新婚初夜のベッドで夫に勝負を挑んだ話

宮前葵

新婚初夜のベッドの上で夫に勝負を挑んだ話

「勝負しなさい!」


 私はベッドの上に仁王立ちになって叫んだ。


 ここはアイスデン公爵のお屋敷。の次期公爵たるウェルディア様の寝室。


 そして私、エリナーレはウェルディア様の妻だった。しかも新婚。いや、新婚ほやほや。それどころか今日の昼間に結婚式を挙げたばかりだった。


 つまり今日この夜は新婚初夜。私はつい先程、公爵邸の大広間で行われた結婚式披露宴から、ウェルディア様にお姫様抱っこされた状態でこの夫婦の寝室に帰ってきて、この豪華な天蓋付きベッドに下ろされたところだ。


 その甘い最初の夜に、よりにもよってベッドの上で私は叫んだのだった。


「勝負よ勝負! 私はこの時を待っていたのよ!」


 鼻息を荒くする私をベッド横に腰掛けたヴェルディア様は呆れたように見上げていた。


「なんだそれは、どういう意味だ?」


「言葉通りの意味です! ヴェルディア様! 私は貴方と勝負がしたいのです! ――剣術の!」


 ヴェルディア様はこの王国の次期公爵にして騎士団長だ。しかも生半可な騎士団長では無い。


「無敵」「最強」「我が王国の誇り」「人外」「あり得ないほど強い」「化け物」


 などと讃えられる、我が王国のみならず近隣各国に鳴り響くほどの勇名を轟かせる、史上最高の騎士団長なのだ。実際、幾つかあった山賊退治や近隣各国との争いでは、その武勇を遺憾なく発揮して大活躍したという。


 そんな武勇があるにしては、その容姿は端麗で、けしてムキムキマッチョでは無い。夜会服でも身に纏えば非常に凜々しい貴公子にもなれる。


 なので人気沸騰、微笑めば貴婦人卒倒、夜会に出れば未婚のご令嬢殺到といった感じで、この人と結婚するのは本当に大変だったのだ。競争率が高過ぎて。


 その三桁に達しようかというライバルたちを蹴落とし幾多の困難を気合いで乗り切り、私はなんとかヴェルディア様の妻の座に、今日この日納まったのだった。


 その目的こそ彼に勝負を、剣術での勝負を挑む事だったのだ。


 ヴェルディア様は苦笑しながら仰った。


「新婚初夜の床で言う事がそれか。流石は『虎女』と言われるだけのことはあるな」


 「虎女」それは私に付けられた異名である。あんまり名誉な異名では無いとは思う。貴婦人としては。


     ◇◇◇


 私は伯爵家の次女として生まれたのだが、幼い頃から活発で、特に剣術に異常な興味を示したそうだ。お兄様が面白半分に基礎を教えると、私は瞬く間に強くなり、お兄様は元よりお兄様に剣を教えている先生だった元騎士をあっという間に打ち倒せるほどになってしまった。


 成長するに従って、修行の甲斐あってドンドン強くなっていった。王都の剣術道場に次々入門。そしてどこでも道場主を倒してしまい、遂には戦う相手がいなくなってしまった。付いたあだ名が「虎女」。私は古今無双の女性剣士という称号をほしいままにし、王都にその勇名を轟かせた。実戦だってしたわよ。戦地に行くのは無理だったけど、お父様の領地に出た野盗の類いを一人で壊滅させたことだってあるんだからね。


 もっとも、貴族女性が剣術に傾倒するなど本来は有り得べからざる事だ。貴族令嬢はお淑やかに。これが鉄則。お父様もお母様も私のやることに寛容で、同時に貧乏伯爵家だった我が家としては次女の嫁入りになど期待していないから、私に好き勝手にやらせてくれただけなのだ。だから私の武勇が有名になると同時に、社交界では私に対する冷たい見方も増えていってしまった。曰く「女が強くなってどうするのか」「慎みにかける」「どうせ結婚して子供を産むしか無いのに」などなど。


 女が強くて何が悪い! と私はそういう連中に反発していた。私は努力し修行し、その結果強くなっているのだ。その頑張りを否定されるのはもの凄く悔しかった。何よ! 今に見てなさいよ! 私は女である事なんて関係無く、この世で一番強い剣士になってみせるんだからね! 誰にも認められる最強の剣士に、私はなってみせる!


 という事で私は社交界にも禄に出る事無く剣術と体力を磨き抜き、その強さを極めようとしていた。そう。ヴェルディア様の事を知るまでは。


 私はいよいよ強くなり、平民の剣士には敵は無く、遂には王国の誇る騎士団の者達とも戦い始めてその悉くを敗るようになっていた。私はいい気になっていた。何しろ騎士団と言えば文句なくこの王国の武の頂点だ。一回の敗北で納得しない騎士は何度でも撃ち倒してやった。そして遂に騎士団所属の騎士全員に「エリナーレ嬢には敵わない」と納得させるに至ったのだ。そう。私が一番強い! 私こそ最強の剣士。私はこの国の剣士の頂点に至ったのだ!


 ……ところが、私に負けた騎士は女に負けた腹いせからか、揃って悔しそうにこう言うのだ。


「確かに強いが……、ヴェルディア様に比べればまだまだだな」


「ああ、ヴェルディア様の方が恐らく強い」


 ヴェルディア様? 私は首を傾げる。彼の事は知ってはいた。そりゃ次期公爵様だもの。社交にたまに出て来て、女性に十重二十重に取り囲まれているのも見ていたので。


 あの優男が強い? 私にはそうは思えなかったのだけど、勝負の後には仲良くなって、一緒に剣を交えて修行するような関係になった騎士の者達も、口を揃えて私はまだヴェルディア様に及ばないと断言した。


 うむー! 私は不満だった。彼らは私には敵わないと認めておきながら、私よりヴェルディア様の方が強いという。不満だったし不可解だった。それならば私の方がヴェルディア様とやらより強いと証明してやる! ここに連れて来なさい!


