第四章 宿雨

第四章 宿雨しゅくう


       一


「親ならともかく、叔母さんなのに復讐しようと思った理由は? 詐欺ってお前をよそおったのか?」

「海外の宝くじに当たったって言われたらしい」

 と答えてから、

「金に目がくらんだんじゃない!」

 急いでそう付け加えた。


 亡くなった後に覚え書きのようなノートを見付けた。

 それによると、外国の宝くじに当選したが海外からの送金には手数料が必要だと言われたらしい。

 どれだけ莫大な当選金だろうとその為に多額の手数料を支払ったら受け取れるのは大した金額ではなくなるから普段なら断っていた。

 だが、その少し前、息子に起業したいからと資金の援助を頼まれていた。


 起業しようとしていたというのは斉藤も息子本人の口から聞いているから詐欺師に言われたのではない。

 息子の言った金額は叔母の貯金では足りなかった。

 叔母はもう年だ。

 貯金を全て渡した後で介護が必要になったりした時、金が無ければ息子を始めとした周囲の人達に迷惑が掛かる。

 そんな時に電話が来たのだ。

 受け取れる金額が当選金の半分以下だったとしても少しはプラスになるなら息子の起業を手伝ってやれる、そう思って言われるままに金を払ってしまった。


 度重なる要求に貯金が底をき、受け取りを辞退したいから今まで払った金を返してほしいというと、既に支払い済みだから返却は出来ない、諦めるか受け取るかのどちらかだと言われて後に引けなくなった。

 親戚に借金してもまだ金が振り込まれず、これ以上は払えないから今までに振り込んだ手数料分で受け取れる分だけでも貰えないかと頼むと交渉してみると言われたが、それ以来いつまで待っても連絡が来ない。

