第三章 瘴雨

第三章 瘴雨しょうう


       一


 紘彬の説明を聞きながら団藤が考え込むような表情をしていた。


「まどかちゃん、分かり辛かったか? それならもっと詳しく……」

「いいっス!」

「十分です」

「遠慮しときます」

 佐久と上田、飯田が同時に遮った。

「エディンバラ公って男だよな」

 団藤が訊ねた。

「ミトコンドリアは母親から受け継ぐってだけで男にもあるから」

 男親のミトコンドリアDNAは子供に伝わらないと言うだけである。


「つまり祖母でも曾祖母そうそぼでも母方を辿たどれば分かるのか?」

曾祖母ひいばあちゃんが生きてるか、DNAが残ってるならな」

 よほどの高齢者か、代々十代で子供を産んできたとかでもない限り、ある程度年のいった人間の曾祖母が存命中というのは珍しい。

「でも別に真上じゃなくても女親が共通してるところから分岐した親戚でも間に男が入ってなければ分かるぞ」

 現にエディンバラ公とアレクサンドラ皇后はヴィクトリア女王で分岐した親戚である。

「そうか」

 団藤はまだ考え込んでいるような表情で頷いた。


「焼死体については? 死体検案書を見て何か気付いたことがあるか?」

 団藤が紘彬に訊ねた。

「暴行の痕跡があったかって事なら、新しい骨折やヒビでもあれば死因が暴行によるものかどうかの見当くらいは付けられるけど、あの遺体には無かったな。燃えちゃうとかすり傷程度じゃ分からなくなるから」