 と私は叫んだのだが、騎士たちは笑って「それは無理だ」と言った。


「ヴェルディア様は次期公爵。傍系王族だぞ? 騎士の訓練にはあまりお出でにならないし、身分低い者とは剣を合わせて下さらない。まして女とは」


 何でも、部外者である私を騎士の訓練場に招いていること自体、騎士団長たるヴェルディア様に知られたら怒られるだろうとの事。なのでヴェルディア様に勝負を挑むような非礼をしようものなら私は罰せられてしまうだろうという。そ、そんな……。


 実際、私はそれから何度も修行のために騎士団の訓練場に行ったのだが「今日はヴェルディア様が来ているから駄目だ」と何回か入場を断られた。ヴェルディア様は厳しい方なので、私が剣術修行のために男装しているのを見られただけでも、騎士団の者達はお叱りを受けるだろうと言われ、ヴェルディア様が戦っている所を見学することさえ出来なかった。


 く、くやしい。王国最強の剣士の称号まであと少し、あと一人なのに。戦うことからして出来ないなんて! 騎士団への入団は女だから元より出来ない。ここまで来たのだ。私はどうしても王国一の剣士になりたかった。そのためにはヴェルディア様と戦って勝たなければならないのに!


 どうするか。ヴェルディア様と戦うにはどうすればいいのか。騎士団の訓練場に潜入? 摘まみ出されるだけだ。ヴェルディア様を闇討ち? それで勝っても誇れないし、バレたら私だけで無く家族も巻き込んで打ち首、族滅だ。そんな事は流石に出来ない。どうしよう。何か方法は無いものか。私は良くない頭で必死に考えた。


 そして導き出した答えが「ヴェルディア様と結婚して妻になる」事だった。


 そう。ヴェルディア様の妻になれば彼とは身分が対等になる。そうなれば私の挑戦を彼は受けずにいられなくなるだろう。そう考えたのだ。名案だった。他に方法は考えられなかったわ。私は興奮した。彼の妻になって彼に挑戦し、勝って王国最強の称号を手に入れるのだ。


 ……とここまで考えて、私は冷水を浴びせられたような気分になる。ヴェルディア様の妻になる? どうやって?


 ……私は剣術修行にかまけすぎて、礼儀作法や所作や言葉遣い、教養芸術その他貴族令嬢教育をまったく疎かにして生きてきてしまったのだ。つまり本来貴族女性が幼少時より身に付けるべき花嫁教育を投げ捨てて、十五のこの歳まで育ってしまっていたのである。


 ヴェルディア様は次期公爵。傍系皇族。まかり間違えば国王陛下にもなられようという方だ。そんな方が私みたいに貴族女性が当然身に付けているべき花嫁教育が全然出来ていない女を娶るだろうか? あり得ないだろう。それくらい社交界に疎い私にだって分かる。


 どうしよう。どうすれば良いのか。こんな私が次期公爵の嫁になるなんて無理だ。不可能だ。無理に決まっている。分不相応な夢は捨てろ。諦めろ。そういう思いが私の頭の中を駆け巡った。


 いや! 私は決意した。諦めない! 私は絶対に諦めない! 女なんかに剣術は無理だ。強くなるのは無理だ。諦めろ。そういう台詞は散々言われてきた。しかしそういう有象無象の意見を撃ち倒して、私はここまで強くなったのではないか。諦めない。私は絶対に諦めないんだからね!


 私はお父様お母様に必死に頼みこんだ。


「花嫁教育をやり直したいの! お願い! 先生を呼んで!」


 礼儀作法や所作を身に付けるにも、教養芸術を学ぶにも先生が必要なのだ。相当な費用が必要になる。我が家が貧乏な事は承知しているが、どうしても家の家計から出して貰わなければならない。


 お父様もお母様も私の豹変に驚き、多額な費用を掛けたって今更社交界で「虎女」として名高い私が碌な家に嫁げるとは思えないと大分渋ったが、私の必死のお願いに結局応じて、先生を招いて下さった。


 私は必死に先生からお作法その他を学んだ。なじんだ剣と剣術着は放り捨て、ドレスを身に纏いお化粧をして、歩き難いヒールの靴を履いた。そして厳しい先生方の授業に死に物狂いで取り組んだのだ。本来は五歳の幼女が身に付けているべき事が出来ていないのだから、本当に一からのスタートだったのである。


 お作法は動きを身に付けるためには、地道にその所作を繰り返す事が重要だ。立ち方座り方、歩き方微笑み方。これを飽きずに繰り返して完璧に出来るように練習する。それしか無いのだ。大丈夫。私は剣術で基本の大切さは知っているもの。潰れたマメのせいで手を真っ赤に染めて素振りを繰り返したのに比べれば楽なものだ。


 教養芸術だって要するに訓練だ。ひたすら地道なトレーニングが大事なのだ。これも剣術と同じ。型を身に付けるために重い剣を使って稽古をやったものだ。あれと同じだ。それなら私の得意分野じゃないの。私は寝る間も惜しんで勉強し、楽器を練習した。


 必死の学習と訓練の甲斐あって、先生方が驚くほど私は急速に貴族婦人に相応しい品格を身に付けていった。私はそれまではお父様に言われた時にだけ渋々出ていた社交に、積極的に出るようになった。教わった社交技術を本物にするために。場数は大事だ。基本を身に付けたら後は実戦あるのみ。戦った数が強さになるのだ。