 叔母の方から掛けてみたが電話が通じなくなっている。

 そこで警察に相談して詐欺だと発覚した。


「お前はどこに関係してるんだ? 何か恩でもあったの?」

「恩って言うか……」

 叔母は子供好きで甥姪達をとても可愛がってくれた。

 だから斉藤も慕っていたし、騙される方が悪いという考え方も嫌いだった。

 斉藤は昔イジメにった事がある。

『騙される方が悪い』という言葉を聞く度に、教師にイジメを訴えたら『イジメられる方に原因がある』と言われた時の事を思い出す。

 被害者に非があるという考えは到底受け入れられない。


 そもそも叔母は息子に援助してやりたいという思い遣りに付け込まれたのだ。

 悪いことは何もしていない。

 それで叔母の味方をしていたのだ。

 だが、まさか自殺するほど思い詰めているとは思わず死を防げなかった事がショックだったし、被害者を追い詰める人達の理不尽さにも腹が立った。

 叔母が立ち直れるまで同居していれば良かったと後悔したがもう遅い。


 詐欺グループも、叔母を責めた息子や親戚達も許せなかった。

 息子は遺体の引き取りさえ拒んだから斉藤が代わりに葬式を出したのだ。

 息子を含め身内の大半は葬式にも来なかったから出席者のほとんどいない寂しい葬儀だった。

 叔母に親切にしてもらった人は大勢いたのに。

 そう思うとやりきれなかった。


「警察でも突き止められなかったのにどうやって見付けたの? 小林は間違いなく詐欺グループの指示役なの?」

 如月が訊ねた。

 斉藤も始めはどうすればいか分からず途方に暮れていた。

 だから最初は叔母を追い詰めた息子や親戚達に復讐してやろうと思ったが叔母は親戚達に借金をしていた。

 多額の金を借りた上に、騙し取られたから返せるてがないとなれば怒るのも無理はない。

 叔母の死で下りた保険金でも全額は返済出来なかったのだから尚更だ。

 やり場のない怒りをかかえていた時、特殊詐欺の特集記事を読んだ。

 そこに特殊詐欺は実行犯をSNSで勧誘していると書いてあった。

 SNSに金がないことを匂わせる書き込みをすると闇サイトから闇バイトに誘われると。

 それで試しに書き込んだら本当に勧誘のメッセージが来た。


「闇バイトって、叔母さんがされたのと同じ事したの?」

「すぐに金を取り始めるわけじゃないから……」

 斉藤の叔母も最初の電話で当選したと言われたのではない。

「アポ電係になって叔母の電話番号見せて『ここ、年寄りの一人暮らしなのに誰も出ない』って報告した」

 叔母の事を知らないなら騙した詐欺グループではないと判断して別の募集に乗り換えた。

 そうやってバイトを梯子はしごしているうちに「そこはもう金をしぼり取った後だ」と言う詐欺グループを見付けた。

 本当にもう取れないのかと言って話を聞き出して間違いないと確信した。

 それで斉藤はもっと稼ぎたいといってリクルーターに指示役――小林を紹介してもらい、会った後すぐにあとけて人気ひとけのない駐車場で襲撃した。


「紹介されたその日に襲ったのか? 帰宅前に? それなら住んでたところは……」

「知らない」

 それが本当だとしたら部屋を荒らしたのは斉藤ではない。

 確認の必要はあるが、斉藤の言う通り小林がバイトへの指示役だったのなら家捜しは闇サイトの黒幕が手下にやらせたのかもしれない。

 小林が死んだという報道を見て急いで都合の悪いデータを残してないか探させたか、もしくは警察の手に情報が渡らなければそれでいと考えてパソコンを破壊させ、書類の類をシュレッダーに掛けさせた可能性も有り得る。

 もしそうなら小林の持っていたデータに闇サイトに関するものがあるかもしれない。


 昼休み、紘彬が昼食を食べ終え、曾祖父の日記を読んでいると上田達の話が聞こえてきた。


「普通の家で政略結婚なんて有り得ないよな」

 今話題のドラマの事を言っているようだ。

 舞台は昭和初期らしい。

「いくらドラマだからってリアリティがないよな」

 飯田が答えた。

「終戦まではそんなに珍しくなかったようだぞ」

 紘彬が日記を見ながら言った。

「え?」

 上田達が振り返った。


「曾祖父ちゃんの戦友、出征が決まった時、親が決めた相手と結婚させられたって。子供作ってから行かないと戦死したとき跡継ぎがいなくなるからって」

「マジッスか?」

 佐久が驚いたように言った。

「戦場にいる時、その戦友に子供が生まれたって知らせが来たそうだ」

「それだけじゃ政略結婚かどうかは……」

「元々結婚したかったのは別の女性だったのに親に逆らえなかったって書いて……」

 そこで紘彬が言葉を切った。


「警部補?」

 佐久が声を掛けると、紘彬は日記を閉じた。

「昭和でも終戦まではそう言う話はザラだったって事だ」

 紘彬はそう答えて話を打ち切り、

「如月、そろそろ行こうぜ」

 と言って立ち上がった。


「あの、桜井さん、さっきの……」

 如月は遠慮がちに訊ねた。

「……子供が生まれたって知らせ受けた人、引き揚げ船の中で病気になって船を下りてすぐ入院したらしい。曾祖父ちゃんが東京に戻ってきたら死んだって知らせが届いてたって書いてあった」