 団藤は再度頷くと、

「聞き込みの方は?」

 と訊ねた。

「小さな会社だから役所から受注出来るような仕事はしてないな」

 贈収賄罪というのは受け取る側が公務員でなければ成立しない。

 民間企業同士では成り立たないのだ。

「経理関係も横領などをされた痕跡はなかったそうです」

 如月が言った。

「どっちにしろあんな小さな会社じゃ殺してまで証拠を消したいほどの金額は無理だろ」

「横領額は大した事がなくてもそれをネタに身体の関係を迫ってたとかで怨恨は有り得るだろ。女性社員を洗ってみろ」

「女性とは限りませんよ」

「つまり社員全員かぁ……」

 紘彬がうんざりしたような表情になった。


 紘彬と如月が紘一の家の近くまで来た時、紘一の母の蒼沙子あさこと姉の花耶かやが家から飛び出してきたところだった。

 後から紘一も続いて出てくる。


「紘一、どうした?」

 紘彬が驚いて紘一に声を掛けた。

「兄ちゃん、ちょうど良かった。祖父ちゃんが具合悪いらしいって祖母ちゃんから電話が……」

「ホントか!?」

 紘彬が駆け出す。

 如月も後に続いた。

 紘彬も紘一も武道をやっているから体力はあるにしても成人男性を運搬することになるかもしれないなら男手は多い方が良いだろう。


「大したことないと言っとるだろ!」

 紘彬の祖父はそう怒鳴りながらも声に元気がない。

 台所の椅子に座っているが、怒っているのにその場から立ち去ろうとしないのは歩けないからではないのか。

 紘彬が脈をはかろうと伸ばした手を、腕をずらしてけようとしたが振り払おうとはしなかった。


 もしかして手も動かないんじゃ……。


 如月の不安が増してくる。


「祖父ちゃん、病気だったら迷惑だから病院行ってくれよ」

 紘彬が祖父の脈をはかりながら言った。

「桜井さん、もう少し言葉を……」

「何が迷惑だ! 病気だとしたらこれは父さんから感染うつったものだ!」

「なわけないだろ!」

 珍しく紘彬が突っ込みを入れた。

曾祖父ひいじいちゃんが死んだのいつだよ!」

「父さんも同じ症状だった。南方のジャングルの病気が儂に感染うつったんだ」

「曾祖父ちゃんが帰ってきたの何十年前だよ! しかも祖父ちゃんが生まれたのは曾祖父ちゃんが戦地から帰ってきた後なんだろ! なんで戦地での症状知ってるんだよ!」

「病気になったのは戦地じゃない。戦争が終わって復員してきた後だ。父さんも父さんの戦友達も同じ頃に亡くなったんだ」

「死んだのが戦後なら年だろ」

「桜井さん!」

 如月がたしなめた時、天井裏をネズミが走る音が聞こえた。


「ネズミのせいかもしれん」

「だったらとっくの昔に俺達全員具合が悪くなってるだろ」

「祖母さん、早く薬をけ。ネズミがいなくなれば治る。父さんの病気も南方のネズミのせいだ」

 紘彬の祖母がやれやれという表情でシンクの下の戸を開く。

「祖父ちゃん、ネズミなんて……」

 言い掛けた紘彬は祖母が取り出した物を見た瞬間、顔色を変えた。

 ポケットから証拠品を扱う手袋を取り出すとめる時間もしいというように手袋で祖母の持っていた物を掴んで引ったくる。


「如月、救急車! 花耶ちゃん、袋!」

 如月はすぐにスマホを取り出して消防署に掛けた。

「普通のビニール袋でい?」

 花耶が袋を仕舞しまっている戸棚を開きながら訊ねる。

「密閉出来るのある? 口のところに……」

 紘彬が言い終える前に密封出来る袋が差し出される。

 紘彬はそれを受け取ると中に入れて密閉してから袋の外からそれを見詰めた。

 ラベルの成分表を見ているらしい。


「紘彬! 何の真似だ!」

「何事なの?」

 紘彬の祖父と祖母が同時に言った。

「祖父ちゃん! なんでこんな古いもの使ってたんだよ!」

「最近の薬はかないからだ。新しいものばかり持てはやしてきもしない……」

「なんで古いものが禁止されたと思ってんだよ! 持て囃すとかじゃなくて理由があんだよ! 老い先短い祖父ちゃんと祖母ちゃんはともかく――」

「桜井さん! 言葉を選んで下さい!」

「――紘一や花耶ちゃんに何かあったらどうするつもりだよ!」

 紘彬がそう言いながらゴミ箱の中をのぞく。


「ああ、やっぱり。この髪全部、祖父ちゃんの? 祖母ちゃんは髪抜けてないか? 父さんと母さんの髪は?」

 そう言ってから紘一と花耶の母、蒼沙子の方を振り返る。