 「虎女」が社交に出るようになった事は貴族社会を驚かせ「今更結婚しなきゃいけないことに気が付いたらしい」などと笑われた。何とでも言うが良い。私の目的を知ったら驚くじゃ済まないでしょうよ。と私は内心思いながら身に付けた社交笑顔を振りまいて、社交の技術を磨きつつ、ヴェルディア様に近付く機会を伺っていた。


 何しろヴェルディア様は次期公爵。私は貧乏伯爵家。身分が大きく違うのだ。辛うじて上位貴族同士なので同じ社交に出られない程では無いけど、社交では遙かに身分高い者に下位の者が近付き過ぎるのは歓迎されない。ましてヴェルディア様は社交では私よりも高位のご令嬢方に囲まれていて、貧乏伯爵令嬢で出遅れてきた虎女なんかが近付く余地は無い。同じ社交に出ても接触は容易ではないのだ。普通に社交に出るだけでは。


 ふふん。どんなに鉄壁に見えたって、探せば隙はあるものよ。私はそうやってどんなに大柄で私よりも力の強い剣士にだって勝ってきたんだからね。私は彼の出る社交を選んで出席し、慎重に彼の事を観察した。剣術の試合でも情報収集は大事だ。まず敵を知ること。それが勝利のための第一歩だ。


 その結果、ヴェルディア様が女性に囲まれるのがあまりお好きでは無さそうだ、という事が分かった。社交だから仕方なく挨拶を受け、ダンスをして、多少は歓談するのだけど、すぐに引き上げて男性とゲームやお酒を楽しむ男性社交に移ってしまうのだ。ご令嬢方は残念がっているけどこれは勝機だ。私は、お兄様にゲームのやり方を徹底的に教わった。今貴族男性の間で流行っているのはチェスで、騎士たちに話を聞いたところによると、ヴェルディア様はこれが大好きなのだという。


 それ以外にも仲良くなった騎士や、ヴェルディア様のファンである貴族令嬢。夫人など色々なところからヴェルディア様の情報を収集し、私は作戦を練った。よし。十分な作戦が立案出来たと判断した私は決意する。機は熟した。あとは決然とした行動あるのみ。覚悟と決意の一撃が勝利を生むのだ。恐れる事無く進むべし。


 ……ある社交で、私は意を決してヴェルディア様へとご挨拶に伺った。これ自体は別に不思議な行動では無い。いくら貧乏伯爵家でも伯爵家は伯爵家。ヴェルディア様への目通りが許されないほど低い身分では無いのだから。そして私はまだヴェルディア様に初対面の挨拶を済ませていなかった。初対面のご挨拶は貴族社会では非常に重要視されていて、特に王族へのご挨拶は半ば儀式である。これを妨げるのは非礼になるので、ヴェルディア様を取り巻く高位のご令嬢でも妨げることは出来ない。


 私の目的が初対面のご挨拶である事を知ったご令嬢方は渋々道を空け、私は堂々と静々とヴェルディア様の前に進み出て、優雅に跪き初対面のご挨拶をした。勿論、練習したお作法に完璧に従った挨拶だ。


「この良き夜に、初めてお目に掛かります。私はブレミン伯爵家次女、エリナーレでございます。次期公爵たるヴェルディア様のご尊顔を拝し奉り、恐悦至極に存じます」


 ヴェルディア様は少し驚いたような、意外そうな表情を見せた。


「おう。ブレミン伯爵家には『虎女』と呼ばれる猛女がいると聞いていたが、それは其方の事では無かったかな?」


「あら、お聞き及びになっておられましたか? 如何にも私が『虎女』でございます」


 ふむ。まさか私を知っているとは思わなかったわ。これは好材料ね。悪名でも聞こえていた方が私の事を印象付け易い。まずはなにより覚えて貰うことだ。


「そうか。噂なぞあてにならぬな。見事な美しい淑女ではないか」


「お褒めに預かり恐縮でございますわ」


 私が褒められると、私の挨拶を見守っている高位貴族ご令嬢方の空気がピリッと引き締まった。ライバル出現を警戒しているのだろう。早く挨拶を終わらせてヴェルディア様から離れろよ! というオーラが吹き付けてくるようだ。ふふん。冗談じゃ無い。これからが本番よ。ライバル出現どころでは済まさないわ。今日で私は勝負を決めてやる気なんだからね。私は何食わぬ顔をしてヴェルディア様に申し出た。


「つきましてはヴェルディア様。私と一曲、ダンスをお付き合い下さいませんか?」


 本来ダンスを誘うのは男性からというのが社交の作法だが、初対面の挨拶の時は女性からダンスをせがんでも例外的に失礼にはならない。それはこの場のご令嬢方も当然知っているから私を咎めたり止めたりすることは出来ない。彼女たちはうぬぬっと唸っている。ふふん。狙い通りよね。そのために私は今日この日まで、何度もヴェルディア様と同じ社交に出てもご挨拶に伺わなかったのだ。


「ああ、エリナーレ嬢。喜んで」


 ヴェルディア様は麗しく微笑んで私の手を取って下さった。作戦の第一段階は成功だ。しかし私は喜びを顔に出すこと無く優雅に微笑んだ。


 ホールの中央に並んで進み出ると、ざわめきが沸き起こった。何しろ社交界きっての美男子と虎女の組み合わせだ。さぞかし不釣り合いに見えるに違いない。私は何食わぬ顔をして、ヴェルディア様を見上げた。ヴェルディア様は長身で、私も女性にしては非常に背が高い。ふむ。背丈の釣り合いは良いから踊り易そうね。彼もそれはそれは美麗な微笑みを浮かべて私を見下ろしている。


 曲が始まる。それほど難しくない曲目だ。私達は滑り出すようにダンスを始めた。この時、私は意識してヴェルディア様に密着しなかった。彼がベタベタとひっつく女がお嫌いである事を観察の結果見抜いていたからだ。彼に不快感や悪印象を与えてしまっては作戦以前の問題だろう。


 彼との息はぴったりで、案の定踊り易くて快適だった。やっぱりヴェルディア様も運動能力が非常に高いのだろうね。もの凄くダンスが上手い。彼は私の足下を見ながら少し意外そうな顔をした。


「随分達者に踊るのだな」


「練習しましたので」


 練習したんですよ。必死に! 足に血豆が出来て潰れるくらい!