「それは……日本まで帰ってきてたのに無念だったでしょうね」

 如月が同情するように言うと、紘彬はしばらく黙っていた。


 それから、

「……何年後かに仕事で西日本に行ったら、道でばったり出会でくわしたって」

 と言った。

「え……生きてたって事ですか?」

「ああ」

「知らせが間違いで良かったですね」

「そう……だな」

 紘彬は曖昧に答えたあと再び黙り込んだ。

 どうやらあまり喜べるような状況ではなかったらしい。

 都市部はどこも焦土しょうどしたのだ。

 紘彬の口振りだと普通の家だったようだし、家財道具が全て灰になってしまったのなら無一文で路頭に迷っていたのかもしれない。


 あるいは病気の後遺症で働けなくなったか……。


 そういえば子供が生まれた後の話も聞いていない。

 生きて帰ってきたものの家族は空襲で全員亡くなっていたという可能性もある。

 如月はそれ以上は詮索しない事にした。


       二


 仕事が終わり、紘彬は一人で帰宅する途中だった。

 地下鉄の出口から蒼治が出くるのが見えた。


「よ、蒼治」

 紘彬が声を掛けると蒼治が振り返って片手を上げた。

 二人は家に向かって一緒に歩き出した。

「紘兄、聞いていい?」

「おう」

「その……もし、やってない事で会社をクビになりそうになったとき濡れ衣を晴らすにはどうしたらいいの?」

「やってないって事を証明するしかないだろうな」

「もし証明出来なくてクビになったら?」

「労働組合があるなら組合に訴えるとか、労働基準監督署に訴えるとか」

 紘彬が首をかしげながら答えた。

 蒼治は「実は……」と言って話し始めた。


 蒼治の彼女――真美の父親が勤めている会社の倉庫から高額商品が盗まれた。

 その商品がそこにあると知っていたのも、倉庫内に入るのに必要な暗証番号を知っているのも一部の人だった。

 暗証番号を知っている人全員が倉庫に搬入された事を知っていたわけではないから、本来なら暗証番号を知っている者の中から搬入の事を知っていた人間を見付け出せば済むのだが、最初の盗難の時は一人に絞り込めなかった。

