第37話「古い傷痕」

 ディオナが倦怠感と共に目を覚ましたのは、冷たい石の上だった。身を起こすと、ジャラリと鎖が音を立て、足と腕を頑丈な魔練鋼の枷によって封じられていることに気付く。

 意識がはっきりしてくると、強い飢餓感に襲われる。いったい何日眠っていたのか。

 彼女は体を見渡し、まとわりついた黒い鎖を睨む。


「このっ! くっ!」


 思い切り地面に叩きつけるが、石畳の方がわずかに欠ける程度で枷はびくともしない。混乱のうちに目が暗闇に慣れ始め、彼女は次第に自分がどこに置かれているのかを知る。


「牢屋? なんで……」


 そこは冷たく湿ったカビ臭い空気に満ちた牢屋の中だった。頑丈な鉄格子が取り囲み、外を見る窓もない。

 ディオナは思い出せる限り直近の記憶を掘り返す。彼女はナルカポ商会と名乗る者の馬車を護衛するため、アルクシエラを出発したはずだ。目的地は南の港町シューレシエラ。三級傭兵向けの簡単な依頼で、本来なら指名依頼が大量に来ているディオナが受けるはずもないものだ。

 それでも彼女がわざわざ強く希望してこの護衛依頼を受けたのには訳がある。ここ最近、二級と三級という隔たりもでき、指名依頼に忙殺されていたこともあり、ディオナとアランの生活は隔たっていた。彼女はアランとろくに会話もないまま、彼が起きる前に家を出て、寝入った後に帰宅していた。そんな日々を送っていたから、たまには二人でまた食事をして、あわよくば仲良く羽を伸ばしたいと思うのも当然の流れだった。

 そんな折、彼女は指名依頼を出し、その達成後に晩餐会へと招待してくれたある貴族からこの依頼を紹介されたのだ。

 曰く、その貴族と付き合いのあるナルカポ商会という企業が、シューレシエラへの護衛を探している。ディオナだけでなく、アランも受けられるように三級相当の依頼として組合に提出するので、受けてはどうか。

 貴族の親切な申し出に、ディオナは一も二もなく飛びついた。彼女自身海を見たことはなく、だからこそアランと共に訪れてみたかった。


「ぐっ、ぅ」


 全身が痛み、ディオナは思わず苦悶の声を漏らす。腕や足、あらゆる骨が強い力が砕かれていた。義手は外され、棍棒もない。

 アランに依頼を一緒に受けようと誘ったが、断られた。そのことがショックで、三級相当であると伝え忘れたことに気付いたのは後のことだった。その後は再びすれ違いの日々が続き、アランに改めて説明することもできなかった。

 結局ひとりで向かうことになった護衛依頼は、最初の数日は順調だった。三級相当ということもあり、整備された街道を進むだけで特に危険もない。ディオナは馬車に乗り、のんびりと揺られていた。

 そして、夕食を食べて――。


「気付いたかね」

「っ! オマエは――!」


 不意に声が降る。顔を上げたディオナの目に飛び込んできたのは、ナルカポ商会の者だと言っていた男だった。その背後には武装した男たち。中には魔力を解放した魔法士まで。彼らは油断なくディオナに武器を向けていた。


「これはどういうことだ!」

「どういうことだ、と言われてもねぇ」


 激昂するディオナに、男は鷹揚に答える。そのニヤついた表情に、彼女は既視感を抱いた。


「まさか、ここまで上手く運ぶとは。オーガが馬鹿ってのは、本当なんだな」


 下品な笑いを漏らす細身の男。彼は鉄格子に手をかけて、ディオナを見下ろす。


「二束三文で売り払っちまったのが失敗だったな。まさかこんな上玉に化けるとは」

「オマエ……奴隷商人か!」


 その男のことを思い出す。忘れ去りたい記憶にあった。自分を鎖で繋ぎ、雨の降りしきる路地裏に捨てようとしていた男だ。


「勘違いすんな。俺はその忠実なる部下さ」


 笑う男の背後から、丸く太った別の男が現れる。全身を金銀の宝石で飾り、卑下た笑みを浮かべている。その男を、ディオナはすぐに思い出す。


「ククク。久しぶりだなぁ、小娘」

「貴様!」


 里を出たばかり、世間知らずなディオナを騙し、その身を奴隷へと堕とした張本人。不法な奴隷狩りによって財を成す、悪徳な奴隷商人。その顔を、忘れることなどできようはずもない。