「叔母さん達は? 最近大量に髪が抜けたりしてないか? 花耶ちゃんも紘一も大丈夫か?」

 紘彬の問いに紘一達が頷いた。

「儂らの年なら髪が抜けるのは……」

「いきなりこんなに大量に抜けるかよ!」

「紘兄、一体どういう事?」

 花耶がそう言った時、救急車のサイレンが聞こえてきた。


 紘彬の祖父が担架で救急車に乗せられると、紘彬はビニール袋に入った殺鼠剤さっそざいを隊員に見せた。


「タリウム中毒の治療が出来る病院へ運んで下さい。これを使ってて具合が悪くなったらしいんです。髪も大量に抜けてます」

 救急隊員の一人がすぐに病院に問い合わせを始める。

「祖母も触ってるので一緒に連れていって下さい。祖母ちゃん、早く乗って」

 紘彬が祖母をかす。

「叔母さん達も念のため検査受けて下さい。叔父さんにも病院に来てくれるように頼んで。如月、お前も一応検査した方がいいから紘一達と一緒に来てくれ」

 紘彬はそう言うと祖母と一緒に祖父が乗せられた救急車に同乗した。


 祖父は紘彬の見立て通りタリウム中毒だった。

 紘彬が気付いたお陰で手遅れになる前に治療を受けることが出来た。

 紘彬がすぐに取り上げた為、祖母も無事だった。

 祖母はほとんど触った事がなかったらしい。


「祖父ちゃん、曾祖父ちゃんが死んだの戦後だって言ってたよな」

 紘彬が病院のベッドで横になっている祖父に訊ねた。

 病室には紘彬の祖母と両親と姉夫婦、それに紘一の両親と姉の花耶、紘一、それと如月もいた。

 祖父がタリウムの含まれている殺鼠剤を家で使っていたので紘彬と紘一の家族と如月も念のため検査を受けた後だった。

「儂は戦後生まれだ。終戦前に死んでたら儂が生まれてるわけないだろ」

「死んだのは何年?」

「お前は曾祖父さんの死んだ年も知らんのか!」

「普通は曾祖父ちゃんの死んだ年なんか知らねーよ! 祖父ちゃんは自分の曾祖父ちゃんが死んだ年知ってんのかよ!」

 紘彬に言い返そうとした祖父が口を開き掛けてつぐんだ。

 自分も曾祖父そうそふの亡くなった年を知らなかったことに気付いたようだ。

「父さんが死んで祖母さんとの結婚を一年延ばしたから緋沙子ひさこ蒼沙子あさこが生まれる三年前だ」

 緋沙子は紘彬の母、蒼沙子は花耶と紘一の母で、緋沙子と蒼沙子は双子である。


「母さん達が生まれる前なら曾祖父ちゃんはそんな年じゃないよな」

「五十前だ。儂もまだ若かったから……」

 昔話を始めた祖父をよそに紘彬は考え込んだ。

「さっき曾祖父ちゃんの戦友達も同じ頃に死んだって言ってたよな」

「人の話を……!」

「いいから、死因は?」

 紘彬が祖父の言葉を遮って訊ねる。


「知らん。ただ全員同じ頃に亡くなったって知らせが来たんで葬式を梯子はしごすることになったんだ」

「梯子って……一体何人死んだんだよ!?」

 紘彬が声を上げた。

「まぁ生きて帰ってこられた人は多くはなかったから二、三人だが」

「だとしても同じ時期に複数の人間が死んだのか!?」

「そうだ。葬式に行ったらみんな父さんと同じ症状だったんだ。それで誰かが南方のネズミのせいじゃないかと言っていたんだ」

「症状って言うからには病死って事だよな」

「ああ。一人は鈴木さんの父上だ」

「鈴木さんって、あの?」

 紘彬が訊ねた。

 どうやら紘彬も知っている人らしい。

「そうだ」

「あの……」

 看護師を伴って入ってきた医師が割って入った。

「そろそろお引き取りを。お祖父様がお疲れになりますので」

「儂はそんな年じゃない!」

「祖父ちゃん、先生困らせんなよ。年なのは確かだろ」

「なんだと!」

「桜井さん! お祖父様を刺激するようなこと言わないで下さい。お祖父様もどうかご安静に」

 如月の言葉に紘彬と祖父が口を噤む。


 如月さん、いつもこんな役やってんのか……。


 二人のやりとりを見ていた紘一は心の中で如月に同情した。


「火事の現場で発見された女性は事件性無しとして遺体が遺族に返される」

 捜査会議で団藤が言った。

 上田と佐久が周辺の聞き込みをしたが特にトラブルに巻き込まれた様子はなかった。

 火事はテナントとして入っている店舗の火の不始末だった。

 まだ夜は冷えるし野宿は襲われる危険があるのでオフィスビルの空き部屋にこっそり泊まった時に折悪おりあしく火事に巻き込まれてしまったのだろうというのが上田と佐久の出した結論だった。