 そこで社員それぞれの暗証番号を変えた。

 誰の暗証番号が使われたか分かれば次に商品が盗まれたとき入った人間が割り出せるからだ。


 そしてまた盗まれた。

 そのとき使われたのが真美の父親の暗証番号だったのだ。

 それで真美の父親は窮地きゅうちに立たされているらしい。

 当然だが真美の父親はやっていない。

 相当な高額商品ではあるのだが犯罪者になるリスクを負ってまで盗むほどではない。

 真美の父親には養わなければならない妻と娘がいるのだ。

 しかも娘(真美)は私立大学に入学したばかりである。

 盗まれた商品を売った金だけでは到底暮らしていけない。

 盗難が発覚して真美の父親が捕まり、会社をクビになったら一家三人が路頭に迷うのだ。


「真美は盗聴とかハッキングとか、お父さんとは関係ない方法で泥棒が暗証番号知ったんじゃないかって」

「まぁ有り得るだろうな。そこまでしなくても場所と暗証番号さえ分かれば盗めたなら、話しているのを誰かに聞かれたって可能性もあるわけだし。盗難届は?」

「出てるって。それで刑事さんが聞き込みに来てお父さんが疑われてるんじゃないかって心配になったみたいなんだ……」


 割に合うほどではないというのは間違いないだろう。

 暗証番号の入力程度で入れるような警備のところにそこまで高額なものを置くはずがない。

 もっとも、大企業にも関わらず驚くようなザル警備のところや、安全策がガバガバで信じられないような事故を起こしたりする事があるから絶対無いとも言い切れないのだが。

 金庫のキーの横に暗証番号を書いた付箋が貼ってあったなどと言う冗談のような話も珍しくない。

 しかし既によその刑事が捜査しているのなら紘彬にはどうしようもない。

 本当に冤罪えんざいで捕まったのなら、なんとかして再捜査して真犯人を見付けることも出来るだろうが、疑われている〝かもしれない〟という程度では手の打ちようがない。

 捜査をしなければ疑いを晴らす事も出来ないのだ。

 紘彬には蒼治に「進展があったら教えてくれ」と言う以上の事は言えなかった。


「演奏、すごかったね!」

 はしゃいだ声で桃花が言った。

 コンサートからの帰り道だった。

「そうだね」

 紘一が笑顔で頷いた。

「叔母さん、やっぱりすごい! あのね、ソロの時、叔母さん、こうやってたでしょ」

 桃花が身振りで示す。

「こうして……」

 弦の使い方やビブラートのかせ方、ホールの音響を意識した演奏方法などを興奮した様子で話しているのを紘一は黙って聞いていた。


「……あ、ごめん、こんなことに夢中になるなんておかしいよね」

 紘一が微笑みを浮かべたのを見た桃花が謝った。

「そんな事ないよ」

「でも今、笑ったでしょ」

「それは桃花ちゃんがうらやましかったからだよ」

「何が?」

「俺、やりたいこととか将来の夢とか何もないし、思い付かないから桃花ちゃんや蒼ちゃんみたいに熱中出来るものがある人、羨ましいんだ」

「何もないの? 全然?」

「サッカー、ちょっとやってみたいなって思ってたけど、それも蒼ちゃんが楽しそうにやってるのを見て憧れただけかもなのかもしれないし」

「切っ掛けは蒼治君でもいいんじゃないの?」

「うん、でも……」

 紘一が言い淀んだ。

 桃花が小首をかしげて紘一を見上げる。


「俺、帰宅部だし、急いで家に帰る必要ないんだからサッカーやりたければサッカー部に入ればいいだけだよ。なのに未だに入ってないのは本気じゃないからじゃないかな」

「私は部活やってないから知らないんだけど、入るのに何か難しいことする必要があるの? テストとか」

「入部届に名前書いて出すだけだよ。その程度のことをするか迷う時点で本気じゃないって事じゃないかな。みんな軽い気持ちで入ってるんだから迷うほど大変な事じゃないのに俺はそれすらしてない」

