言うんだって」

「そうなんだ」

 それきり二人は黙って雨の降る青空を見上げていた。

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天泣 ー花のようにー 月夜野すみれ @tsukiyonosumire

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