「桜井と如月は引き続き駐車場で殺害された被害者の周辺の聞き込み。上田と飯田は――」

 団藤が仕事の割り振りをしていった。


 紘彬と如月が被害者の職場に向かって通りを歩いている時、制服の警察官が手錠を掛けられた男を連れて建物から出てきた。


「なんだ、またか」

 紘彬が警察官の一人に声を掛けた。

 このビルには暴力団の事務所が入っている。

 通り魔が襲うのは無防備な通行人とは限らない。

 人を殺せば死刑になって死ねる、などと考えるやからは暴力団事務所に乗り込むこともある。

 しかし武器を持っていたところでろくに喧嘩もしたこともないような者が場慣れした相手にかなうわけがない。

 大抵はあっさり取り押さえられて警察に突き出されてしまうから事件として報道されないだけなのだ。

 パトカーの側に救急車も止まっている。


「ケガ人が出たのか?」

 紘彬が訊ねると、

「いえ、ここではありません」

 警察官がそう答えた時、救急隊員が患者を乗せた担架を運び出してきた。

 白衣を着ている男性が一緒に出てくる。

 見るとビルの窓に歯科の看板が掛かっている。

「ああ、アレルギーか」

「アレルギー? なんのですか?」

 如月が訊ねた。

「麻酔だよ。たまにあるんだ。抜歯とかで麻酔掛けた時にアレルギー反応起こしちゃうんだよ」

「救急車で運ばれるほどのアレルギーが起きるものなんですか?」

「普通はアレルギーが起きないか事前に検査して確かめるから病院送りになるのは珍しいけどな」

 紘彬は救急車とパトカーを見送ると、如月と共に歩き出した。


 紘彬と如月は駐車場で殺された小林次郎の職場に来ていた。


「小林さんは家では一切仕事をしていなかったのでしょうか?」

 如月が小林の上司に訊ねた。

「クラウド上に保存したデータを自宅で編集するとかメールで仕事の連絡をするとかネットが必要になるようなことは……」

「してましたよ。ここに来る必要のない仕事などは出勤せずに在宅でやってましたから。ネット会議なんかもしてましたしメールでの打合せもしょっちゅう……」

「え、そんなに?」

 如月は鑑識に連絡して小林の自宅内を撮った写真を自分のスマホに送ってもらった。

「会議の時の背景はここでしたか?」

 そう言って上司にスマホ画面を見せる。

「棚に色々並んでましたが……ここだと思います」

「小林さんが使っていたパソコンを見せて頂いてもいいですか?」

 如月は上司の承諾を取るとパソコンを操作し始めた。

 その間、紘彬は勤務先の仕事内容に関する書類に目を通した。


 紘彬と如月は署に戻ると既に帰ってきていた団藤に報告した。


「ネット?」

 団藤が聞き返した。

 如月は小林が自宅で仕事をする時、ネットを利用していたという話をした。

 被害者の自宅からはモデムもルーターも見付からなかった。

 ポケットWi-Fiは契約していなかったようだしスマホでのテザリングも使用量を見る限りほとんどしていなかった。

 警察が見付けていない口座からの料金引き落としか振込でポケットWi-Fiか別のスマホを契約してそれを使っていたのでもなければ自宅ではネットを利用出来なかったはずだ。