 紘一の言葉に桃花が考え込むような表情を浮かべた。

「ごめん、こんな話の方が退屈だよね」

「そんな事ないよ! やりたい事、見付かるといいね」

「ありがと」

 そう言って笑みを浮かべた時、桃花の家の前に着いた。

 紘一は桃花に別れを告げると自宅へ向かった。


 翌日、紘彬と如月が聞き込みに行くために玄関に向かうと若い男性が受付の職員に何やら質問しているのに気付いた。

 職員は迷惑そうな表情で対応している。


「どうかしたのか?」

 紘彬が声を掛けると男性が振り返った。

 その後ろで職員が「相手にしない方がいい」という表情で首を振っている。

「事件について聞きたいことがあるんですよ」

 男性が名刺を見せながら馴れ馴れしい態度で質問してきた。

 名刺に新聞社の名前が書いてある。

「この前の強盗事件なんだけど……」

「あれなら警視庁の担当だから、ここで聞いても無駄だぞ。桜田門に行け」

警視庁あっちは担当者が決まってるんで。あの強盗事件、逮捕はここだったっしょ」

「すぐに警視庁に連行された。その後の話は聞いてない。行こう」

 紘彬は如月をうながすと外に出た。


「待って下さいよ。市民には知る権利があるでしょ」

「何も聞いてないんだ。知らないことは話しようがないだろ」

 そう答えても記者はしつこく食い下がってきたが紘彬からは何も聞けそうにないと判断すると署の受付に戻っていった。


 今日は一日中あの人の相手をするのか……。


 如月は受付の職員に同情した。


 紘彬と如月が聞き込みから戻ると、刑事部屋のソファに団藤と見知らぬスーツ姿の男性が座っていた。五十代くらいだろうか。

 団藤が紘彬に気付くと「来てくれ」というように手を上げた。


 紘彬が側に行くと団藤が、

「こちらは杉田巡査部長だ。杉田さん、彼が桜井です」

 杉田と紘彬が互いに挨拶を交わした後、紘彬は訊ねるように団藤に顔を向けた。


「この前、DNA鑑定で身元が判明した遺体があっただろ」

「ミトコンドリアDNAの?」

「ああ」

「あの事件の関係者? 事件性無しって判断じゃ……」

「別の事件なんだが、詳しい話を聞きたいそうだ」

「鑑定手法の事か? DNAをどうやって……」

「いや、そこはいい」

 団藤の即答に紘彬ががっかりした表情を浮かべた。

「とりあえず杉田さんに、この前と同じ話をしてやってくれ」

 紘彬はホワイトボードを使って再度説明した。


       三


「DNAサンプルがあって母方を辿たどれるなら身元が分かるんですね」

「母系を辿れるのはミトコンドリアDNAだから核DNAがあっても意味ないぞ」

「細胞の中にどっちも入ってるんだろ」

 団藤が言った。

「DNA鑑定って言うのはDNAを取り出して増やしてから調べるんだよ。DNAサンプルって普通は核DNAだけだと思うぞ」

「どっちのDNAなのか区別が付くのか?」

「核を壊してDNAを取り出す時、先に細胞内の他のものは取り除いておくから」

「つまり母方を辿るなら細胞のサンプルが必要って事か?」

「そういう事。けど、母系を辿ろうと考えたって事は母親が分かってるって事だろ。普通のDNA鑑定が出来ない理由は?」

 杉田は横に置いていたA4サイズの封筒を紘彬に差し出した。

 紘彬が中の書類を取り出して目を通す。


「一九九九年六月、焼死体、失踪届が出ていた高校生かどうかの身元確認は歯形鑑定で別人……この頃ならDNAで鑑定出来たろ。失踪届けだしたのは親だったのになんで歯形で鑑定したんだ?」

「母親がAB型、父親がO型で……」

「ああ、被害者はAB型だから」

 紘彬は死体検案書に目を落とした。


「担当刑事がABとOの間からABは生まれないからDNAによる親子鑑定は無理だと言って歯科のカルテで……当時は新米だったのでDNA鑑定もした方がいいのではないかと担当刑事に強く言えず……」

「失踪届が出ていた高校生だと思った理由は? 発見場所の近所に住んでたってだけか?」

「最初に彼女ではないかと考えられたのは遺体の側にその子の鞄があったからです」

 失踪届が出された少女の家の近所で身元不明の焼死体が発見され、しかも側に鞄もあったなら当然真っ先にその少女を疑う。


「それで歯形鑑定の結果、別人だった。今になってそれが間違いだったんじゃないかと思う何かが出てきたのか?」

「十年ほど前、歯科のカルテを提出した医師と話す機会があったんです。カルテを提出した翌月から患者が来なくなったらしいんですが、数年後に代診に行った先でその患者をたと言うんです」

「死んでなかったなら不思議はないだろ」

「名前が違ったと言っていました」

「結婚で名字が変わったとかじゃなく?」

「下の名前も生年月日も違ったそうです」

「ホントに同一人物なのか?」

 十代の子供なら数年でかなり面差しが変わる事がある。

 逆に全く似ていなかった人が成長して、その少女が大人になったときのような顔になる事もあるだろう。


「自分が治療した跡があったので間違いないと言っていました。それを聞いて、もしかして失踪者の名前でその歯医者に掛かっていたのではないかと」

「歯医者に掛かるのに名前変えないといけないような理由なんかあるか? 美容整形とかなら隠したいかもしれないけど歯科だろ」

「来なくなったのは次の月、つまり保険証の提示が必要になってからです」

「保険証を失踪した女子高生から借りてたんじゃないかって思ってるのか?」

「患者を覚えていたのは、失踪者の名前で診察していた頃から不審な点があったからだそうです」

 カルテによると高校に入学したばかりなのに患者は二十歳近くに見えた。

「事情があって健康保険に入ってなくて全額負担出来るだけの金がないのに、どうしても金が掛かる歯科治療が必要になって友人から保険証を借りたのなら……」

「名前や年が違っているのは当然か」


 杉田は遺体発見当時から失踪届の出ている少女ではないかといぶかしんでいたところに歯科医から話を聞いて疑念が深まったものの、それだけでは再鑑定を上申するにはまだ弱いし、どちらにしろ血の繋がりがなければ親子鑑定は出来ない。

