3月12日 寒の戻りと早春賦


 春を歌う歌はたくさんある。ありすぎる気すらする。

 春(春のうららの隅田川)、春の小川(春の小川はさらさらゆくよ)、朧月夜(菜の花畠に入日薄れ)……。

 さくらと名の付く歌にいたっては、ありすぎて題名だけでは区別がつかないくらいだ。皆、春が好きなのだなあと感慨深くなる。


 私が一番好きな春の歌は、なんと言っても「早春賦」だ。春の歌といえば、春の素晴らしさをたたえる歌が多い中、早春賦はひと味違う。今回は、早春賦の歌詞をおさらいしながら、早春賦の魅力をお伝えできればと思う。



 まず予備知識として、「早春賦」(作詞:吉丸一昌、作曲:中田章 敬称略)は、1913年に作られた唱歌である。

 実に110年も昔の歌だ。つまり、歌の中には110年前の日本人が共感し得る、春への思いが込められていると考えて良いだろう。


 では、さっそく早春賦の歌詞を見ていく。

 

 (ここから)

 

 春は名のみの風の寒さや

 谷の鶯 歌は思えど

 時にあらずと声も立てず

 時にあらずと声も立てず


 氷解け去り葦は角ぐむ

 さては時ぞと思うあやにく

 今日もきのうも雪の空

 今日もきのうも雪の空


 春と聞かねば知らでありしを

 聞けば急かるる胸の思いを

 いかにせよとのこの頃か

 いかにせよとのこの頃か


 (ここまで)



 歌詞を意訳すると、このようになる。


「春と言いつつ風は冷たい。うぐいすは歌う準備はできているのだろうが、まだその時ではないといって黙ったままだ」

「氷も解けたし葦の芽も出てきた。いよいよ春が来たと思ったのだが、今日も昨日も空は雪模様だ」

「もう春だといわれなければ春とは知らずにいられるのに、春だと聞いてしまったから胸がはやる。まったくこの気持ちをどうすればいいのだろう」


 これはあくまで私による「意訳」であるので、実際の言葉の意味などとは異なることに留意されたい。それにしても、いかがだろう。私がこのエッセイに書いていることと、だいたい同じではないだろうか。


 春と言いつつ風は冷たい。(うぐいすは鳴いたけれど)

 あちこちに春の気配こそ感じられど、気を抜くとすぐに冬が戻ってくる。「もう春だよ」と言われなければ、こちらも「まだ冬かなあ」と思っていられるだろうに、「春だよ」と言われるものだから、もう春なんだ、と胸が急いて仕方がない。


 昔の人も、同じことを考えていたのだ。いや、時系列的にいえば、私が昔の人たちと同じことを考えているというべきか。

 春は、とにかく気まぐれなのだ。来たと思ったら去る。気まぐれな春に、我々は110年前から振り回され続けている。


 110年前は、もちろん現代のような環境にないだろう。ボタンひとつ押せば温風が出てくる、便利なエアコンなどあるわけがない。自販機で熱々のコーヒーを買えるわけでもないし、天気予報のお姉さんが大雪の情報を教えてくれたりもしない。


 110年前の冬は、今の私では想像しても想像しきれないほど、過酷なものだっただろう。きっと先人たちは私よりずっと切実な気持ちで、早春賦を歌ったに違いない。


 暦の上の春を迎えてから、日ごとに少しずつ濃くなっていく春を探す。里に、野山に、田に、川に。枝には新芽が膨み、早朝に霜は降りなくなる。土の下からは福寿草や土筆が顔を出し、名前も知らない小さな虫たちが舞い飛ぶようになる。

 そうした春の兆しがありつつ、しかし三寒四温の言葉の通り、合間を縫って過酷な冬が再来する。膨らんだ新芽は雪に覆われ、せっかく活動を再開した虫たちも、寒さの前に再び姿を消してしまう。



 春と冬、暖と寒、動と静、生と死。それらの「ゆらぎ」に翻弄される存在を歌ったのが、早春賦なのだ。

 この歌の素晴らしいところは、歌詞の中に特定の感情が含まれていないことだと、私は思う。

 春が「ゆらぐ」ことに、怒りや悲しみを感じている描写はない。春が来てきっと嬉しいのだろうなと想像はできるが、「春が来て嬉しい」と明確に歌ってあるわけではない。


 2番の歌詞にある「さては時ぞと思うあやにく」や、3番の歌詞にある「聞けば急かるる」から、春を待ち望んでいることだけが痛いほど伝わってくる。(恐らくこの歌詞の主は、私なみにそわそわと春を待っているに違いない)

 しかし、そこに感情の表現はない。


 このような、感情的に中立である歌詞こそが、私が早春賦を好むもうひとつの要素だ。季節が「ゆらぐ」という事実を、ただ事実として受け止める。季節という雄大なものに対して過剰な要求をすることなく、寒の戻りに絶命してしまう虫たちのように、無力に「ゆらぐ」存在であり続けている。

 特定の感情が含まれていないからこそ、春と冬の間で「ゆらぐ」季節の間、私は何にはばかることもなく、心の底から「私」の歌として、早春賦を歌うことができるのだ。



 さて、昨日までは、やれうぐいすが鳴いたの今年は暖かすぎるだの書いておきながら、なぜ今さら春の不安定さを語るのかと、不思議に思われるかもしれない。あるいはこれをリアルタイムで読んでいる方には、明日以降の天気予報に思うところがあるかもしれない。

 今日、私のスマートフォンに、天気予報アプリから恐るべき通知が届いた。

『明日は、最高気温が今日より10℃ほど低くなります』


 110年前の冬の過酷さは、こんなものではなかったはずだ。110年前でなくとも、北の方では現代の冬も過酷だろう。私は日本のうちでも温暖な地域に住んでいるのだから、最高気温が10℃下がるくらいで文句を言うな、と自分で思うこともある。


 しかし、寒いものは寒い。私にとっての最適温度はせいぜい15℃くらいだし、それを下回ったら誰が何と言おうと寒いのだ。氷点下などもってのほかだ。

 明日は冷える。夜のうちから気合を入れて、春の合間の小さな冬に、気持ちを備えなければならない。



 早春賦の感情のなさが好きだ、などと書きはしたが、私自身は寒の戻りに大いに怒りを覚える。ふざけんな、もう春だろ、ばかばか! と思っている。

 私は器が小さいのだ。


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