「ここから出せ! ワタシはもう、奴隷じゃない!」


 勢いよく鉄格子に飛び掛かるディオナ。だが、奴隷商人たちは一歩下がるだけで届かない。余裕の笑みを浮かべたまま、商人は部下の男に目で合図を送った。


「あんまり暴れるな」

「ぎゃああああああああっ!?」


 男が何かを操作した瞬間、ディオナの全身に激痛が走る。身体中を雷撃が貫いたかのような強い衝撃で、彼女は胸が裂けそうなほどの叫び声を上げた。


「もう奴隷じゃない? 何を言っておるのだ。貴様の背中には、しっかりと印が残っておるではないか」


 拘束の魔導具が放った電撃によって、ディオナが着ていた服が焼け焦げる。はらりと落ちた布の下から顕になったのは、彼女の鍛え上げられた背中。そして、そこに刻まれた奴隷紋。


「これがある限り、お前は私のものだ」

「そんなことが、あああああああっ!?」


 歯向かうディオナに容赦なく電流が浴びせられる。外傷に凄まじい耐久性を誇るオーガ族も、全身に浸透する激痛には成す術がない。拘束具を引きちぎろうにも腕の骨は折られ、再生するだけの力も残っていなかった。


「竜を倒すほどの力を持ち、いくら傷付けてもすぐに癒える。しかも乳が大きく、顔もいい。こんな極上の商品を逃す手はないだろう」


 石畳の上に倒れながらも睨み上げるディオナを見下ろして、商人が笑う。


「多少の瑕疵もあるが、この程度はむしろにとってはそそるものだろう」


 ねっとりと絡みつくような声に、ディオナは怖気付く。体の芯から凍てつくような絶望が襲う。

 かつて彼女は、何処とも知れぬ鉱山で働かされていた。それは多少手荒に使っても構わない便利な道具だと思われていたからだ。しかし、今の彼女を見下ろす商人たちは、そう思っていない。

 アランの下で健やかに成長し、女性らしい魅力も増した彼女を、どう使えるか値踏みしている。


「やめ、やめろ……」


 心の奥底に刻まれた深い傷が疼く。彼らに与えられた恐怖が呼び起こされる。


「あまり暴れるなよ。そうすれば、悪いようにはしない」


 奴隷商人の声が粘ついていた。ディオナはガクガクと震え、座り込む。どれほど体を鍛えようとも、どれほど強い魔獣を狩ろうとも、その精神に負った傷は易々と消えはしない。忘れようとしていた、蓋をしていた記憶が溢れ出す。


「買い手はすでに、いくつも手があがっているんだ。オークションでも開いて、値を吊り上げてもいいだろう」


 商人の声など、すでにディオナの耳には届いていなかった。彼女の精神は現実から目を背け、過去の記憶を思い返す。

 痛みから解放され、久方ぶりに腹がはち切れそうになるほど食べたこと。彼と共に街の外に出て、知らなかった多くのことを教えてもらったこと。そして、彼と共に危険な森へと飛び込み、強大な竜を討ち倒したこと。

 いくつもの記憶が去来する。里を出て、悲惨な目に遭い、人を信じられなくなった彼女が再び立ち直ることができた、暖かく優しい思い出だ。


「心配するな。助けはこない」


 彼女の思いを見透かしたように、商人が発する。


「馬車は燃やし、足取りは消した。探そうにも、絶対見つかることはない。ほとぼりが冷めた後、帝国にでも行ってもらう」

「ぁ……ぁぁ……」


 足元が崩れるような絶望だった。もう彼には会えないというその事実が、何よりも彼女の胸を穿った。

 正気を失い、憔悴するディオナを、奴隷商人は愉悦の笑みで見下ろす。彼女が壊れ、反抗の意志を無くしていくのを確信し、後に待つ大きな稼ぎに期待していた。


「恨むのなら、自分を恨むんだな」


 男が言う。ギラついた眼でディオナを見下ろしながら。


「世間知らずで、馬鹿で愚鈍な、自分を――」


 その時、轟音と共に地下牢の鉄扉が弾け飛んだ。部下の男が形相を変え、振り向く。そこに、一直線に飛来した槍が突き刺さる。奴隷商人が腰を抜かし、床に倒れる。無数の足音と甲冑の擦れる金属音が、勢いよく雪崩れ込む。

 騒音の中に混ざった声を、ディオナは捉える。何よりも待ち侘びた、その声を。


「ディオナ!」

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