 もどかしい思いをしていた杉田は後輩の団藤にその話を打ち明けていた。

 団藤はそれを覚えていて、この前の事件のとき発見された焼死体の身元が割り出せたと杉田に伝えたのだ。


 その話を聞いた紘彬はもう一度死体検案書に目を落とした。


「虫歯が全く無いな。これなら歯科には掛かってなかったかもな」

「かも? 虫歯が無いのに?」

 団藤が怪訝そうな表情を浮かべた。

「歯科でも歯の定期検診をやってるところがあるんだよ」

 麻酔によるアレルギーで意識不明の重体になり何ヶ月も入院する羽目になった人もいるくらいだ。

 早めに虫歯を発見して治療しておけばそう言うリスクをけられる。


「そうじゃなくても定期的に歯のクリーニングに行く人もいるし」

「けど両親がABとOだったんですよね?」

 如月が訊ねた。

「O型は父親なので……」

 杉田が言葉を濁した。

 母親が不倫して、その相手がA型かB型だったなら子供がAB型でもおかしくない。

「Oってのは自己申告か?」

「え?」

「輸血が必要になったとかで精密検査を受けたならともかく、生まれた時に簡単な検査を受けただけなら間違いは良くあるぞ」


 一口にA型やB型と言っても複数の種類がある。

 A型で一番多いA1型はA型の反応が強く出るがそれ以外の亜型は反応が弱い為、O型と間違われる事がある。

 B型も同様にB型の反応が弱い亜型の場合、O型と間違われる事があるのだ。

 またA型やB型の反応が強く出るA1型やB1型でも出生直後は反応が弱いのでO型と間違われる事がある。


「なら親子鑑定が可能かもしれないんですね」

「ホントに親子ならな」

「仮に親子ではなかった場合、自宅にDNAが残っている可能性はありますか?」

「行方不明の娘の持ち物を全て処分したとかじゃなければヘアブラシとか、上着なんかにも毛髪が付いてるんじゃないか?」

 環境DNAといって生物が落とす目に見えないDNAの断片を採取して解析する技術も確立しているのだが、さすがに捜査機関にそれだけ高度な解析が出来る機械は置いてないだろう。