 そう。この一曲のために。全てはこの瞬間のために、私は血の滲むような努力を積み重ねてきたのだ。私は何食わぬ顔をして踊りながら作戦を開始した。


「そういえば、ヴェルディア様はチェスがお好きなのですってね?」


 ヴェルディア様は興味深そうに私の顔をのぞき込んだ。


「よく知っておるな」


「ええ。お兄様に聞きました」


 嘘である。本当は騎士たちから集めた情報だ。でもお兄様が一度だけヴェルディア様とチェスをやったことがあるのは事実らしい。だからこの嘘は見抜けまい。


「ヴェルディア様は良い指し手だと伺いました。……どうでしょう? 女性の打つチェスには興味はございませんか?」


 ヴェルディア様の表情が少し動いた。女性は普通はチェスなどやらないから、どんなものかと気になったのだろう。よし。私は内心で拳を握りしめる。ヴェルディア様程の方の表情が動いたのだから、これは余程興味を惹かれたに違いない。チャンスだ!


「……チェスが出来るのか?」


「ええ。ちゃんと打てますよ。兄としかやったことが無いのでつまらなくて。お相手して下さると嬉しいのですけれど」


 私は慎重に言った。ここで喜び勇んで前のめりに食いついては元も子も無くなる。剣術でも攻めと守りのメリハリは大事なのだ。


 ヴェルディア様は踊りながら少し考え込んでいらっしゃった。そうしている内に曲が終わる。曲が終わればダンスは終了。お別れだ。……駄目か。これでお別れすれば、再び彼に近付くことは容易では無くなってしまう。渾身の作戦だったが不発に終わったようだった。仕方ない。また違う作戦と機会を伺わなければ……。


 しかし、曲が終わるとヴェルディア様は優雅に微笑みながら言った。


「もう一曲、お願い出来るかな? エリナーレ嬢」


 儀礼的なダンスでは一曲で終わらせる事も多いが、普通は男女のダンスは三曲が一セットだ。どうやらヴェルディア様は私と三曲踊ってくれる気になってくれたらしい。これまで見ていた範囲では、ヴェルディア様は相手の女性が気に入らないと(ベタベタし過ぎると)本来三曲踊るべき所を一曲で切り上げてしまう事も多かった。私の気遣いはダンスパートナーとして合格だったようだ。そのまま二曲目に突入する。私は次の作戦を前倒しで使う事にした。出し惜しみするほどこちらには余裕が無い。次の機会など無いかも知れないのだ。


「そうそう。私、自分で言うのも何ですけど、結構な酒豪ですのよ」


「……女だてらにか?」


「ええ。ヴェルディア様も酒豪でいらっしゃるとか。是非一度、杯をご一緒させて頂けないでしょうか?」


 これも騎士団情報だ。ヴェルディア様はお酒が好きだが、酒豪であり過ぎて付き合ってくれる者がいないのだそうだ。その点、私は我が家一お酒に強い。騎士団の面々とも酒場に繰り出して呑んだ事があるけど、全員を酔い潰してやったわよ。ヴェルディア様がどれほどの酒豪かは分からないけれど、お付き合いくらいは出来る自信がある。女性は普通、酒豪である事など誇らないものだから、これもヴェルディア様に興味を惹かせる事が出来るだろう。


 ヴェルディア様は踊りながら考え込まれていた。そうこうしている内に曲が終わる。続けて三曲目に誘われる。少しアップテンポの曲を私とヴェルディア様は流れるように踊り始める。


「……そういえば、虎女と言われるほどの其方だから、戦うのが好きなのだろうな」


 私は反射的に「それはもう!」と叫びそうになり、慌てて自重する。


「……いいえ、ヴェルディア様が何をお聞き及びになったかは分かりませんが、私の剣術など嗜み程度。護身の範疇ですわ。皆様大げさに仰いますから」


 ここで剣術試合は私の生きがいです! なんて叫んで引かれては困る。あくまで目的は彼の妻になってから、思う存分彼と戦うことなのだから。


「そうなのか? 騎士団の者達からも、凄く強いと聞いたがな」


「いえいえ。騎士団の皆様と手合わせをして頂いた事はございますが、皆様女性の私に花を持たせるためにわざと負けて下さいましたわ」


 最初はそうだったけど、私が挑発して本気を出させ、それでも更に私が勝ったからね! 私の方が本当に強いのよ! なんてことは言わない。猫かぶり大事。何のために花嫁修業を頑張ったと思っているのだ。ここで地を出すわけにはいかない。淑女である私が、チェスが出来たりお酒が呑めたりする意外性が大事なのだ。男勝りの虎女が出来たって意外でも何でも無い。意外性でヴェルディア様に興味を惹かせる。それが私の考えた渾身の作戦だったのだ。


 ヴェルディ様は「そうか、そうか」となぜか満足そうに頷いていらっしゃったわね。ふむ。随分と私に興味を持って下さったようね。これなら……。


 そして運命の三曲目が終わる。私とヴェルディア様は離れて一礼した。さぁ、どうなる……!


