14話 あなたに読んでほしい

 部屋の隅のプリンターの上、置きっぱなしの原稿を見る。あの日都筑さんに断られて以来、持ち歩く意味もなくなりただ無造作に投げ出したままだ。俺はその原稿を手に取る。都筑さんに原稿を読んでもらうのは無理だ。また俺の思考は振り出しに戻った。


 宮原さん――今のイルミネアの編集長、その人に読んでもらえる。またとないチャンスだろう。今回の小説が駄目でも、コネができるかも知れない。


 俺がやりたかったこと、俺の夢とは一体なんなのか。雑誌に載りたい? 有名になりたい? 金持ちになりたい? どれも舞い上がるほど嬉しいし憧れもする。けど、「どこかの誰か」に認めてもらうよりも、俺は都筑さんに見てほしかったんじゃないのか。あの人の目で、あの人の感性で、俺の書いた小説を見てほしかったんじゃないのか――


 だが都筑さんは活字が読めない。……初めて会った時、彼のPCに表示されていた大きな文字は、原稿の一部を拡大したものだったのだろうか。あんなふうにたった数文字ずつを読み進めて行くなんて気が遠くなる作業だ。十万文字にもなる原稿を読んでくれなんて言えるわけがない。


 俺はネットで色々と調べてみた。ロービジョン、というのに当てはまるのだろうか。見え方は人によって様々らしいが、やはり相当の困難であるのは間違いない。そしてそれは他人に理解されにくい……その事実は俺に突き刺さる。


 それから俺は、なんとか都筑さん本人に俺の原稿を見てもらう方法はないか考えた。もしかしたらこの考えそのものが無理解なのかもしれない。そんな出口のない考えをグルグルと何度もループしながら、それでも都筑さんに見てもらう望みを捨てきれなかった。


 読み上げソフト——都筑さんが言っていたあれはどうだろうか。俺は評判の良さそうなテキスト読み上げソフトで試しに自分の原稿の一部を再生してみた。


 機械の合成音声が、淡々と平易に文章を読み上げる。確かに、文章の大意は伝わるだろう。ニュースならそれでいいかも知れない。だが俺はどうしても不自然な発音やが、情感を損なうのが気になった。もっと自然に、読んで聞かせることができたら。


 オーディオブック、というものがあるのを知って、俺はいくつか聞いてみた。プロの声優やアナウンサーが朗読する物語は、合成音声とは違って発音や文章の間も自然で、きちんと内容が頭に入ってくる。これくらい自然に読み上げられれば……そう思ったが、自分の原稿をオーディオブックにする方法など思いつかないし、プロに頼むような金もない。何日か悩んだ挙げ句、俺が自分で朗読するのが一番簡単だと気がついた。色々調べるとレコーダーで割と手軽にできるらしい。そう言えば講義で使ってる奴もいたなと思い出す。


 一番安いレコーダーを手に入れて、俺は自分の原稿を読み上げ、録音してみた。かなり高性能で、音質は十分聞ける程度だったが、周りの音を拾ってしまうので、俺は家中のあちこちで試した。風呂場は静かだが変に響いてしまって聞きにくい。自分の部屋だと隣のテレビの音が入ってしまう。夜中に玄関で読んでいたら突然ドアが開いてルームメイトが帰って来た。


 試行錯誤した結果、夜中にトイレで録音するのが一番静かで聞き取りやすかった。その日から俺は皆が寝たあとトイレに籠って自分の原稿を読み上げた。自分の小説とは言え、朗読は慣れていないので、途中でつっかえてはその度に録り直しをしていたらかなりの時間がかかった。


 何度も何度も自分の声を聞き直すという、なかなか恥ずかしい作業を繰り返し、一週間かかって小説の章ごとにいくつかのファイルに分け、ネットのファイル共有サービスに登録した。紙の原稿と録音データの二つを都筑さんに渡し、それで万が一にでも聞いてくれればそれでいい。


 あとはそのURLを都筑さんに渡し、運が良ければ聞いてもらえるかも知れない。俺はもう一度だけ勇気を振り絞り、諦めて捨てかけていた原稿の束と、音声ファイルのURLをメモした紙を再びリュックに入れた。



*****



 夏休み明け、特に変わり映えのない日常が戻ってきた。午前中のコマを多く取っているので、バイトは夕方から夜か、日曜が多かった。都筑さんは平日の午後に打ち合わせや仕事をしに来ることが多くて、夜に見かけることはほとんどなかった。


 久しぶりに午後の早めの時間に入れた日、いつも通りに冷蔵庫の中身をチェックして、生クリームやミルクのパック、砂糖などの重いものを補充する。俺は重いものを運んだり、高いところを片付けたりするのに重宝されるので、他の仕事が半人前の分、気が付いたところを進んで引き受ける。


 ホールに出るといつもの席で都筑さんが仕事をしていた。思っていたよりも急な展開に、俺は緊張して少し怯んだが、必死に深呼吸をして落ち着きを取り戻す。後でタイミングを見て声を掛けよう。帰り際にでも渡せたらそれでいい。


 一段落してホールに目をやると、こちらを見ている都筑さんと目が合った......ような気がした。俺を見ているわけではないのに何となくドキっとする。緊張しながらテーブルに近づいて、都筑さんに聞こえるように、こんにちは、と声を掛けた。


「ああ、やっぱり川瀬くんだ。背が高いから何となくそうかなと思って」


 都筑さんは俺を見上げながら言う。心なしか今までのような警戒が薄らいでいるように見えるのが嬉しい。


「この前はありがとう。急に付き合わせて申し訳なかった」


「いえ! こちらこそご馳走になってしまってすみません」


「気にしないで。それで、今日は持ってきてるの? 原稿」


「あ、はい、ロッカーにあります」


「それならもらっていくよ。もう戻らなきゃいけないんだ」


「はい! 持ってきます」


 俺は走ってバックルームに行き、ロッカーから原稿と、そしてURLを書いた紙を確かめて都筑さんの元へ戻った。厚みのある紙の束をダブルクリップで留めてある。俺はその一番上に四つ折りの紙を挟んだ。


 渡す時に、封筒にでも入れればよかったと少し後悔したが、都筑さんは受け取った原稿を薄いプラスチックの書類ケースにしまった。俺の原稿をそんなふうに扱ってくれて、俺は嬉しくてつい頬が緩んだ。


 こんなに良くしてもらって、俺は一生分の運を使い果たしたんじゃないかと心配になる。表紙のメモには気付いてもらえないかも知れない。けどそれでいいと思えた。帰っていく都筑さんの背中を、人混みの向こうに消えるまで見送って、俺はなんだかすぐにでも新しい小説を書きたい気分だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る