「本当にネットが出来ない環境だったのか?」

 鑑識からそう報告を受けているが、念のため団藤が如月に確認するように訊ねた。

「今申し上げたように警察が知らない口座引き落としでポケットWi-Fiを利用してたとかなら有り得ますが……」

「パソコンから調べられないのか?」

「デジタルデータというのは記録媒体を物理的に破壊されてしまうと……」

 メモリカードの類は発見されなかったし内蔵ストレージは壊されていた。

 鑑識によると外付けのものも破壊されていたらしい。

「桜井は? 何か気付いたか?」

「仕事の内容は特に犯罪に関わりそうなものは見付からなかった。それ以上は経理とかに詳しい人間に調べてもらわないと分からないな」

 紘彬の言葉に頷くと、団藤は上田と飯田の方を向いた。

「お前達は何かあったか」

 団藤の問いに上田達が報告を始めた。


 紘一が学校から帰ってくると自宅の前で花耶と桃花が立ち話をしていた。


「紘一、ちょうど良かった」

 花耶が紘一に気付くと声を掛けてきた。

「桃花ちゃん、叔母さんが出演するコンサートに行くらしいんだけど、あんた一緒に行ってあげて」

「姉ちゃんは?」

「私でもいいけど、女二人より男の子が一緒の方が絡まれる心配が少ないでしょ」

 花耶も剣道と合気道の有段者だから、そこらのチンピラ数人程度なら絡まれたところで撃退出来るのだが、紘一と一緒ならそもそも絡んでくる者はほとんどいないだろう。

 基本的に女の子に絡んでくるような人間は相手を見て判断する。

 そういう人間は男が側にいるだけで近付いてこない場合が多い。

 つまり紘一と一緒の方が危険な目にう確率が低いのだ。

「紘ちゃんはクラシックとか興味ないかもしれないけど……」

「いや、俺でいいならいいよ」

「ホント!?」

 桃花が嬉しそうな表情になる。

「じゃあ、今度の土曜日にね」

 桃花はそう言うと帰っていった。


 昼飯時、紘彬は自分の席で何かを読んでいた。

 何やら難しい顔をしている。


 紘彬は不意に顔を上げると、

「如月、一九六〇年代に集団で健康被害が出た事件、検索出来るか?」

 と訊ねてきた。

 紘彬の言葉に如月はキーボードを打った。


「サリドマイドは関係ないですよね?」

「男は妊娠しないからな。あれは悪阻つわりの薬だから」

「そうなると薬品はペニシリン、スモン、風邪薬くらいです」

「食品……は数が多すぎるか……」

「はい」

 キノコや山菜を含め食品による健康被害は数が多い。

 飲食店などによる食中毒事件も年に何件も報告されている。

 ただ薬害や市販の食品による健康被害でもない限り、同じ料理を一緒に食べたのでなければ離れて住んでいる人間が同時に発症するというのはかなり確率が低い。

 紘彬は溜息をいて本を閉じた。


「それは何かの専門書ですか?」

 本と言うより分厚い手帳という感じの大きさだが。

「いや、これは曾祖父ちゃんの日記」

 紘彬が日記を机の上に置いた。

「祖父ちゃんが南方のネズミとか言ってただろ」

「ネズミから感染する伝染病に心当たりでも?」

「それはあるんだが……祖父ちゃんは古い殺鼠剤によるタリウム中毒だっただろ。うちにあったんだから曾祖父ちゃんが同じものを使っててもおかしくはないんだが……」

「何か引っ掛かることが?」

「曾祖父ちゃんや戦友達が同じ頃に死んだって言ってただろ」

「はい」

「曾祖父ちゃんが死んだのは復員してから二十年以上もってからなんだ」


 感染症の中には潜伏期間の長いものもあるし帯状疱疹たいじょうほうしんのように免疫が落ちない限り発症しないものもあるが、曾祖父と戦友が同時に発症したというのがに落ちない。

 それだけ潜伏期間が長いものなら個体差が出るはずだから発症時期が偶然同じというのは相当確率が低いし、その症状が今回の祖父と同じだったというなら曾祖父と戦友達もタリウム中毒と考える方が自然だろう。