 するとヴェルディア様は一斉に近付いてくるご令嬢たちを制して、私に向かって言った。


「ではエリナーレ嬢。チェスを一局、対戦して頂こう。女性の指し筋に興味がある」


 その瞬間会場が大きくどよめく。よし! 私は内心で快哉を叫びながらも、表には社交微笑だけを現し、スカートを広げて優雅に一礼した。


   ◇◇◇


 まぁ、それからも紆余曲折、結婚にこぎ着けるまでには波瀾万丈、もの凄く大変だったんだけどね。何しろこちらは貧乏伯爵家。彼は次期公爵。ギリギリ貴賤結婚になるかどうかというような微妙な階位だったし。


 なにしろ次期公爵であるヴェルディア様には我が家よりも高位の令嬢からの求愛が山のようにあり、高位貴族家からの縁談の申し入れも数限りなくあったそうだ。中には隣国の王女との縁談や国王陛下の三女姫が降嫁なさるお話まで有ったというのだから正直、後ろ盾も何にも無い私がヴェルディア様と結婚出来たのはほとんど奇跡だと言っても良かった。


 単純に並み居る高位貴族令嬢のライバルをはね除けて、無事に今日の結婚式にたどり着くだけでも本当に大変だったのだ。憧れのアイドルであるヴェルディア様を奪った私は、貴族女性をのこらず全員敵に回してしまっていた。一人残らず全員よ? 高齢の貴族夫人ですら私をもの凄い目で睨んで来たものだ。単なるファンである方でもそんななんだから若い「我こそはヴェルディア様に相応しい」と自負する高位貴族令嬢に至ってはそれどころでは無かった。それはもう、嫉妬とか妬みとかの枠を超えたもの凄い敵意が私に一斉に向けられてしまったのだった。あれはもう殺意ね。


 何しろ闇討ちが五回、屋敷に賊が侵入したことさえ三回あったのだ。夜会の裏で高位の令嬢に呼び出しを食らう事も数知れず、公衆の面前で赤ワインをぶっかけられた事だってある。それ以外の嫌がらせなんか数える気にもならない。


 しかしそれら全てを私は奮闘してやっつけた。闇討ちは返り討ちにし、賊は叩き斬り、つるし上げは逆に脅かして二度と私の前に出られないほどのトラウマを植え付け、ワインを掛けてきた令嬢には後できちんとやり返した(庭園の池に叩き込んでやったわ)。最終的には私は大いに恐れられ、貴族女性は誰も私に近付かなくなった程だ。


 家柄の違いはヴェルディア様が頑張って下さって、国王陛下にお願いまでしてくれたおかげで解決した。ヴェルディア様は私の事を気に入って下さったらしく、初対面のご挨拶の半年後に婚姻の申し入れが我が家にあり婚約。ヴェルディア様にどんな思惑があったかは分からないけど(貴族同士の婚姻に家同士の思惑が絡まないなんてあり得ないから)交際期間、婚約期間中彼は私を丁重に愛情深く扱って下さったわ。そして今日、遂に私達は今日の結婚にたどり着いたのだった。


 神殿でウェディングドレスに身を包み、凜々しいタキシード姿のヴェルディア様のキスを頂きながら、私は目標達成の歓喜に震えていた。いや、正確にはこれで終わりでは無い。これでようやく目的達成の準備が整ったに過ぎない。


 結婚して彼の妻になり公爵一族になったからには、遂に私は彼に勝負を挑む事が出来る身分を手に入れたのだ。妻であれば、彼と戦うことが出来る。全ての努力や頑張りはヴェルディア様に勝負を挑むため。私はこの日この時を待っていたのだ! 


 と叫ぶ私をヴェルディア様は面白そうに見上げていた。薄い夜着を身に纏い、披露宴で随分お酒を呑んだからか、はだけた所から見える胸板は、少し肌が赤くなっている。


「随分と気の長い計画だった事だな。もしも私と結婚出来なかったらどうするつもりだったのだ」


「分かりません。これしか方法は無いと思ったから必死だったのです! でも遂に念願が叶いました! ヴェルディア様! よもや断りませんよね! いざ尋常に勝負!」


 私が勢い込んで言うと、彼は苦笑し、頷いた。


「よろしい。我が妻の頼みだ。断るまい。手合わせをしようでは無いか」


 私は欣喜雀躍した。


「本当ですか!」


 私はベッドにしゃがみ込み、ヴェルディア様を間近からのぞき込んだ。するとヴェルディア様はもの凄く楽しそうにお笑いになった。


「ああ。勿論だとも。だが、その前に……」


 ヴェルディア様はさっと手を払う。私の足下を。え? 鮮やかな手技でこの私がなすすべも無く転がされてしまう。ベッドの上に。


 ヴェルディア様が無駄の無い動きで私の上にのしかかる。……え?