 それが可能な研究機関に依頼するには金が掛かる。

 重大事件でもない限り、行方不明者のDNA鑑定にそこまでの予算は出してもらえないだろう。


「二十年以上も前の毛髪でも鑑定出来るんですか?」

「二百年前のベートーヴェンの毛髪が鑑定出来たくらいだからな。二十年程度なら問題ない」

「上着では他人のものではないという保証は……」

「ホントにどっちとも血が繋がってなくて一本だけしか見付からなければそうだが――」

 複数の服から何本も採取出来れば、まずそれぞれの毛髪が同一人物のものかどうかの判定を行う。

 他人の毛髪なら付いていたとしても本数は少ないはずだ。

 ベートーヴェンも、彼のものとされる毛髪は複数の場所で保管されていたので何本もあった。

 そこで、まず同一人物かどうかの判定を行って同一人物のものだろうと思われる毛髪を特定した上でDNA解析を行ったのである。

 失踪者の部屋がそのまま残っているなら毛髪以外にもDNAが検出出来るものがあるかもしれない。

 本やノートなども細かく調べれば見付けられる可能性はある。

 紙で手を切ることは珍しくないから微量の血痕が残っていてもおかしくない。

 DNA鑑定出来るほどの量がなくても毛髪が本人のものかどうかの判定には利用出来るだろう。

 杉田は紘彬が挙げたDNAが採取できそうなものを全て書きめていった。


       四


 蒼治が地下鉄の駅から地上に出て自宅へ向かっていると、桃花が紘一の高校の前でスマホを見ている振りで、ちらちらと校門から出てくる生徒に視線を向けているのに気付いた。

 おそらく紘一を待ち伏せしているのだろう。

 蒼治は紘一にLINEでまだ学校にいるか聞いてみた。

 すぐに返信が来た。

 帰宅済みと書いてある。


「桃花、紘一はもう家にいるってよ」

「そ、蒼治君!? わ、私、別に紘ちゃんを待ってるわけじゃ……」

「じゃ、帰ろうぜ」

 蒼治がそう言って促すと桃花は一緒に歩き始めた。

「蒼治君、高校入試受けてないって言ってたよね? 入試のための勉強もしてなかったって事?」

「うん」

「じゃあ、分かんないかな」

「勉強で分からない事があるなら紘一に聞いた方がいな」

「そうじゃなくて……紘ちゃんの高校って入るのすごく大変だって聞いたけど、どのくらいなのかなって……」

「そこは――」

 蒼治は紘一の高校に視線を向けた。

「都立高の中でもトップレベルだから多分相当勉強しないと無理じゃないかな。桃花の成績にもよるだろうけど」

「紘ちゃんってそんなに勉強してたっけ?」

 塾や予備校に通っていたという話は聞いてない。

「最近はあんまり会ってなかったから分からないけど、紘兄が家庭教師みたいなもんだったんじゃないか?」

「そっか、紘兄って東大確実って言われてたんだっけ」


 紘彬が受験生だった頃、桃花はまだ小学校低学年だったため近所の人達の噂くらいしか知らないが、すごい秀才だと言われていた。

 志望校を変えた時、学校の教師に泣き付かれて東大も受験したらしいが志望学部を変更して受験勉強の範囲が違ってしまっていたため結局東大は落ちたとの事だった。

 当人は医学部なら大学にはこだわってなかったようで特に気にした素振りはなく、周囲の人達が勝手に残念がっていた印象だった。

 ヴァイオリニストは学歴が関係ない事もあり、東大を落ちたことに周りの大人達の方が落胆しているのを不思議に思ったのを覚えている。

 桃花からすれば、なりたいのが医師なら医学部でありさえすれば大学はどこだろうと同じに思えたのだ。


「けど、なんで? 紘一の高校そこは音楽科ないし、音大に入るのだって付属から行くより大変だろ」

 音大付属からならエスカレーターだから、それでも入れないほど腕が悪くては音楽家になるのは到底無理だが、ヴァイオリニストになれる可能性があるくらいなら進学は問題ないだろう。

「そうだけど……」

 桃花はわずかに言い淀んだ後、口を開いた。

「この前ね、紘ちゃんと叔母さんが出たコンサートに行ったの」


 叔母の演奏を聴いて感動した桃花はヴァイオリニストになりたいという思いが一層強くなった。

 それで先日の国内コンクールで張り切って演奏したが入選すら出来なかった。

 実際、入選した人達の演奏はすごく上手くて自分にはあれだけの才能はないと思うと落ち込んだ。


「そりゃ、音楽も才能は必要かもしれないけど……頑張ればなんとかなるんじゃないか?」

 腹黒く聞こえそうだから口には出さなかったが、世界的に活躍しているヴァイオリニストの叔母という強力なコネがあれば音楽家の末端に名をつらねることくらいは出来るのではないだろうか。