 タリウム中毒は診断が難しくて見落とされがちだし、紘彬も殺鼠剤を見なければ疑わなかった。


 曾祖父だけなら今回の祖父同様、殺鼠剤の取り扱いミスと見做みなすことも出来ただろう。

 同じ家に住んでいたのだし、祖父の使っていた殺鼠剤は古かったから曾祖父が使っていたものだとしてもおかしくない。

 だが離れた場所に住んでいる人達が同じ時期に同じ症状で亡くなっているとなると、健康被害が起きるような薬品か食品以外では誰かに毒を盛られた可能性が高い。

 今は使われなくなったが昔は殺鼠剤にタリウムが使われていたから毒殺によく使用されたし誤飲ごいんによる事故も多かった。

 だから殺鼠剤にタリウムが使われなくなり、入手も厳しく制限されるようになったのである。


 問題は戦友と一緒に毒殺されたとしたらその理由だ。

 同じ戦地に行っていたから戦場での恨みと言う事も考えられなくはないが、戦後二十年以上ってからと言うのがせない。


 一緒に復員してきたのは曾祖父を含めて六人だが一人は帰国してすぐに死亡通知が来ている。

 そして残った四人が同じ頃に死んでいる。

 一人は事故死、その直後に曾祖父を含めた三人が病死、一人だけ無事だったから、その一人が三人に毒を持った可能性は除外出来ない。

 だが毒殺なら二十年も待つ必要はないはずだ。


 かと言って、それぞれ別の理由で違う人から同時に同じ方法で殺されたというのも考えにくい。

 今のところ日記にはそれらしいことは書かれていない。

 日記に書くことすらはばかられるようなことを部隊ぐるみでしていたのだとしたら復員後に戦友同士の付き合いなどするだろうか。


 日記では特に屈託もなかったようだが……。


 かといって戦後に一緒になって何かを仕出しでかしたとも思えない。

 少なくとも曾祖父は金に困ってはいなかったはずだし、他の動機は思い付かない。

 曾祖父が死んだのは六十年代、高度成長期である。

 バブル期ほどではないにしても都内の地価は高かった。

 曾祖父は自宅の他に早稲田に道場を持っていたのだ。

 金に困っていたなら早稲田の道場を真っ先に手放していたはずだし、今の家だって新宿の住宅地なのだから売れば当時でもそれなりの金額になっていただろう。

 早稲田は都内では比較的安い方だが、それはあくまで都内の他の場所と比べた場合の話だ。


 バブル期は地価が高騰したため固定資産税の捻出ねんしゅつに苦労したと祖父から聞いている。

 その地価を高騰させた地上げ屋にバブルが弾ける直前の最高値で土地を売り付けて巨額の不良債権を掴ませてやったと祖父は得意満面の笑みで言っていたが。

「先祖代々の土地手放しちゃって良かったのかよ」

 と聞いたところ、元々道場があったのは別の場所で、空襲で焼けてしまったから戦後に曾祖父が早稲田に土地を買って建てたとの事だった。

 それはともかく、曾祖父が親しくしていた戦友は警察幹部になった一人だけだ。

 他の四人とはそれほど深い付き合いではなかったようなのだが。


「おい、駐車場の殺人事件の被疑者が判明した」

 電話を切った団藤が言った。

「桜井、如月、逮捕状が届いたら向かってくれ。巡査も同行させる」

 団藤の言葉に紘彬と如月は急いで昼食を片付けた。


 古いマンションの駐輪場で男が自転車の脇にしゃがみ込んでいる。

 自転車を修理しているらしい。

 右手に汚れた包帯を巻いている。

 紘彬は身振りで如月と二人の巡査に男を取り囲むように促した。