「妻のお仕事を済ませて貰おうかな? 愛しいエリー?」


 はう? 私は混乱した。えーと、その勝負は? 勝負ってまさか……。


「いや、ちゃんと剣術の勝負もするとも。そうだな。来週くらいにやろうか」


「べ、別に明日でも良いのですが」


 いまさら来週までお預けなんて酷い! 私はそう思ったのだが、ヴェルディア様は色っぽい表情で意味ありげに微笑んだ。


「君は初めてだろう? 明日はそんな余裕は無いと思うぞ? それに我が家のしきたりでは、初夜から三夜は連続で床を共にする事になっている。そう考えると君が普通に戦えるようになるのは来週くらいだと思うがな?」


「な、何ですかそのしきたりは? 初めて聞いたんですけど!」


「私が今決めたからな」


 ヴェルディア様はそう嘯くと、私の唇を優しく自分の唇で塞ぎ、丁重に吸い始めた。


 ちょっと! ちょっと待って! その心の準備が! 心の準備が――! ヴェルディア様に剣術試合を申し込む事が楽しみだったあまり、本来初夜のベッドですることに対する心の準備が全く出来ていなかった私は声にならない叫びを上げたのだが、ヴェルディア様は勿論聞いては下さらなかった。


   ◇◇◇


 ……実際、普通に歩けるようになるまでに三日は掛かったわよ。ヴェルディア様は「なんだ情けないな」なんて笑っていたけれど、絶対アレは普通じゃ無いわよね。この私が疲れが果てて動けなくなるようなアレが普通な筈無いじゃ無い。しかも宣言通り三日も好き放題弄ばれてしまった。流石の私も三夜目の翌日は昼過ぎまで目が覚めなかった程だ。


 しかし、それから三日休養したらなんとか回復した。ヴェルディア様もその三日は自重して下さったし。これなら戦える。よーし見ていなさいよ! 辱められた分も剣で夫にぶつけてやるんだからね!


 と自分勝手な怒りに駆られた私は久しぶりに男装し(本来貴族女性が男装するなんてとんでもない破廉恥行為だが、ヴェルディア様は笑って許して下さった)、広大な公爵邸の片隅に造られている訓練場にヴェルディア様と共に出向いた。騎士の訓練場並みに広いそこに出ると気分が高揚する。いよいよだ! 遂に私が王国最強の剣士になる時が来たのよ!


 この時、私は自分が勝つことを微塵も疑っていなかった。むしろ、ヴェルディア様が意外に弱くて私の相手にならないんじゃ無いかと心配していたくらいだったわね。だってヴェルディア様、チェスがお好きなのに凄く弱いんだもの。最初はビックリしたわ。あの調子で周囲が高位の次期公爵であるヴェルディア様を強い強いと持ち上げているだけだったらどうしようかと思ったのだ。


 もしも期待外れなようなら、即日離縁して私は更なる強敵を探して他国へ旅立とう。とまで私は思っていた。


 ヴェルディア様はつやつやとしてご機嫌麗しそうだった。格好は一応訓練服だけど、この方が着るとなぜかそんな服でも凜々しいから困る。私とヴェルディア様は訓練場備え付けの、刃を丸めてある剣を手に取った。流石は公爵家。こんな剣でもかなり高級品だわね。


「では始めよう。一本で良いのか?」


 一本とは騎士の訓練用語で、一撃を食らうか(本当に当てる場合もあるが、それでは怪我をするので寸止めが多い)相手が負けを認める事を意味する。私は鼻息を荒くして叫んだ。


「それで良いわ! 早速やりましょう!」


 ヴェルディア様は何故かそれは嬉しそうに微笑むと、剣を優雅に構えた。


 その瞬間、ただでさえ長身のヴェルディア様がいきなり何倍も大きくなったように見えた。


「な……!」


 私は思わず後ろに飛びずさり、剣を構える。な、何なのよ! 正面に立つヴェルディア様からもの凄い威圧感が吹き付けてくる。お顔はニコニコしているのに殺気が尋常では無い。こ、これは噂に違わないわ! 騎士たちが口々に畏敬の念を捧げていた最強の剣士がここにいる!


 私は興奮した。こうでなくては。こうでなくてはあんなに頑張って彼と結婚してこの場にたどり着いた意味が無いではないか。私は剣を握り直し、身体を低くした。


 そして低い姿勢のまま一気に駆け出し、間合いを詰める。剣を後ろに引き、そしてそれを低い位置から切り上げる。


「たあぁぁぁ!」


 下からの攻撃は剣術の基本には無い。これは実戦の剣術だ。騎士の流儀には無いと思うのに、ヴェルディア様は流石、戸惑う事も無く剣を合わせてきた。二つの剣が火花を放って打ち合わされる。その刹那。


「ここ!」


 私は剣を閃かせて今度は上から斬りつけた。いわゆる燕返し。私の必殺技だ。これを防げた奴はほとんどいなかったわよ!


 剣が一気に夫の肩に落ち掛かる。しまった。本気で斬り付けてしまった。でも手加減の余裕は無いから仕方が無いわよね。


 と思ったのは一瞬だった。確実にヴェルディア様の身体を捉えたと思った私の剣は、何と空を斬ったのだ。ええ? ヴェルディア様は? 夫はどこへ?


「ほほう。流石だな。そんな技まで持っていたのか」


 ヴェルディア様は涼しい顔で私の真横にいた。全身の毛が逆立つ。剣を全力で斬り下ろして無防備になっていた私はどうにも出来ない。やられる!


 だがヴェルディア様はニコニコと笑うだけで隙を突いてこない。私は慌てて跳んで逃げて間合いを外した。汗がどっと噴き出る。


「ど、どうやって……?」


「何。見てから躱せば良いのだからそれほど難しくは無い」


 つまり私の神速と自負する燕返しを見切られたという事では無いか。私は怒りと屈辱に顔を赤くした。


「ふむ。納得がいかないような顔をしているな。では今度はこちらから行こうか」


 その声に私は防御のために反射的に剣を身体に引きつける。それを見届けて、ヴェルディア様は頷き、消えた。


「は?」


 私が間抜けに声を上げた時にはもう間近に突っ込んで来ていた。反応しようと思った時には夫が突きを放っている。光としか見えない突きは私のお腹に突き刺さっていた。……死んだ?