 コンクールの選考には口出しできないとしても音楽家としてやっていくくらいは可能な気がする。

 叔母から自分の元に来るように勧められているというなら、それは実力を見込まれての事だろう。

 それならコネだろうと練習をおこたりさえしなければなんとかなりそうに思える。


「でも最近、先生にダメ出しされてばっかで……落ち込むようなこと言われながらやってたらヴァイオリンが嫌いになっちゃいそうで……」

 確かに、好きで打ち込んでいるものほど批判され続けるとかえって嫌になるというのは分かる。

 蒼治もサッカーでそうなり掛けた時期があった。

「コンクールの時も、いざステージに立ったらすごく緊張しちゃって上手く弾けなかったし」

「…………」

「私がやりたいのはヴァイオリンを弾くことで、人前で演奏することじゃないんじゃないかなって……。そりゃ、拍手されたら嬉しいけど……」

 確かに人前で演奏することだけが音楽家の仕事ではない。

 蒼治も外国へ誘われていなかった頃はプロになれなかった時に備えて教員免許を取る予定だった。


 蒼治がプロになれなかったらコーチか部活の顧問になろうと考えたのと同様に、桃花もアマチュアのままでもいいのではないかという迷いが生じているようだ。

 アマチュアが趣味で弾く分には失敗したところで誰かにとがめ立てされることはないだろう。

 音楽家にしろスポーツ選手にしろ頑張れば必ずなれるというわけではない。

 実力の他に運も必要だ。

 今は普通の会社員でも正規雇用は狭き門らしいので大差はないのかもしれないが。


「そう言えば蒼ちゃん、旅行は? いつ行くの?」

「今週の土曜に彼女の家に行ってご両親に紹介してもらうから、その後で誘ってみようと思ってる」

「そうなんだ! 上手くいくといね!」

「ありがと」

 そんな話をしているうちに桃花の家に着いて二人は別れた。


 如月は派出所に入っていった。


「あ、あんた! なんで、ここに……」

 以前、名刺を渡したホームレス――清水久が驚いた表情で立ち上がった。

「連絡があったんです」

 如月は清水にそう答えると、

「どうしたの?」

 と巡査に訊ねた。

「彼が逃げる時、これを捨てたので」

 派出所の巡査が如月が清水に渡した名刺を机に置いた。

まねぇ。捕まった時、迷惑掛けねぇようにって思って捨てたのが裏目に出ちまった」

 清水が申し訳なさそうに謝った。


「気にしなくていよ」

「知り合いですか?」

「うん、何があったの?」

「不審な男がうろついているという通報があったので行ってみたら、この男がいたので職務質問しようとしたところ逃走をはかり、その時この名刺を捨てたのに気付いたので回収しました」

「君、一人? もう一人の巡査は?」

「まだ不審者がいるという通報があったので、そちらへ」

「つまり、通報した人が言ってた不審者は彼じゃないって事?」

「それは……もしかしたら複数の不審者がいたのかもしれないので……」

 巡査の歯切れが悪かった。

「この辺ってそんなに治安が悪いの?」

「あ、その……」

「どの辺り?」

 如月の問いに巡査が住所を答える。

 住宅街の真ん中辺りだ。

 通報を受けた場所の近くで最初に見付けたのがホームレスだったから彼だろうと言う思い込みで捕まえてしまったというところか。

 レイシャル・プロファイリング――要は偏見である。


「何かしているところを見たわけじゃないんだよね?」

「はい」

「なら、これは任意なんだから帰っていいんだよね」

「はい」

 如月は名刺を手に取った。

「これは捨てた物だから別だけど、所持品検査で違法に押収した物は犯罪捜査でも違法とされて証拠品として認められないよ。捜査の妨害になりかねないから職務質問や所持品検査は慎重にやってね」

 如月はそう言うと、清水を促して外に出た。


「その……ホントにすまねぇ」

 清水が頭を下げた。

「いいよ」

 如月はそう言って名刺を手渡した。

「なんで住宅街にいたの? もしかしてご家族でも……」

「いや……」

 清水は口をつぐみ掛けて如月に助けられたことを思い出したようだ。


「俺、昔リストラされて、再就職先が見付からなくてホームレスになっちまったんだ」

「面接に行ったんじゃないよね?」

「この前、俺をクビにした社長を見掛けて……つい、後を付けちまって……そしたら、あいつい家に住んでて……」

 自分をクビにしたヤツには家があるのに、こっちは毎日ゴミ箱をあさって生きている。

 そう思うとどうしても恨みが湧いて何度か家の様子を見に行ってしまったのだという。

「俺、逮捕されてた方が良かったのかもしれねぇな。なんか仕出しでかしちまうぇに」

「なんにもしてないんじゃ逮捕されたところですぐに釈放されるから意味ないよ」

 如月の落ち着いた声に清水が苦い笑みを浮かべた。


「あなたが自分が何かやらかすのを防ぎたいって言うなら名前聞いとくけど」

清水しみず……」

「あなたの名前は覚えてる。そうじゃなくて社長の方。その社長に何かあったら真っ先に自分が疑われるって思ったらあと一歩のところで踏みとどまれるんじゃない?」

「田中。田中陽平」


 平凡すぎて名前だけじゃ特定出来ないかも……。


 如月の表情を読んだ清水が苦笑して、

「会社の名前は峰ヶ崎みねがさき株式会社だよ」

 と付け加えた。

「会社名まで分かってりゃ同一人物かどうか分かるだろ」

「ありがと。一応、署にある俺のパソコンに入力しておくけど、心配する必要はなさそうだね」

「わざわざこんなとこまで来させてまなかったな」

「言ったでしょ。防犯も警察の仕事だって。俺はこれで給料もらってるんだから気にしなくていいよ」

 如月はそう言うと清水と別れた。

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