 三人が男の退路をふさぐ位置に移動する。


「斉藤洋一さん?」

 紘彬の声に顔を上げた男は制服警官に気付いた瞬間、横に置いてあった自転車のチェーンを掴んで立ち上がると横にいだ。

 紘彬があらかじめ巡査に借りていた警棒で払う。

 鎖が巻き付いた警棒を思い切り引き寄せた。

 男が体勢を崩し掛ける。

 だが、すぐに鎖を手放すとそのまま殴り掛かってきた。

 紘彬は一歩後ろに下がりながら右足を引いてたいを開くと目の前を通り過ぎた腕を掴んで男の背中に回した。

「いてて……」

 男は藻掻もがいたがすぐに巡査達が男を壁に押し付けて後ろ手に手錠を掛けた。


 紘彬は斉藤を伴って警察署に入ると取調室ではなく医務室に連れていった。


「包帯が汚れてる。取り替えてやってくれ」

 紘彬は如月に手錠を外すように言って医療スタッフに声を掛けた。

「余計なお世話だ! っといてくれ!」

 斉藤は医療スタッフの手を振り払う。


「お前が破傷風はしょうふうで死んだら職務怠慢だって叩かれるのはこっちなんだぞ」

「そんなこと俺には……!」

「最近、肩や首がったりしてないか? ケガした手に違和感は?」

「え……」

「破傷風の初期症状。ケガした辺りの異常感覚や首筋や肩の辺りの緊張感。破傷風は健康な成人でも死亡率五十~六十パーセント、つまり半数以上は死ぬんだ。普通のインフルエンザ――季節性インフルエンザの死亡率が大体〇・一パーセント未満、致死率が高いとして警戒されてる新型インフルエンザ――例えば昔のスペイン風邪なんかでも死亡率は十パーセント未満だったんだから破傷風がどんだけヤバいか分かるだろ」

 別に破傷風ではなくても肩や首がる人間は多いし、素手で殴ったのなら骨折までいかなくてもヒビくらいは入っているだろう。

 痛みがあるはずだから普段と違う感覚なのは当然だが医学の知識がない人間が聞けば思い当たるような気がしてしまう。

 予言や占いなど、何にでも当てまるような抽象的なことを言っておけば聞いた側が「この事か!」と勝手に解釈して当たったと考えるのと同じである。


「全身が痙攣けいれんして呼吸困難になるのに意識ははっきりしてるから回復するか、危篤きとく状態で意識不明になるまで地獄の苦しみを味わうらしいぞ。それも痙攣の原因は光による刺激だから真っ暗な部屋にいる必要があるが、拘置所にそんな部屋はないから昼間は、のたうち回ることになるんだが、ホントにっといていいのか?」

 紘彬が淡々と説明するのを聞いているうちに斉藤が徐々に青ざめていく。

 発症したら病院へ搬送されるという事に思い至ってないらしい。

「破傷風菌はそこら中にいるから、それだけ汚れた包帯なら確実に付いてるぞ。土の汚れも付いてるみたいだから炭疽菌もいるかもな。炭素症の死亡率は九十パーセント。症状は……」

「もういい! 早くやってくれ!」

 斉藤は自分から手を出した。

 包帯がほどかれる。

 紘彬は黙って医療スタッフが治療している拳を観察していた。


「おい、これで大丈夫なのか? 破傷風の薬とか……」

 手当を受け終えた斉藤が紘彬と医療スタッフを交互に見ながら訊ねた。

「お前の年ならワクチン打ってる」

「え……」

「一九九六年生まれなんだろ。なら赤ん坊の頃と小学生の時にワクチンの定期接種を受けてるはずだ。三種混合ワクチンの中に破傷風も含まれてる。それでもケガした手で土いじりしたりしてればかかることはあるが」