「騎士団の試合ならこれで一本だが?」


 ヴェルディア様がのんびりと言った。愕然としてよく見ると、ヴェルディア様の剣は寸止め、まさに私の服に触るか触らないかの所で止まっている。汗が噴き出し震えが止まらない。


 差が、差があり過ぎる! 絶対的な力量の差がある事を私は嫌という程自覚した。


 し、しかし、諦める訳にはいかない。私は彼に勝つために、そのために大変な花嫁修業をこなし、ライバルを蹴落とし、彼の妻になったのだから。負けるわけにはいかないのだ。私は恐れを振り払いながら、同時に剣を振るった。


「まだまだ! 勝負よ!」


 ……そうして私はそれからも随分と頑張ったのだが、技は返され躱され、彼の剣は見事な寸止めで、寸止めされなければ即死という場所に入り続け、それこそベッドの上と同じように私は散々に翻弄された。最終的にはばったりと、私は地面にうつ伏せに倒れ伏してしまった。もう動けない。


「ふむ。ここまでだな」


 ヴェルディア様は従僕から受け取った手ぬぐいで汗を軽く拭っただけだった。息も切らしていない。私の方は汗だくで息は切れて色々ボロボロだというのに。


 ううう、悔しい。悔しすぎる。私は涙を浮かべて唸ってしまった。まさかこれほどの差が有ろうとは。どうして? なんでこんな事が……。


「流石に強かった。うむ。やはり虎女、私の妻だけのことはある」


 満足そうなヴェルディア様を恨めしげに見上げて、私は起き上がれないまま言った。


「どうして、どうしてそんなに強いのですか?」


 ヴェルディア様は楽しそうに声を上げて笑った。


「面白い質問だな。私が強いのは最初からだ。だが、君の技が通じなかったのは、そうだな。私が君の全てを把握しているからだな」


 は? どういうこと?


「ふむ。君とは結婚するまでに何度も踊ったな? その時から私は君をずっと観察していたのだ。ダンスをすれば相手の運動能力は大体見切ることが出来る。君は素直に手の内を出し過ぎるのだ。チェスもそうだ。あんなに何回も君とチェスをすれば、君の考え方は丸裸になる。攻防の癖は一目瞭然だ。後で対決する気があるのだったら、手の内は隠さなければならぬ」


 私はあんぐりと口を開けてしまった。なんですかそれは! まさかあの下手くそなチェスは、私との対戦時に思考の癖を読まれないための事前準備だったとでも言うのですか? 呆然とする私を見下ろしながらヴェルディア様は更に言った。


「それと閨だな。三日も閨を共にすれば、君の身体のサイズ、筋力、動きの癖、切れ、体力量。すべて丸裸になる。私はもう君の隅々まで知っているのだ。私はもう君の動きに驚かされる事は無いだろう」


 私の顔は真っ赤になってしまう。隅々まで! そりゃあ、隅々まで知られてしまいましたけどね! そんな事が剣術の試合に影響するものなのですか? 初耳ですよ!


「何事も剣術の修業になるもの。剣士たる者は常在戦場。いつ誰と戦う事になるかも分からぬ。油断をしてはならない。君はその意味ではまだまだ甘いな」


 ……分かった。この人、私以上の剣術馬鹿だ。敵わないわけだ。いついかなる時も油断せず、常に相手に勝つことを考え、観察と研究を怠らない。勿論、基本的な修業も嫌というほどこなしているのだろう。


 く、悔しい。負けた。完全に負けてしまった。試合にも、剣士としての心構えでも……。


「まぁ、私達は夫婦になったのだ。再戦には何度でも応じよう。……その前に」


 う、なんだか嫌な予感が。


「風呂に入って身体を清めてくるように。私は良い戦いをすると身体が興奮してしまってな。先にベッドで待っているから、すぐ来るのだぞ?」


 そう言い残してヴェルディア様は軽い足取りで歩き去った。


 え? ちょっと待って? まさかこのボロボロに疲れ果てている私に、その、閨を付き合えと? ちょっと待って! 無理よ無理! 助けてー!


 ……などという私の要望は通る事は無く、いつもより激しいヴェルディア様にベッドでも弄ばれて、私は遂には熱を出して一日寝込む羽目になったのだった。


  ◇◇◇


 あの試合以降、私は何度もヴェルディア様に剣術で挑んだ。


 勿論、勝ち目は無かった。兎に角ヴェルディア様は本当に全く鬼のように強いのだ。毎回毎回コテンパン。私の自慢の剣は掠りもしなかった。ヴェルディア様は私の身体に傷を付けないように細心の注意を払ってくれていやがって、一度も剣を身体に当てないし、むしろ私が足を滑らせて転び掛けた時は支えてくれたりまでした。余裕綽々。差があり過ぎて笑うしか無い。


 く、悔しい。悔しいを通り越して私は絶望したわよ。こんなに差があっては一生私は彼に勝てないでは無いか。


 何しろ、ヴェルディア様は騎士団長だから日常的に訓練をしている。騎士団の訓練場でもだが、このお屋敷の訓練場でも毎朝二時間は訓練をしているのだという。そのご様子は一回見せて貰ったが……。あり得ないほどのハードトレーニングだった。無理。私には真似出来ない。


 何しろ私は次期公爵夫人になってしまっているのだ。それはもう、色々忙しいのだ。社交や、次期公爵夫人教育や、公爵家関連の儀式や儀礼に出席もしなければいけない。多少のお休みはあるのでそこで訓練する許可はヴェルディア様に貰っていて、必死に訓練してはいるが、この程度ではヴェルディア様との差はとても埋まるまい。


 そしてヴェルディア様は三日に一度は私を閨でお求めになる。……これはもう兎に角ハードで、きつくて、次の日は社交をこなすので精一杯。とても剣術の訓練をしている場合では無いのだ。むしろ夫との閨が一番の体力トレーニングなのではないかという疑いが無きにしも非ず。


 というわけで私は色々がっくりしてしまっていた。こんな筈じゃ無かった。こんな事なら彼と結婚出来ず、彼の実力を一生知らなければ良かったのでは無いか。私は何のためにヴェルディア様と結婚したのか。


 ある日、落ち込んだ私はつい、私の身支度を調えてくれている侍女に向かってそう愚痴をこぼしてしまった。その侍女は実はヴェルディア様の乳母だったという女性で、ヴェルディア様は彼女の事を非常に慕っているのだった。もう結構高齢の女性だったのだけど、いつも穏やかで頼りがいがある。私も何かと頼りにしてしまっていた。それでつい、弱音が出てしまったのだ。


 侍女は私の言葉を聞いて、フフフ、っと楽しそうに笑った。そして、私の髪をブラシで梳かしながら言った。


「本当にお似合いのお二人ですね。私は嬉しゅうございます。坊ちゃまが本当に相応しい奥様を娶られて」


 どこがよ。全然ヴェルディア様に敵わない私は、彼に相応しく無いんじゃないの?    


 すると、侍女は言った。


「坊ちゃまが奥様と初めてお会いした夜は大変だったのですよ『やっと私に相応しい女性が見つかった! 彼女こそ私の探し求めていた女性だ!』とね」


 ……なんですかそれ?


 侍女曰く、ヴェルディア様は大変興奮して、私が自己紹介してダンスで巧みに自分を売り込んだ事情を語ってくれたのだという。


「何でも『異名通り虎のような油断のならない目をして、私の欲する所を的確に見抜いていた。素晴らしい戦略眼だ。ダンスの切れからしてもあれは本当に強いぞ。チェスも巧みで頭も良い。彼女こそ私の妻に相応しい。いや、私が彼女に惚れた!絶対に彼女を妻に迎え入れるぞ!』という事でしたわ。その後も社交でお会いするたびに、エリナーレ様の事を大声で語るのですもの私は毎回思わず笑ってしまいました」


 私はちょっと耳まで赤くなってしまった。な、何ですかそれは! どうしてこんな虎女なんかを……。


「坊ちゃまは強いお方が好きなのですよ。男性でも女性でも。それは剣術の強さに限りません。心が強く挫けぬ者を好みます。エリナーレ様は女性なのにけして諦めぬ強さを持っていると感心なさっておいででしたよ」


 確かに、そんな強い心の持ち主は貴族令嬢にはいないかもね。というか、私しかいないだろう。彼と剣術試合がしたいからと、万難を排してどんな障害にも諦めず、彼の妻の座を勝ち取るなどという女は。この世のどこを探しても。してみると、どうやら私の企みや頑張りを、ヴェルディア様はとうにお見通しだったのだ。そう、最初から。


「ご婚約なさると、それはもう訓練に励んでいらっしゃいましたよ。『エリナーレは油断出来る相手ではない。もしも負けたら離縁されてしまうだろう。彼女を失わないためには私は強くあらねばならぬ』と仰ってね」


 ……そんなに訓練しなくても、とっくに私よりも強かったと思うんだけどね。でも、なんだかその彼の決意と努力がもの凄く嬉しい。私のために彼も頑張ってくれていたのだ。


「そんなお強い奥様が弱音を吐いてはなりませんよ。ま、こういう風に婆に漏らす分には坊ちゃまに内緒で聞いて差し上げますから」


 侍女は私の頭をポンポンと叩いた。私はちょっと鼻をすすりながら言った。


「ありがとう」


「いいえ。フフフ。お礼を下さるなら、私が生きている内に婆にお二人の子供を抱かせて下さいませ。まぁ、あの調子ならそれほど時間は掛からないと思いますけどもね」


 ……そうね。あの調子でされたらすぐにも出来てしまうわ。私は侍女と苦笑交じりの微笑みを交わし合ったのだった。



 その夜、私はベッドの上で仁王立ちになって叫んだ。


「私は絶対に諦めません!」


 ヴェルディア様は目を見開いて驚いた。


「何がだ?」


「貴方に勝つことを。いつか絶対、私は貴方に剣術で勝って見せます! ええ。何年掛かっても! よぼよぼのお爺さんお婆さんになってからでも良いわ! 兎に角いつか貴方に勝って見せます!」


 ヴェルディア様は楽しそうに微笑んだ。


「随分と気の長い話では無いか」


「ええ! でも大丈夫です! 私は貴方とこの先もずっとずっと一緒なのですから、いくらでも機会はありますからね!」


 私の宣言にヴェルディア様の表情が輝いた。そしてそれはそれは幸せそうに仰った。


「そうだな。ずっと一緒なのだから、いくらでも戦える。何度でも付き合ってやろう。勿論、その度ごとに夫婦の営みもこなしてもらうからな?」


 ふふん。私は笑った。


「いつまでもそっちもやられっぱなしではいませんことよ! 覚悟なさいませ!」


 ヴェルディア様はまた目を見開いて驚かれた。よし。この方の予想を超えてやったわよ! たかがこのくらいの事でも、彼に勝つための小さな第一歩なのだ。


「……大きく出たな? じゃぁその気合いの程を見せて貰おうじゃないか」


「喜んで。私の旦那様!」


 私はえいやとヴェルディア様に飛びつき、彼の唇を奪ったのだった。


――――――――――――

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新婚初夜のベッドで夫に勝負を挑んだ話 宮前葵 @AOIKEN

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