だましたのか! 炭疽菌も嘘か!」

 斉藤が激昂げっこうして怒鳴った。

「言ったろ。どっちの細菌もケガしてる手で土なんかに触ればワクチン打ってても感染することはある。炭疽菌は定期接種に含まれてないし」

 斉藤は取調室に連れていかれるまで思い切り不服そうな表情を浮かべていた。


「なんの容疑だよ!」

 取調室の椅子に座らされるなり斉藤が机を叩いて怒鳴った。

「暴行の現行犯だろ。こっちは声掛けただけだぞ」

 斉藤が言葉に詰まる。

「でも、せっかく逮捕令状取ったんだし読んでやってくれ」

 紘彬がそう言うと如月が逮捕状を読み上げた。

「俺はそんなビルには行ってない」

「令状に書いてある犯行現場は駐車場だ。ビルとは言ってない」

 斉藤が「しまった!」という表情になる。

 事件現場の住所にビルの名前も含まれていたのだが斉藤は気付かなかったらしい。


 消化器のセールスマンに「消防署のから来ました」って言われると消防署の職員だって信じちゃうタイプだな……。


 如月は同情しながら斉藤を見ていた。


「その拳、素手で殴っただろ」

「だから俺は知らない! 無関係だ!」

「そうか。なら被害者から採取されたDNAはお前のものと一致しないはずだから安心しろ」

「ディっ、DNA採取は拒否出来るんだろ。俺はきょ……」

「包帯取り替えただろ。あれにたっぷり付いてる」

「おっ、俺の包帯ものから勝手に……」

「廃棄に同意したろ。捨てたら所有権はなくなる。所有者がいない物なら許可も必要ないんだよ」

 斉藤は口を開いたり閉じたりしているが言葉が出てこないようだ。


「そうじゃなくても逮捕状の根拠は防犯カメラに写った現場から逃げていくお前だ。令状取ればお前の意志に関係なくDNA採取は可能だ」

 斉藤は流石さすがにこれ以上は言い逃れ出来ないと悟ったらしい。

 諦めた表情で肩を落とした。


「なんで小林次郎を殺した? 小林がお前に何をした」

「叔母を殺した」

「殺した? いつ? どうやって?」

「叔母さんの名前と住所は?」

 如月の質問に斉藤が叔母の名前と住所を答えた。

「今、調べてきま……」

「無駄だよ。自殺だから」

「え?」

 踵を返そうとした如月が振り返る。


「自殺だし、病院の行政解剖とか言うので事件性無しって判断されて死亡診断書にもそう書いてある」

「行政解剖なら死亡診断書じゃなくて死体検案書だろ」

「桜井さん、そこはいいですから……」

「事件性無しって判断された自殺なんて、いくらあんた達でも把握してないだろ。原因究明とかしてくれるなら、あいつはとっくに捕まってたはずだし……」

「叔母さんは小林に何をされたんだ?」

「あいつのこと、ホントに何も調べてないんだな。殺されれば被害者になるのに、自殺は被害者じゃないのかよ」

「そりゃ……」

「小林のことは調べてる最中だよ。ただ部屋が荒らされてるから時間が掛かってるんだ」

 紘彬を遮って如月が答えた。

 空気を読まずに斉藤の神経を逆撫でするようなことを言って怒らせるのはマズい。


「荒らされてた?」

 斉藤が聞き返した。

「パソコンとか、全部壊されててデータが全く残ってないんだ。怪しい点はあるんだけどデータが見付からないから捜査が難航してて……」

「お前じゃないのか?」

「なんで俺がやんだよ。データが残ってればあいつがやったこと証明出来るのに。データが無くなってるんだとしたら、あいつの仲間がったんだろ」

「仲間って? 小林は何をしていた?」

「振り込め詐欺の指示役だよ」

「振り込め詐欺って闇サイトって事!?」

 如月が声を上げた。


「そうだよ。あいつ、ネットでバイト募集して大掛かりな詐欺やってたんだ」

 言葉巧みな作り話に騙された叔母は複数回に渡って三千万近い金を渡してしまっていた。

 警察に相談して詐欺だと分かり被害届を出した時には貯金は底をいていた。

 斉藤は叔母に悪いのは騙す方であって騙される方は悪くないと言って慰めたが他の者達は違った。

 叔母の息子も含め、親戚達は騙された叔母を非難し冠婚葬祭に呼ばなくなった。

 周りの人達から次々と縁を切られ口も聞いてもらえなくなった。

 起業するにあたり母親の金を当てにしていた息子は、無一文になった母に腹を立てて寄り付かなくなり叔母は周囲から孤立した。

 味方は斉藤だけだったが彼は普通のサラリーマンだったから平日は側にてやることが出来なかった。

 一人で自責の念にさいなまれ続けた叔母はある日、自ら命をった。

 土曜に会いに行った時、チャイムを鳴らしても出てこない事に不安を覚えて大家に頼んで鍵を開けてもらって中に入ると叔母は首をっていた。

 救急車を呼んだものの、身体は冷たくなっていて、手遅れなのは医者でなくても分かった。

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